主が私に望まれ、あなた方と分かち合うべきだと信じる事を準備してきましたが、これは信じられない程素晴らしい経験となりました。みなさんは、私たちの伝統として、みなさんの聖典やノート取りの機器を掲げてくださり、聖霊が教えてくださることを聞く準備ができていることを示してくださいました(BYUアイダホ校では、ディボーショナルが始まる前に、自分たちの聖典、メモをとるためのノートや機器を掲げて学ぶ意欲があることをお互いに示しあう伝統があります)。私は、聖霊が私たちとともにいてくださると信頼していますし、私たちが啓発されるよう祈っています。

私のメッセージを説明するために、二つの経験を分かち合うことから始めたいと思います。

 

最初の経験

それほど前のことではありませんが、ミーティングのためシアトルのダウンタウンに来ていました。私のホテルの部屋に着くやいなや、私はどんな景色が見えるだろうかと思い大きな窓の方へ行きました。はじめに、私の視界の下に目をやり、くすんだ茶色い屋根しか見えずがっかりしました。しかし、目を上げると珍しい建築様式をした歴史的な建物、多くの光を反射する窓が付いたとても近代的な建物や、美しい青い空といくつかのふわふわの雲に囲まれた他の建物の屋上が見えることに気づきました。

私が発見した景色を楽しんでから、また目を下にやりました。すると、窓から見た景色の私の最初の判断が、私たちの嘆かわしい性質を表しているのではないかという強い印象を受けました。私たちは、あごを上げて天父が私たちのために用意してくださった美しいものを受け入れずに、むしろ頭を垂れ不愉快な事柄に目の焦点を合わせてしまいがちなところがあります。私はまた、このことが今日お話をするために準備してきた内容に関係があることに気づきました。

アルマは息子ヒラマンに教え霊感あふれる勧告を与えた後で、こう言いました。「さて、わが子よ…神に頼って生きるようにしなさい」(アルマ37:47)。私はこの簡潔ではあるものの力強い言葉が大好きです。そして私たち各々もこの勧告を聞き入れ、どんな邪魔が入ろうとも「神に頼って生きる」のは賢いことだと思いませんか?

 

二つ目の経験

ニューヨーク州ロチェスターでの伝道を終えてすぐに、私はプライマリー(子供のクラス)で8歳の子供たちを教える責任を受けました。ある日曜日に、重荷を手放す必要について強調するレッスンで、特に罪にしがみつかないということを教えるため、私のスーツのすべてのポケットに石をしのばせて行きました。レッスンのとき、その石をすべてのポケットから出し黒板のチョークの受け皿に並べました。

子供たちは最初のいくつかの石を見ると、クスクスと笑い出し、なぜポケットに石が入っているのか、教会にいる間ずっとポケットに石が入っていたのか私にたずねました。ポケットの石を全部取り出し並べると、私はこう言いました。「ポケットにずっと全部の石を入れておくのは、イエスさまに私たちの重荷を背負わせないのと同じくらい愚かなことなんだよ。」

この実例を使ったレッスンを誰かが覚えていてくれているかどうかはわかりませんが、私はしばしばこのレッスンのことを考えてきました。主が進んで私たちから取り除こうとしてくださっている余分な重荷を私たちが選んで持ち続けることにより、私たちのすでに厳しい人生をさらに苦しいものにしてしまうなど、愚かだと思いませんか?ヘブル書12:1-2でパウロはこう言いました。「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて…信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ…」

私たちの思いを重くし、人生にあるべき素晴らしい視点から私たちを遠ざけさせ続けるひとつの罪は、赦しの戒めに従わないことです。主は教義と聖約64:8-9で、「あなたがたは互いに赦し合うべきである。自分の兄弟の過ちを赦さない者は、主の前に罪があるとされ、彼の中にもっと大きな罪が残るからである」と言われました。

私たちは、醜くて私たちより下にあるもの(または私たちの後ろにあるもの)を見つめ続けることを選び、私たちを容易に打ちのめす不必要な重荷にしがみ続けることを選ぶとき、赦さなかったのでその罪の有罪判決を受けることになります。一方、赦すことにより私たちの荷が軽くなり、私たちの魂にもっと豊かに神の寛大さを感じることができるようになります。

そこでまず最初に、赦すとはどういう意味かについて、二番目になぜ私たちは赦さなければいけないのか、三番目に誰を赦さなければいけないのか、そして最後にどのように赦すのかについて考えていきましょう。

 

