byustudent によって掲載、2013年4月10日

私は「快楽」とともに1マイル歩いたが、

彼女は道中ずっとしゃべり続けた。

しかし、私は彼女と話したことで

少しも賢明にならなかった。

私は「悲しみ」とともに1マイル歩いた。

彼女は一言も語らなかったが、

おお、何と多くのことを彼女から学んだことだろう、

悲しみが私とともに歩いてくれた時に。

ロバート・ブラウニング・ハミルトン

 

時々、人生の悲しみやチャレンジを通して、この詩が示唆しているように、私たちは最も成長します。先週クラスで人生は嵐のようなものだということについて話しました。モルモン書の中で、ヤレド人という民が出てきて、何千年も前に、アメリカ大陸に移ってきました。彼らは船を造り、海を渡りました。彼らの旅は人生の旅に似ています。

エテル6:5−6に、「そこで主なる神は、水の面に約束の地に向かって吹く激しい風を起こされた。そのために、船は追い風を受けて海の波の上を運ばれていった。そして船は、砕ける山のような波と、激しい風によって生じたすさまじい大暴風のために、何度も海の深みに沈められた。」と書かれています。

さて、なぜ神は水の上にそのような「激しい風」を起こさなければならなかったのかと考えるかもしれません。なぜ神は彼らの航海の間に、よい天候と晴れ渡った空を与えなかったのでしょうか。もし私たちの人生の旅が、いつも易しい行程で、よい天気に恵まれていたとしたらどうでしょうか。私はうれしいですが。しかし、とどまって、よく考えると、一番厳しい時にこそ、また一番悲しい時にこそ、私たちは成長し、神に近づくのです。私たちがこの地上にいるのは、成長し、進歩してもっと救い主のようになるためです。神は天の父で、私たちがその可能性に到達するために、何が最善のことかご存知です。

上の詩の中で、作者が「快楽」と共に歩んだとき、「少しも賢明にはならなかった」のです。しかし、彼が「悲しみ」とともに歩んだ時、「おお、何と多くのことを彼女から学んだことだろう」というほど多くのことを学んだのです。私たちは人生が快晴のようであって欲しいと望みますが、一番暗い時にこそ、私たちは主に頼り、重荷を主に担っていただこうとするのです。私は神が私たちに試練を与え、私たちがもっとイエス・キリストのようになれるようになさることを知っています。嵐がひどくなった時には、人生についての適切な見方が保てるようにすることを覚えておいて下さい!もし救い主に頼るならば、私たちは皆、乗り切ることができると知っています。

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