「火によるバプテスマ」とは聖霊による清めで、聖霊は真実を証し、聖霊の賜物を付与されることによって受けられます。
「聖句ガイド」は「火」を「清める、純粋にする、聖なるものにすることに対する象徴である。火はまた神の臨在を象徴する。」と定義しています。
末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしばはからずも「モルモン」教会と呼ばれる)の福音の中で「火によるバプテスマ」は2番目の「バプテスマ」であり、水に沈められるバプテスマの後、聖霊によって清められることを意味しています。
「聖句ガイド」には「火」という項目のところでさらにガイドが与えられています。
「聖霊は精錬する者の火のようです。(マラキ3:2;3ニーファイ24:2;教義と聖約128:24)『その来る日には、だれが耐え得よう。その現れるときには、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。』(マラキ3:2−3)」
モルモン書の預言者ニーファイは私たちがどのように火のバプテスマと聖霊を受けるかについて説明しています。(2ニーファイ31:13−14;3ニーファイ9:20;3ニーファイ12:1;3ニーファイ19:13;エテル12:14;教義と聖約33:11)
「したがって、わたしの愛する同胞よ、もしあなたがたが十分に固い決意をもって御子に従い、神の前に決して偽善と欺きを行うことなく誠意をもって行動し、罪を悔い改め、バプテスマによって、まことに、あなたがたの主であり救い主である御方に従い、主の言葉のとおりに水に入り、バプテスマを受けることによって、キリストの名を喜んで受けることを御父に証明するならば、見よ、そのとき、あなたがたは聖霊を受ける。すなわち、そのとき火と聖霊によるバプテスマを受ける。するとあなたがたは天使の言葉で語り、イエスラエルの聖者に賛美の声を上げることができるのである。わたしはそれを知っている。しかし見よ、わたしの愛する同胞よ、御子の声が次のように聞こえてわたしに言われた。『あなたがたは罪を悔い改め、水によるバプテスマを受けることによってわたしの戒めを進んで守ることを御父に証明し、火と聖霊によるバプテスマを受け、新しい言葉、すなわち天使の言葉で語れるようになった後に、わたしを否定するのであれば、わたしを知らなかった方があなたがたのためによかったであろう。』」(2ニーファイ31:13−14)
デヴィッド・A・ベドナー長老は火のバプテスマに関して、 清めだけでなく、性格や性質を変えるものであることについて話しています。
私たちは自分たちの堕落した性質が聖霊の清めの力によって変えられるように戒められ、教えられています。マリオン・G・ロムニー管長は聖霊による火によるバプテスマは「私たちを肉欲に従う状態から霊的な状態に変えるもので、それは私たちの魂を清め、癒し、純化させます。(中略)主イエス・キリストに対する信仰、悔い改め、水によるバプテスマはマナそのための準備であり、前提条件です。しかし、〔火のバプテスマ〕は焼き尽くすものです。これを受けるということは、自分の衣服をイエス・キリストの贖いの血で洗うことです。〕(「永遠のための学び」、ジョージ・J・ロムニー編集、1977年、133ページ;3ニーファイ27:19−20参照)
かくして、私たちが生れ変わり、いつもみたまが共に居て下さるように努力するとき、聖霊はまるで火によるように私たちの魂を清め、洗練して下さいます。(2ニーファイ31:13−14、17参照)究極的には、私たちは神の御前に汚点のない者として立つことができるのです。
イエス・キリストの福音は、罪やこの世の悪い影響を避け、克服し、それから清められることをはるかに越えたものです。それと同時に、良いことを行い、善良な者となり、さらによりよい者になることを含んでいます。自分たちの罪を悔い改め、赦しを求めることは霊的に必要なことであり、私たちはいつもそうしなければなりません。しかし、罪の赦しを得ることは福音の唯一のものでも終局的な目的でもありません。聖霊によって心が変えられ、「わたしたちが悪を行う性癖をもう二度と持つことなく、絶えず善を行う」(モーサヤ5:2)になることは、ベニヤミン王の民が行ったようにするのは、私たちが受け入れた聖約のもとにおける責任なのです。この大いなる変化は、単に一生懸命働いたからとか、あるいはより自分を自制したから得られるものでもないのです。むしろ、これは私たちの願いや、動機や、性癖が根本的に主キリストの贖いによって変わった結果なのです。