赦しとは何か?

lds.orgの福音のテーマのページによると、赦しの神聖な属性は、「罪や過ちを犯した人を非難せずに許すことです」とあります。他の定義として、誰かに対し怒り、恨み、または復讐心の気持ちをそれ以上持たないことが含まれます。同時に、最大でキリストのような赦しとは、すべての人、すなわち私たちを個人的に傷つけた人に対してでも慈愛を持てるようになることが含まれます。しかし私たちの多くにとって、赦しは常に黒白はっきりしたものではありません。人を赦すとは、一連の行為になる傾向があります。

その意味を私たちが理解できる助けとなるために、赦しは私たちの身に起こったことを大目にみたり、不品行を容赦したり、または適切なまたは合法な結果を避けさせることではありません。時々、特に赦しへ通じる道のはじめの段階で、出来事を忘れたり、非行者を受け入れることでもありません。

 

なぜ私たちは赦さなければいけないのか?

1)それは戒めだからである

なぜ私たちは赦さなければいけないのでしょうか?まずはじめに、それは戒めだからです。神の忠実な子供たちとして、私たちはお互いを赦し合います。パウロはコロサイ人にこう言いました。

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ人3:12-13)

2)私たちが赦されるためである

私たちが人を赦すとき、私たちも赦されます。マタイ6:14-15には、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」と書かれています。

3)私たちが他の罪を犯さないよう守られるため

赦しの態度を持つことにより、他の罪を犯す落とし穴から私たちは守られます。例えば、私は赦さないことを選ぶことにより、犠牲者だと感じたり、または苦難を受けるに値しない人物だと感じるだろうかと思います。このような一連の考え方は、私たちを高慢、うぬぼれ、強欲または権利の初期の段階へと結び付けます。

これらの質問を考えてみてください:私たちの問題を他の人と比べたり、なぜある人々は楽をしているのだろうかと思ったりしますか?一方、私たちの視点からするとある人々の問題は明らかに自分たちのものより大したことがないのに、なぜ彼らは難しいと感じるのだろうかと感じますか?重荷を負える能力を比較し、他の人を裁くのは不公平であり無知蒙昧です。

ニールAマックスウェルによる私の好きな引用のひとつは以下のとおりです。

私たちが負う十字架を比較すべきでない理由の中で、まず私たちは十字架の重さについてあまり知らないという点があります。二番目に、私たちはその十字架を背負う人々の我慢の限界についてはさらに知り得てはいません。あまり重くもないと思われることに対しつまづく人は、ある重大な役割を担う最高の能力を持っているかもしれません。私たちが自分自身を「他の誰よりも上」と考えるときはいつでも、「すべての下に身を落とした」(教義と聖約122:8)主により私たちは教えられていることを思い起こすできです。(ニール・A・マックスウェル、「これにより彼らをためし」、1982年1月、70-71英語版)

4)私たちが癒されるのを助けるため

私たちのために、人を赦すことは私たちを重荷から解放してくれます。霊的な指導者および心理学者は同様に、赦しは癒しの重要な一部であると言います。H・バーク・ピーターソン長老は、赦さないことを毒に例えました。彼は、「毒のような復讐心や、執念深い心、そして人を赦そうとしない態度は、もし取り除かないでそのままにしておくならば、そのような思いを抱いていた人の魂を滅ぼすことでしょう」と言いました。(H・バーク・ピーターソン長老、「赦せない心の害悪を取り除く」、1983年10月大会報告)

私たちが赦すのは、戒めだからです。赦すことにより私たちは赦しを受けます。私たちが他の罪を犯さないよう守ってくれます。そして赦しは私たちを癒してくれます。

膝のうえに置かれた聖典の上で手を組む女性

誰を赦す必要があるでしょうか?

では誰を赦す必要があるでしょうか?教義と聖約64:10には、「主なるわたしは、わたしが赦そうと思う者を赦す。しかし、あなたがたは、すべての人(男性も女性も)を赦すことが求められる。」とあります。

1)すべての人を赦さなければならない

ではまず、一般にすべての男性も女性も赦す意味について考えて見ましょう。赦すことができる人になるには、私たちは敏感で共感的で、慈愛のある心を私たちのまわりのすべての人に抱きます。私たちは、イエスさまが私たちすべての者を見られるように他の人を見ることができます。

