ジョセフ・スミス文筆集のプロジェクトは、現在進行中のプロジェクトで、スタートしてから14年以上になります。ジョセフ・スミス・ジュニア個人、又は彼の指導下で誰かによって書かれたあらゆる草稿や文書を捜し、集め、出版するという企画です。文書には日記、個人的な手紙による交信、説教、啓示、ビジネスや法的な文書、ジョセフ・スミスの自伝的な記録などが含まれ、それらのすべては編集され、書き写され、注が付けられ、最先端の技術を駆使して出版されています。
このプロジェクトはモルモン教の教会歴史部門に支援されています。教会歴史部門の出版部門と教会歴史出版の指導のもとで、ウェブサイトが管理され、それぞれの分冊が出版されています。
目次
- 預言者ジョセフ・スミスの殉教
- ジョセフ・スミス文筆集プロジェクトの年譜
- シリーズの第3分冊の出版過程
- シリーズの区分
- プロジェクトの進展
- 新たな出版-文書、第2分冊
- ウェブサイトの変更
- そのほかの資料
1.預言者ジョセフ・スミスの殉教
ジョセフ・スミスは、イリノイ州カーセージの牢獄で、1844年6月27日のおよそ午後5時に、モルモン教の敵の手によって暗殺されました。彼の兄弟、ハイラム・スミスも暗殺されました。ジョン・テイラーも、同じ牢獄の中にいて、ひどく傷を負いましたが、後になってジョセフとハイラムについて、「宗教のために殉教した」として、福音の回復は、「最も尊い血を犠牲にしてもたらされた」と宣言しました。[1]教義と聖約135:1−3、6に記録されている現代における聖典には、その憂鬱な日に起こった出来事が記されています。
この書と「モルモン書」の証を確実なものとするために、わたしたちは、預言者ジョセフ・スミスと祝福師ハイラム・スミスの殉教を発表する。彼らは、1844年6月27日午後5時頃、カーセージの監獄において、150名から200名の、顔を黒く塗り武装した暴徒により銃撃された。ハイラムが最初に撃たれ、「わたしは死ぬ」と叫んで静かに倒れた。ジョセフは窓から飛び降りたが、その途中で撃たれ、「おお、わたしの神、主よ」と叫んで死んだ。彼ら二人は死んだ後も残酷に銃撃され、両者とも四個の弾丸を受けた。そのときにその部屋にいたのは、十二使徒の二人、ジョン・テイラーとウィラード・リチャーズだけであった。前者は四個の弾丸を受けてむごたらしく負傷したが、後に回復した。後者は、神の摂理により、その服に一つの弾丸も受けることなく逃れた。主の預言者であり聖見者であるジョセフ・スミスは、ただイエスは別として、この世に生を受けた他のいかなる人よりも、この世の人々の救いのために多くのことを成し遂げた。二十年という短期間のうちに、彼は、彼自身が神の賜物と力によって翻訳して、両大陸で出版する仲立ちとなった「モルモン書」を出して、その書に載っている完全な敬遠の福音を地の四方に送り出し、人の子らのために「教義と聖約」という本書を構成する数々の啓示と戒め、およびそのほか多くの知恵ある文書と指示を出し、何千人もの末日聖徒を集め、一つの偉大な都市を建設し、覆されることのあり得ない誉れと名声を残した。彼は神とその民の目に偉大な者として生き、偉大な者として死んだ。そして、昔の、主の油注がれた者のほとんどがそうであったように、彼は、自らの血をもって自分の使命と業を証明したのである。彼の兄ハイラムも同様であった。彼らは生前に分たれることはなく、また死後も離れることはなかった。ハイラム・スミスは、1844年2月で44歳であり、ジョセフ・スミスは、1843年12月で38歳であった。今後、彼らの名は殉教者の中に加えられる。そして、あらゆる国の読者が、あれた世を救うために「モルモン書」と当教会の「教義と聖約」という本書が十九世紀の最も尊い血を犠牲にしてもたらされたことを思い起こし、また、もし神の栄光のために火が生木を損なうことがあり得るとすれば、腐ったぶどう園を清めるために枯れ木を焼き払うのはどれほど容易であるかを思い起こすであろう。彼らは栄光のために生き、栄光のために死んだ。そして、栄光が彼らの永遠の報いである。彼らの名は、代々にわたって子孫に伝えられ、聖められた者にとって宝石のように見なされるであろう。
2.ジョセフ・スミス文筆集プロジェクトの年譜
ジョセフ・スミスの死に続いて、彼の書類はブリガム・ヤングや他の教会の指導者によって西部に運ばれました。そのほかの大事な記録は、モルモン書の8人の見証者の1人であるジョン・ホイットマーやジョセフの寡婦となったエマ・スミスや他の人たちの手元に残りました。これらの記録の多くは後になるまで、イエス・キリスト教会、キリストの共同体(以前は再建末日聖徒イエス・キリスト教会と呼ばれていた)、あるいは独立した研究者によって出版されませんでした。
このプロジェクトは1960年代の後半に始まりました。それは、教会の歴史事務所で働いていたディーン・C・ジェシーが、ブリガム・ヤング大学(BYU)の宗教および哲学の名誉教授であり、中近東研究のエルサレムセンターのディレクターでもあったトゥルーマン・G・マドセンによって招かれて、BYU研究のジョセフ・スミスと初期のモルモニズムというテーマの論文集に資料を提供したときに始まります。1972年にレオナード・J・アリングトンが教会の歴史家として任命され、彼はジェシーに、ジョセフ・スミスが書いたものを見つけ、集め、書き写す作業を続けるように指示しました。1984年にジェシーは「ジョセフ・スミスの個人的な記録」を出版し、それに続く2巻が「ジョセフ・スミスの文筆集」として名づけられました。最初のものは1989年に、2番目は1992年に出版されました。