モルモン書の3ニーファイ11:35で 教えられていることは、私たちのイエス・キリストと父なる神に対する信仰が、聖霊の火による清めによって確認されることです。
「まことに、まことに、あなたがたに言う。これがわたしの教義である。わたしは、父から告げられたとおりにこれを証する。わたしを信じる者は父をも信じるのである。その者に、父はわたしのことを証されるであろう。父はその者に火と聖霊を与えられる。」
マリオン・G・ロムニー長老はまた「火によるバプテスマ」はバプテスマの儀式の後に聖霊の賜物が付与されることに伴うと述べています。聖霊の賜物は聖霊が一時的に証すること、あるいはキリストの光とは異なります。後者は地上のすべての人に与えられます。聖霊の賜物は、福音を受け入れ正しい権能をもった人によってバプテスマを受けて真実の教会に入った人に与えられます。
ロムニー長老はこのトピックについてのイエスの教えについて述べています。
「パウロは奥地をとおってエペソにきた。そしてある弟子たちに出会って、彼らに『あなたがたは、信仰に入った時に、聖霊を受けたのか』と尋ねたところ、『いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません』と答えた。『では、だれの名によってバプテスマを受けたのか』と彼がきくと、彼らは『ヨハネの名によるバプテスマを受けました』と答えた。そこで、パウロが言った、『ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである。』人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、予言をしたりし出した。」(使徒行伝19:2−6)
主の末日の教会における長老たちの義務を説明して、主は様々な事柄の中で、次のことを述べられました。「バプテスマを受けて教会に入る人々に、聖文にあるとおりに、火と聖霊によるバプテスマのための按手による確認を行」(教義と聖約20:41)なうようにと。
主は、何人かの兄弟を宣教師の奉仕活動に召されて、次のように述べられました。
「それゆえ、わたしたちはあなたがたに一つの戒めを与える。あなたがたはこの民の中に行き、その名をペテロといった昔のわたしの使徒のように、彼らに言いなさい。『(中略)主イエスの名を信じなさい。悔い改めなさい。そして、聖なる戒めのとおりに、罪の赦しのためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。だれでもこれを行う者は、教会の長老たちの按手によって聖霊の賜物を受けるであろう。」(教義と聖約49:11−14)
2007年の同じ説教の中で、ベドナー長老は私たちの着実に霊的に進歩することと、火によるバプテスマが継続するプロセスであることを慰めの言葉として述べました。彼は私たちに完成は一度に達成できるものではないこと、救い主の贖いは私たちが悔い改める時にだれにも与えられもので、私たちが過ちを犯す時にも与えられるということを思い出させてくれました。
「このメッセージを聞いている人の中には私が語っている霊的な進歩は自分たちには得られないと思っている人がいるかもしれません。これらの真理は他の人には当てはまっても自分には当てはまらないと感じているかもしれません。私たちは完全な状態はこの世では得られないでしょうが、私たちはキリストに信仰を持って、細くて狭い道を永遠の目標に向かって前進することが、できますし、またそうするべきです。主の霊的な発達についてのパターンは「ここにも少し、そこにも少しと、教えに教え、訓戒に訓戒を加え」(2ニーファイ28:30)ることです。小さくても着実に少しずつ霊的に改善することが主が私たちに望んでおられることです。神の前に罪なくして歩むように備えることがこの世での主な目的で、一生涯かけて努力するべきことです。これは高いレベルの霊的な活動をするとしても、たまにしか行わないのであれば、このような結果は得られません。私は救い主が私たちを強め、助けて継続的な、適度なスピードで成長することができるようにして下さることを経験してきました。モルモン書の中の古代の教会の中の「大勢おり、非常に多くの数に上った」(アルマ13:12)人々が神の前に清く、染みのない状態にあったと知ると、私は励まされ、慰められます。私はこれらの古代の人々も私たちのような普通の人たちであったと思います。これらの人々は罪を見て忌み嫌うのを禁じることができず、「主なる神の安息に入った」(12節)のです。そして、これらの原則とこの霊的な進歩のプロセスは私たち一人一人に、またいつも当てはまります。