モルモン書のクラスで、今週は3ニーファイ15−21を読みました。これらの章にはキリストがアメリカ大陸に来られてニーファイ人に語られた内容なので、これまで自分ではよく学んであると思っていたのですが、いつでも、さらに多くのことを得ることができます。
今回新たに学んだのは、3ニーファイ18:1からです。「さて、イエスは弟子たちに、幾らかのパンとぶどう酒を持って来るように命じられた。」クラスでは、なぜイエスがこの戒めを与えられたのか、どうしてその理由を告げられなかったのか、そしてこのことは多分彼らにとっては不思議なことだと思われただろうということについて話し合いました。イエスはパンもぶどう酒も必要ではありませんが、私たちには必要です。時には、イエスは私たちにあることをするように求められても、その理由を告げられないこともあります。とにかく私たちはそのことをすべきであり、私たちは信仰を使って、とにかくそれを実行に移すのです。彼らはなぜパンを得て来るのが必要なのか分かりませんでした。しかし、彼らは戒められたので、とにかく行いました。
このことはまた、戒めがイエスのためではなく、私たちからは何も受ける必要はなく、主は私たちに主が必要であるから命じるということはないのです。理由は、まさに私たちがそうすることを必要としているからです。戒めは私たちのためであり、私たちがそれを必要としているのです。私たちがそれに従う必要があります。
このことは私がセミナリーで戒めについて話し合っていたことを思い出します。先生は、黒板に「戒めは。。。」と書いて、空白を埋めるという課題を与えました。私は彼が何を期待していたのかは分かりませんが、私の答えは、あまり良く考えたわけではありませんでしたが、戒めはシートベルトのようなものだと答えました。そのとき先生が私の答えを説明するように尋ねましたが、私には最初うまくできませんでした。しかしそれからそのことについて考えました。
戒めはシートベルトのようなものですが、それは私たちを安全に保ってくれるものです。そして、それはそれ程装着するのが難しくありません。多くの人はシートベルトが規制がましいとか不必要であると考え、使いません。実際にはそれは助けになります。シートベルトをしていても、車の中でしなければならないことは何でも行うことができます。戒めも同じです。私たちが人生でしなければならないことは何でも、戒めを守っていてもできることです。ここで学んだことを当てはめるならば、シートベルトは私たちのためであって、車に影響することはありません。運転すること、駐車すること、あるいはその他どんなことにも影響しません。それは、ただ私たちを守り、私たちに利益となるのです。
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