つい先頃、この同じ説教壇から私たちの大学の学長、キムBクラークがこうお話されました。運転中に何度か急に他の車に割り込まれた後、その車に乗っている人は心臓発作を起こしているか、または赤ん坊が生まれそうなため、病院に急がなければいけないので、そのような緊急事態のため他が見えなくなり、運転が不注意になっているに違いないと思うようにしたほうが気が楽だと結論づけました。

同じ全体像に対する私の見解は、私のまわりの誰かがいかなる不親切で不注意な態度をとるときに、私はこう思います。こんなに無神経でいられるなんて、または、こんなにすぐカッとなるなんて、あの人の一日(または人生)はなんて最悪なんだろう。

私たちはみな、完璧への旅の途中であり、その道のりはまだまだ遠いです。あなた方も私も欠点があります。そして私たちは私たちの欠点を大目に見てくれる人々に感謝すべきです。スペンサー・W・キンボール大管長はこう言いました:

死すべき肉体が存在する限り、私たちは不完全な人々と共に生活し働きます。そして傷つきやすい感情に対し、誤解、悪意、損傷が起こるでしょう。最高の動機はしばしば誤解されます。魂の大いなる多くの者が、考え方の歪みを取り除き、高慢を飲み込み、個人的に侮辱を受けたことを赦すのを見るのは喜びです。(スペンサーWキンボール大管長、1955年4月大会報告、98英語版)

ビショップとして働いた経験から学んだことのひとつとして、すべての人には重荷があるということです。私たちの心に病気があったり、私たちの愛する人が苦しんでいることに胸を痛めているかにかかわらず、私たち各々には生活に痛みがあり、イエスが私たちに主の弟子として持つようにと言われた慈愛を必要としています。福音の最重要点は、主が私たちを愛してくださっているように私たちも互いに愛し合うことです。その意味は、私たちがまわりを見渡すとき、私たちはすべての人の中に愛されるに値する神の子供の顔を見ることができることだと信じています。

次の例をみなさんが、私が意図するように敬虔な思いで受け止めてくださいますよう願っています。今日のように、どんな人々の集団の中でしばしば私はこのように人々を見ます。私と一緒に想像してみてください:彼はたった今試験に落ちたばかりだ;彼女はついさっきお母さんが癌だと知らされたばかりだ;彼女は彼女のルームメイトたちに好かれていないと感じている;彼は神さまが彼の祈りを聞かれるだろうかと思っている;彼女は彼女の兄弟と喧嘩したばかりだ;彼の婚約者は彼と婚約を破棄したばかりだ;彼はひどくホームシックになっている;彼女はつらい悔い改めの最中にいる。まだまだありますが、私が言いたいことはもう分かりますね。

どんな集まりを見るときに私は、彼らを本当に自分の兄弟姉妹だと見ます。神が愛し私も愛するひとりひとりであり、確かに彼らの生活の中で痛みを経験している男女です。そして彼らは私が尊敬するに値する人々であり、必要であれば直ちにゆるされるべき人々です。子供たちのプライマリーの歌にあるように、私たちも愛しましょう。「イエスさまはすべての人を愛するように言われました;やさしく接しましょうとも。心が愛で満たされるとき、人はあなたを愛してくださるでしょう」(「イエスさまはすべての人を愛するように言われました」子供たちの歌集、61英語版)

2)私たちを傷つけた人を赦さなければならない

では私たちを直接的におよび私的に傷つけた人たちに対してはどうでしょう?私たちは彼らをも赦すよう要求されています。これは、常に悪事を忘れなければならないという意味ではありません。忘れることは賜物ですが、時間が掛かることがあります。私たちの罪によりできた少しずつ消えつつある傷ではあるものの現在ある傷のように、ときどき私たちの身に起きたことを覚えていることにより、さらなる痛みから私たちは守られることができます。

何の躊躇もなくだれかを完全に赦すことは確かに理想ではありますが、私たちの多くには赦しの度合いが存在することを学びました。長期にわたる道のりかもしれませんが、私たちが癒しと調和の良い道を歩んでいる限り、それは必ずしも悪いことではありません。スペンサー・W・キンボール大管長はこう教えています:

右にいるためには、私たちは赦さなければなりません。私たちの敵対者が悔い改めるか否かに関係なく、また、彼の変化がどれくらい誠実であるか、彼が私たちに赦しを請うか否かに関係なく赦す必要があります。私たちは、「あなたがたは心の中で言うべきである。すなわち、神がわたしとあなたの間を裁き、あなたの行いに応じてあなたに報いてくださるようにと」(教義と聖約64:11)と言われた主の模範と教えに従わなければなりません。(スペンサーWキンボール大管長、「赦しの奇跡」、1969年1月、283英語版)

