「完全な人が不完全な法廷で有罪を宣告されたのは、不完全な人が完全な法廷で無罪となるためです。」
この引用文は今週のクラスで私を強く感動させました。イエス・キリストの贖いの信じられないような性質について、また完全であるということについて非常にはっきりさせてくれます。かつてイエス・キリストの他には地上を歩いた人で完全な人はいませんでした。私たちのだれも主とまったく同じように生きることがなかったばかりでなく、これからだれもそのように生きることはできないでしょう。決して悪い言葉を使わず、決して意地悪な考えを持たず、裁きっぽい目で見ず、誤った行いをしないこと。完全な平安と幸福と謙遜の中で生活し、私たちが歩むべき道筋から寸分たりとも逸れることがなかったのです。それでは、どうやったら私たちはこの模範にかなった者になれるのでしょうか。私たちは既に自分が決して、ほんのわずかばかりであっても、主がそうであったようなレベルの完全さに近づくことができないことを知っています。これは圧倒させられるような、時にはがっかりさせられるような期待です。私たちは自分自身につまずきますし、自分自身を痛めつけてしまいます。自分がその努力をすることさえ信じることもできません。私たちは自分自身のことを断念し、最善を尽くしても期待に添えないと諦め、自分は決して十分よくなることはできないと考えてしまいます。
でも、できます。
「完全な人が不完全な法廷で有罪を宣告されたのは、不完全な人が完全な法廷で無罪となるためです。」
私たちは完全となるように求められています。私たちは救い主に似た者になるように求められています。偉大な者になるように期待されています。そして、そうなることは可能です。
私たちが引き上げられる前に、イエスは十字架の上に引き上げられなければなりませんでした。
私たちは自分の成す業によって裁かれますが、私たちが自分たちのやったことで裁かれる前に、主は私たちのやったことで裁かれなければならないのです。
主は私たちのために偉大な方でした。主は私たちのために期待を高く設定なさいました。私たちに対して完全であられました。そして、私たちのために死なれました。
主が死なれたのは、私たちが主がなられたような者になることができるためです。私たちが完全になることができるためです。私たちが偉大な者になれるためです。私たちが期待に応えることができるためです。私たちは一人ではそれができません。しかし、主を通して、主の無限の、愛に満ちた、完全な贖いがあるので、私たちはそれを達成できます。私たちは無罪となれるのです。実際には無罪ではなくとも、もし悔い改め、全面的に主のもとに来ることによってだけ、無罪とされるのです。主は私たちを愛し、私たちが再び主と住むことができるようになることを望んでおられます。私たちは主の決して尽きることのない愛と助けによってそれをすることができます。
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