2001年にBYUとモルモン教のアーカイブが協力し、そのプロジェクト名を 「ジョセフ・スミス文筆集」と再命名することを決定した時、このプロジェクトがジェシーにより拡大されました。
2004年の8月に、このプロジェクトは国家歴史出版と記録委員会(NHPRC)という国家の記録保管所の一部門によって奨励を受けて、研究が最高の学問的な標準によって行われるように取りはかられました。そのプロジェクトは、2005年に教会の歴史部門に戻されました。このプロジェクトの公式の部分ではありませんが、テレビのドキュメンタリーのシリーズが、同じ「ジョセフ・スミス文筆集」の名前で創作されました。このシリーズはこの文筆集の創設と業績についてのドキュメンタリーです。これはLDS教会歴史部門との共同作業で、KJZZテレビが制作しました。[2]
2008年の2月、教会歴史出版は、モルモン教の教会歴史部門の出版組織ですが、「教会の起源と発展についてを出版するために」設立されました。「ジョセフ・スミス文筆集」はその出版会の最初のプロジェクトです。[3]
3.シリーズの分冊の過程
解像度の高いオリジナルな文献の多くがブリガム・ヤング大学の出版会から2002年に、末日聖徒イエス・キリスト教会の記録保存庫からの選別されたコレクションの一部として出版されました。2つの分冊には1830年から1923年に及ぶ76のDVDに収められた画像が収録され、1831年から1844年までの、ジョセフ・スミスのコレクションの全体、1831年から1876年までの啓示の収録、ノーブー神殿の設計図、ジョセフ・スミスが出席したないしは監督した集会の議事録をまとめた数分冊が入っています。あちこちに分散している保存場所や個人が所有しているジョセフ・スミス文書に加えて、このDVDのコレクションからのジョセフ・スミス関連の文献の転記されたものに注釈を加えた資料によって、アメリカの宗教史の研究者、歴史家、研究者、さらには一般人がこれらの文献をずっと容易に調べることができるようになりました。[4]
一つの分冊が出版される前には、その中にある転記された文献や草稿が3度にわたって確認され、それぞれの文献についての歴史的な文脈が註釈されます。それぞれの分冊に書かれた情報に最高の質と正確さが保たれるように、すべての脚注や、参考文献のリストも確認されます。そして、複数の生産編集長によって相互にチェックされ、それから編集されます。実際の草稿はプロジェクトの編集長によって検閲され、最後の草稿は外部の研究者やイエス・キリスト教会の教会幹部によって再吟味されます。
2008年の12月に、「ジョセフ・スミス文筆集:日記」、第一巻:1832−1839は、シリーズの最初のものが出版されました。一巻は50ドルで、高い需要があって、最初の1万2500冊は2週間で売り切れ、出版社は第2版を1万6500部に増加しました。その年のクリスマスのプレゼントとして送ろうと、多くの消費者はギフトカードを使い、第2版を購入し、第1版は小売価格の2倍以上で販売されました。2009年の10月10日までに、第一巻の48000部が売れました。
「ジョセフ・スミス文筆集:啓示と翻訳」第1巻:啓示の草稿書、シリーズの第2弾は2009年9月23日に販売されました。最初の販売予想は3000部でしたが、再び需要が高く、デゼレトブックの書店で6100部が売られ、2週間以内に、さらに1万1000部以上の予約が入りました。
2008年に「日記、第1巻:1832−1839」はモルモン文学協会から文芸評論と文献リスト特別賞を受賞、2009年にはモルモン歴史協会からはスティーブン・F・クリスチャンセン最優秀ドキュメンタリー賞を受賞しました。 [5]
この記事はモルモンウィキに投稿されたものです。
「モルモン書」の金版からの翻訳の様子は、よく聞きます。ジョセフ・スミスにより口述された文章を 他のものが二人いましたね?書きとる。最初に翻訳された部分は、無しとせざるを得ない状態となったことが知られています。では今私たちの読むことのできる、もう一つの版からの翻訳された最初の原稿(?)は紙に書きとられ、印刷され広まったと思いますが、そのもとになった際s後の原稿は今どうなっているのかいつも考えてしまっています。
その通りですね。もう一つの方のいきさつがこちらです。「印刷用と呼ばれるもう一部の原稿は、1831年に初版出版された際に使用されました。1837年にオハイオ州カートランドで第二版が出版された際にも同じ原稿が使用されました。後に原稿は、モルモン書の三人の証人のうちのひとりであるデビッド・ホイットマーにより管理されました。ホイットマーは後年、原稿が奇跡的に、ひどい嵐や、泥棒の手から守られたことを人々に話すことに喜びを感じていました。
その後、原稿は復元イエス・キリスト教会(the Reorganized Church of Jesus Christ of Latter-day Saints、現在はthe Community of Christ)に渡り、同教会の厳重な管理のおかげで、何世代もの人がこの重要な書物を学ぶことができたのです。」