19世紀前半のアメリカでは、新しい宗教運動が各地で生まれました。そうした動きの中には、地域社会の対立を生み、やがて州レベルの政治問題、さらには暴力事件にまで発展していったものもあります。その渦中にいた人物の一人が、ジョセフ・スミスでした。
教会の公式資料では、対立が大きくなった理由として、教義上の違いだけではなく、宗教的少数派に対する暴徒の迫害、そして法制度や行政が十分に機能せず、それを十分に止め救済できなかったことが繰り返し強調されています。
本記事では、当時の社会状況と一次資料・歴史研究に基づき、なぜこの運動がインターネットがない時代に、大きな社会問題として扱われるようになったのかを整理します。

宗教復興運動の時代背景
1820年代から1830年代のアメリカは、いわゆる第二次大覚醒(Second Great Awakening)の時代でした。宗教をめぐる熱気が高まり、社会全体が「信仰の語り」で動いていた面があります。
- 各地で宗教復興集会が開かれた
- 新宗派や宗教運動が次々に誕生した
- 個人的な回心体験や啓示が重視された
中でもニューヨーク州西部は特に宗教活動が活発で、「Burned-over District(焼け尽くされた地域)」と呼ばれていました(Whitney R. Cross 研究)。こうした空気の中で、ジョセフは1820年に最初の示現を受けたと後に証言し、1830年に『モルモン書』を出版します。

印刷文化の発達と情報拡散
19世紀前半のアメリカでは、地方新聞が急増しました。情報が広がるスピードが上がり、宗教論争も「その地域の出来事」で終わりにくくなっていきます。
- 1830年代には数千の新聞が存在
- 宗教論争は新聞の主要な話題
- パンフレット文化が活発
『モルモン書』の出版後、地元紙(例:Palmyra Reflector)に批判記事が掲載されました。印刷技術の普及によって、地方で起きた出来事も、以前よりずっと広い範囲に伝わりやすい環境が整っていたのです。
また、教会公式ホームページにある「教会史のテーマ」からも、噂や対立的な報道が状況を悪化させ、遠方の政治指導者が誇張情報の影響を受けやすかった点が重要な論点として示されています(特にミズーリ期)。
集団移住と地域対立
1830年代、ジョセフ・スミスの指導のもとで末日聖徒たちは移住を繰り返しました。
- ニューヨーク州 → オハイオ州カートランド
- オハイオ州 → ミズーリ州
- ミズーリ州 → イリノイ州ノーブー
特にミズーリ州では、土地問題、政治的投票ブロック化、奴隷制度をめぐる立場の違いなどが複合的に絡み、1838年に武力衝突が発生します。
当時の州知事リルバーン・ボッグスは、いわゆる「Extermination Order(絶滅命令)」を発令しました。この文書は現在もミズーリ州の公的記録に残っています。
「教会史のテーマ」では、この時期について、末日聖徒側にも武装・強硬化が見られた一方で、暴徒的迫害と相互不信が連鎖し、治安と政治が混線した、という形で整理しています。
また、当時の extermination という語は「殺害」だけでなく「追放(expulsion)」の意味合いで用いられ得る点が指摘されます(※それでもこの命令が深刻な人権侵害だった、という事実は変わりません)。
さらに、ハウンズ・ミルの虐殺について、教会資料では実行主体は州軍ではなく自警団(vigilantes)であり、彼らが知事命令を知っていた確証はない、といった見解も示されます。
ノーブー市と政治的影響力
イリノイ州ノーブーでは、教会員が多数を占める都市が形成されました。
- 1840年に市憲章取得
- 市長にスミスが就任
- ノーブー軍(民兵組織)創設
近年の研究(Benjamin E. Park『Kingdom of Nauvoo』など)は、ノーブーが宗教共同体であると同時に政治的影響力を持つ都市であったことを指摘しています。この体制は周辺住民との緊張を高めました。
また、教会側の文脈を補うなら、ノーブーの自治・防衛体制は、前史(ミズーリ等での迫害)を踏まえた「安全確保の切実さ」の中で強化された面も併記すると、教会公式資料の語り口に近くなります。
多妻結婚の導入
1840年代初頭、スミスが複数の女性と結婚していたことは、後年の記録(教会歴史家の研究を含む)や複数の学術研究から確認されています。この実践は当時、公には発表されませんでしたが、内部に対立を生み、1844年に発行された批判紙 Nauvoo Expositor がこの問題を公表しました。
教会の公式資料では、一夫一婦が主の標準であると述べつつ、19世紀のある時期に、神の命令として複数婚が導入されたと説明しています。また、当時の事情により記録には限界があり、不明点が残ることも示されています。
そのうえで、噂に乗じた不正な関係については教会が否定し、関係者を断ったこと、そして現代の教会員は複数婚を実践しないことも明確にしています。
その後スミスは、市長として同紙の印刷機の破壊を命じます。この行為が、逮捕の直接的な要因となりました。
教会史トピックでは、市当局が同紙を「暴力を誘発し得る危険なもの」と見なし、当時用いられていた 「public nuisance(公益への害)」 の法理で対応を検討した経緯が説明されています。
一方で、後世の学術的評価としては、仮に差し止め自体が論じ得るとしても、印刷機の破壊は権限を超えた可能性がある、といった論点も併記されます。
この点は、現代の「言論の自由」の感覚だけで単純に断じるよりも、当時の法制度や政治状況の中で評価が分かれる、という書き方にすると公平です。
大統領選出馬
1844年、スミスはアメリカ合衆国大統領選挙への立候補を表明しました。候補者綱領『General Smith’s Views on the Powers and Policy of the Government of the United States』では、
- 奴隷制度問題への提案
- 宗教的少数派の保護
- 連邦政府の改革案
などを提示しています。宗教指導者が全国規模の政治運動を行うことは、当時としては異例でした。
「教会史のテーマ」では、この出馬は「権力欲」というよりも、迫害や財産被害に対する救済を各政治指導者に求めても十分な支援が得られず、宗教的少数派の権利保護を訴える必要が高まった、という文脈で説明されます。

