2013年10月25日、by テリー・リン・ビトナー

モルモンが聖書と対をなすと考えているモルモン書には、改宗によっていかに人生が変わるかという驚くべき話が書かれています。この話に登場する人々は、神は、重大な罪でさえも赦され、間違った選択をしたと認識することによる痛みを取り去られるということを学びました。モルモンとは、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員を表すのに用いられることのあるニックネームです。

レーマン人として知られる人々についての話です。彼らは、戦いを好み、血を求める人々でした。しかし彼らのうちのある人々は、宣教師から主イエス・キリストについて学んだ後、改宗しました。何が道徳的に正しいのかを理解すると、単なる娯楽や些細な意見の不一致のために行った不義の戦いで犯した、多くの人殺しの罪に恐れおののきました。

悔改めが、自分自身を赦せるようにする

atone-christus-peace-lf宣教師アンモンは、悔改めの方法を教えました。彼らは、適切な順序に従って、それを行いました。最初に、罪を犯したということを理解しました。2番目に、その罪に対して深く悲しみました。次に、罪を告白し、赦しを請いました。それから、罪を捨て、新しい人生に進む必要がありました。できるならば、生じさせた被害を元通りにするよう試みなければなりません。(死を元通りにすることはできませんが、傷つけた人々と手を携えることにより、平安と慰めをもたらすことができます。)彼らは、たとえ義なる戦争であっても、戦うことが依然の習慣と態度に逆戻りさせるのではないかととても恐れたので、剣を埋め、二度と戦わないと神と聖約(約束)を交わしました。

残念なことに、改宗しなかったレーマン人がまだいて、以前の同胞と戦うことに大変意欲を燃やしていました。アンタイ・ニーファイ・レーマン人、またはアンモンの民として知られる新しい改宗者たちは、敵が襲撃し、多くが殺された時でさえも戦うことを拒みました。彼らの予期しなかった対応が、さらに多くのレーマン人を改宗させました。しかし、多くは依然として改宗せず、大きな危険がありました。

ニーファイ人として知られたアンモンの民は、彼らを自分の地に来て共に住むよう招きました。彼らは同意しました。アンモンの改宗者が食料と衣服を提供し、ニーファイ人の軍が代わりに守るのです。

新しく改宗したクリスチャンにとって、自分がどうであったか、何が間違いであったか気づいた時に、途方もなく大きい自分の罪と向き合うことは、とても難しいことでした。後に王は、人々にこう話ました。

さらに、わたしの神、まことに大いなる神は、我らがこれらのことを悔い改められるようにしてくださり、またこれまでに犯した多くの罪と殺人の罪を赦し、神の御子の功徳によって我らの心から罪を取り除いてくださった。わたしはこのことも神に感謝している。」(アルマ24:10)Alma 24:10

贖罪が、喜びをもたらす

これらの人々がそれまでに犯した罪を手放すことができたのは、贖罪のおかげです。贖罪というと、死後どのように強い影響を与えるかとしばしば考えますが、贖罪は実際には、私たちの毎日の生活に影響を与えます。喜びに満ちた生活を可能にし、心の平安を与えます。モルモンの指導者ボイド・K・パッカーが、機関紙Ensign2001年5月号(またはリアホナ2001年7月号にある「主の御手」という記事で、この事柄について述べています。

パッカー長老は、多くの人が、罪悪感を積み重ねつづけ、全く不必要なのにもかかわらず罪の意識と恥ずかしさを感じ、生涯苦しんでいることを指摘しています。多くの人は、贖罪は私たちをアダムとエバの堕落から贖うためだけにあると思い、それがもたらす他の素晴らしい贈り物を見落としています。

「日常生活において求めることのできる,常に存在する力です。責めさいなまれ,苦しみを受け,苦痛を味わうとき,あるいは悲嘆に暮れているときに,主はわたしたちを癒すことがおできになります。わたしたちはキリストの贖罪がどのようにして行われるのかを完全に理解してはいませんが,『人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安』を経験することはできます。」

私たちの日々の生活において、私たちは間違いをするでしょう。それは死すべき体を持った人間の性質です。しかし、私たちが心からの完全な悔い改めをすると、神はその罪を忘れられ、私たちは前に進む必要があります。自分の行いに対する代価を支払い、イエス・キリストの贖罪を完全に信じる時に、私たちには心に平安を感じて生活する権利があります。それだけをすることができるのです。贖罪の祝福を享受するのに、死ぬまで待たないでください。人生を変える原則を今日活用し始め、神が私たちに約束されて平安を見出してください。