下に引用したのは、ランダール・J・ブラウンの著書「キリストを経験する:救い主への個人の旅」(50−52ページ)この本は2009年にシーダー・フォートから出版されました。この引用の中でブラウンは私たちが、自分の使命を実現するように主に助けていただくために、自分の意志を主の意志に転換することの必要性を議論しています。私は今日この本のここの部分をたまたま「偶然に」読んでいて畏敬の念を感じていました。というのは今朝私の個人的な聖典研究で、彼が取り上げたトピックそのものについて学んだところだったからです。それは古代に行われていた割礼についてでした!ブラウンはその聖約のしるしの象徴的な意味について説明し、それが、私たちが主に近づくように助けるためにどのように私たちの生活に当てはまるのかについて説明しています。ブラウンは末日聖徒イエス・キリスト教会(時々誤って「モルモン教会」と呼ばれる)に所属しています。
身を任せることを経験する
古代のイスラエルにとって、割礼はアブラハムの聖約のしるしでした。それを受ける者は、その特権を享受すると同時に、その聖約の責任も負いました。これは神への献身と世俗や罪からの分離を象徴しました。
コーリーン・ハリソンは、その著書「主は私を束縛から解放してくださった」の中で、聖約のしるしとして主は何と変わったことを選ばれたかということについて述べています。なぜ、主は何か、とても内密で、とても個人的で、とても微妙なことを選ばれたのでしょうか。(コーリーン・ハリソン、「主は私を束縛から解放してくださった」、62ページ)
聖典の中で、主は他の意味での割礼について話しています。心の割礼です。「心に割礼のない者は災いである。彼らは終わりの日に自分の罪悪を知って打たれるからである。」(2ニーファイ9:33)心の割礼は、「マスターである医師」だけが執行できる正確さと技術を要求するハイテクの外科手術です。私たちは心をさらけ出して、主の目の前で、開かれ、えぐりとられ、浄められるのです。霊的な心の割礼は、肉体の割礼とよく似ていて、絶対的な謙そんさが要求されます。それは私たちの性質の最も親密で、内密な部分を開き、さらけ出すからです。私たちはすべてを、善なるものも悪いものも、主の前に差し出し、主が首尾よく切り開き、切り取ることができるようにして、不浄なものや不純物だけでなく、私たちの荒野での旅に不必要なものを切除していただくのです。主は、その代わりに、新しい心を与えてくださいます。それは主の心に似たものです。
預言者エゼキエルを通して主はイスラエルに語って教えられました。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」(エゼキエル36:26)
これは心が大きく変わるプロセスで、パウロもそのことについて次のように語っています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)
エズラ・タフト・ベンソン大管長は、おっしゃっています。「自分の生活を神に捧げる人々は、自分の生活から自分自身ではできないほど多くの意味を見いだします。主は彼らの喜びを深め、視野を広げ、知性を高めてくださいます。」(「エズラ・タフト・ベンソンの教え」、361ページ)
ヘンリー・B・アイリングは夜を徹して人生の非常に大切な決定について祈っていました。主の意志を知る必要を感じ、次のことを経験しました。「私は次のように祈っていました。『天のお父様、私が何を欲していようとかまいません。もう自分が何を願っているかということは問題にしていません。私は御心がなりますようにとだけ願っています。それだけが私の願っていることです。どうぞ私にすべきことをおっしゃってください。』その瞬間、私は今までになかったほど心が静まりました。そして、メッセージがやって来ました。そして、それがどなたから来たものか分かりました。私がすべきことははっきりしていました。私は結果がどうなるか全然約束を受けませんでした。私は子供として主が私に望んでおられる自分が行くべき道筋が何であるかを告げられたということだけを確信していました。」(ヘンリー・B・アイリング、「子供として」、エンサイン、2006年5月、14−17ページ)
ヤコブは教えています。「主に助言しようとしないで、主の手から助言を受けるようにしなさい。見よ、あなたがたは、主が、造られたすべてのものに知恵と公正と深い憐れみをもって助言を与えられることを知っているからである。」(ヤコブ4:10)
純粋に自分を委ねるということは次のように喜んで言うことです。「天のお父さん、この問題、痛み、病気あるいは状況があなた様の目的、栄光を私の生活あるいは他のだれかの生活の中で成就されるために必要でしたら、どうぞそれを取り除けないでください。」(リック・ワレン、「目的意識を持った生活」、81ページ)C.S.ルイスは次のように言っています。「私たちが神に自分の生活を支配させればさせるほど、ますます自分らしくなります。なぜならば、神が私たちを造られたからです。」(C.S.ルイス、リック・ワレンの「目的意識を持った生活」に引用、80ページ)私たちはすべてのものを主に捧げるだけの信仰と信頼が持てるでしょうか。私たちのすべての後悔、現在の問題、将来への野心を恐れや夢や習慣や痛みなどと共に主に向けることができるでしょうか。私たちはイエス・キリストを私たちの生涯の運転席に座っていただき、パウロと同じような確信を持って次のように言えるでしょうか。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:13)
詩篇の著者は、「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」(詩篇127:1)と書いています。C.S.ルイスは家を建てることについてうがった見解を述べています。
「自分が生きている家だと想像してください。神がその中に入って来られその家を建て替えようとなさいます。最初は、神がなさっていることを理解できます。下水の流れを良くし、屋根の水漏れを直し、などです。それらのことが必要だと分かっているので、驚きません。しかし、今神はあちこちたたき回って、ひどくいためるようなやり方で、あなたには訳が全然分かりません。 一体何をしようとしているのでしょうか。その説明は、神が、あなたが考えていたのとはかなり違った家を造っているのです。ここに出っ張りを付け、そこに余分な床を造り、塔を築き、中庭を造ります。あなたは、適度な小さい小屋を作ろうとしていたのですが、神は宮殿を造ろうとしているのです。神がそこにはいって来て、御自分もそこに住まわれようとしているのです。(C.S.ルイス、「単なるクリスチャニティー」、176ページ)
私たちが自我を払い除けて、主に私たちの生活を建てさせるように進んで行わない限り、私たちは自分の家を出来損ないのものとして建ててしまいます。自分自身の意志にしがみつくといううぬぼれと不信仰は、私たちがキリストを経験する特権を否定します。それ以外の方法はないのです。
私は私たちの救い主イエス・キリストについてもっと学べるように招待致します。そして主がどのようにしたらあなたにとってのマスター医師として親身にあなたの健康のことを診て下さるようになるのか、モルモン書:イエス・キリストについてのもう一つの証を、祈りをもって研究し、モルモンの宣教師と集会をもつことによって学ばれるようにお勧めします。私はモルモン書を聖書に次ぐ第2の証として何回も研究しました。モルモンの宣教師ともいっしょに過ごしました!私は自分の個人的な経験により、その両方のことをすることが、イエス・キリストに近づくために本当に役立つことを知っています。そのようにすることは、だれにとっても得るべき神聖で聖なる機会であることを知っています。
この掲載はアシュリーによって投稿されました。アシュリー・ベルは22歳の妻、母、BYUの卒業生、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。アシュリーは走ること、料理、園芸、読書が好きで、何よりも家族や友だちと過ごすのが好きです。