カーセージでの殺害
1844年6月、スミスはイリノイ州カーセージの監獄に収監されました。同月27日、武装した暴徒が襲撃し、スミスと兄ハイラムが死亡しました。この事件は Killing of Joseph Smith (ジョセフ・スミス殺害)として記録されています。
教会では、この死はしばしば「殉教」として位置づけられます。その際、暴徒による殺害そのものに加えて、そこに至るまで司法や治安の保護が十分でなかった点が強調されます。
結論
結論として、ジョセフ・スミスの運動が大きな社会問題になった背景には、宗教復興運動の熱気、印刷文化による批判や噂の拡散、集団移住が生んだ土地・政治をめぐる地域の対立、そしてノーブーでの自治や政治的影響力への警戒が、同時に重なっていったことが挙げられます。
教会の公式資料が強調するように、そこには宗教的少数派への暴徒からの迫害と、それを十分に抑止・救済できなかった法制度や行政の問題も関わり、結果として対立は地方の枠を超えて拡大していったのでした。
参考資料:
- “Mormon-Missouri War of 1838”(Church History Topics)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/mormon-missouri-war-of-1838?lang=eng - “Extermination Order”(Church History Topics)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/extermination-order?lang=eng - “Nauvoo Expositor”(Church History Topics)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/nauvoo-expositor?lang=eng - “Deaths of Joseph and Hyrum Smith”(Church History Topics)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/deaths-of-joseph-and-hyrum-smith?lang=eng - “Joseph Smith’s 1844 Campaign for United States President”(Church History Topics)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/joseph-smiths-1844-campaign-for-united-states-president?lang=eng - “Plural Marriage in Kirtland and Nauvoo”(Gospel Topics Essays)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-topics-essays/plural-marriage-in-kirtland-and-nauvoo?lang=eng
- Palmyra Reflector(地元紙。『モルモン書』への批判記事の例として言及)
- Nauvoo Expositor(1844年の批判紙)
- Joseph Smith, General Smith’s Views on the Powers and Policy of the Government of the United States(1844年の綱領として言及)
- Whitney R. Cross(“Burned-over District”の研究として言及)
- Benjamin E. Park, Kingdom of Nauvoo(ノーブーの政治的性格に関する研究として言及)