イエスのすべての教えと同様に、主は私たちに道を示してくださいます。例えば、父親が疎遠になっていたわがままな息子に駆け寄り抱擁し祝宴を開いた、放蕩息子のたとえ話の中で主は私たちに教えておられます。私にとってこのたとえ話しは、私たちが罪から離れ主にたち返るとき、私たちの愛する天の御父が私たちに示される態度だと思っています。神は御父であられ完全な模範です。

旧約聖書から私たちは、ヨセフが兄弟たちに穴に置き去りにされ奴隷として売られたことにより受けたすべての試練に耐え、それでも兄弟たちを赦した話を読むことができます。再び彼らに再会したときに、ヨセフは次のように言いました。

ヨセフは兄弟たちに言った、わたしに近寄ってください。彼らが近寄ったので彼は言った、わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あんたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。

私は、このような赦しと見方ができるように努力していますが、死すべき体を持った未完成な者として、エネルギーもすでに弱くなっていては、常にすぐに赦せるというわけではないと分かりました。しかし、放蕩息子の父親やヨセフのように、私は私たちもイエスが教えられていることを行うことができることを知っています。イエスはこう言われました:

敵を愛し、迫害する者のために祈れ。あなたを嫌う者のためよい行いをしなさい。悪意を持ってあなたを使う者や迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためです。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さるからである。(マタイ5:44)

3)私たちは自分自身のことも赦さなければならない

私はまた、私たちがときどき自分自身を赦さない傾向があることについても簡潔に触れたいと思います。主が言われた、私たちが赦さなければならないすべての男女の中に自分自身も含むべきだと思いませんか?しかしさまざまな理由で、他の人のことはとても赦せる人でも「ポケットに石を入れておく」ことを選び、彼らが犯した過った選択を手放さない人たちがいます。

私は、罪悪感は邪悪なものから私たちを守る聖霊からくることに気づきました。しかしながら、サタンはこの気持ちを偽造することができます。サタンは、私たちが神の息子および娘として神が私たちを愛しておられることに疑いを持たせ、罪悪感を感じるようにさせます。私たちは、この罪悪感が私たちに向かわせる方向を考えることによって、違いを知ることができます。

例えば私たちの感情が、謙遜に神に頼り、神が私たちを愛し私たちが成功するよう望まれていることを知りながら、忠実に神に向かって歩むよう私たちを動かすのであれば、それは聖霊から来るものです。しかしもし私たちが神から隠れ、私たちは価値がなく汚れていて望みがないと信じているのであれば、私たちは悪の源を認識し、代わりに「神を見て生きる」べきです。

私は、赦しを見つけるための努力をし、二つの神聖な経験をされた人たちを知っています。ひとつは、再び聖餐をとるふさわしい時はいつか知ることと、再び神殿に戻るのがふさわしい時はいつかを知ることです。どちらもふさわしくない状態で行うべきではありません。しかし、私たちはある時点で、両方から来る慰め、清め、平安および力が必要です。主、私たちのビショップや私たちが信頼するその他の人からの勧告を必死に熱望し誠実に求めることにより、これらの重要な決断をするのに、祝福され識別力や導きが与えられるでしょう。

もし私たちのなかで、罪を悔い改めるために必要なすべてを行っても自分自身を赦せず、いかなる大小の罪に対する罪悪感を持っている人がいるならば、本質的に私たちは神の役割と力を否定していると、私は提起します。もし神が私たちを無条件に愛してくださり、すすんで赦してくださるのなら、一体どうして私たちは神よりも賢く優れていると考え、同じように無条件に愛し赦さないのでしょうか?なぜ私たちは神の判断を疑うのでしょうか?

4)私たちは神を赦さなければならない

私たちが赦さなければならない人々について最後の見解として、ときどき私たちは、私たちが受ける試練のために神に対して怒ったり、または腹立たしく思ったりすることがあるかもしれません。それが真実とはいえ、神は、時として私たちの信仰を試されることがあります。私たちが経験する試練のほとんどは、実際は私たち自身の選びまたは他の人による選択の結果なのです。すべての人を赦すために努力しているときに、私たちはときに神を赦そうとしないことはありませんか?

神を赦すなど奇妙な考えのように思えるかもしれません。明らかに完璧な神は私たちの赦しを必要としません。しかしもし私たちが、だれかの責めを許すという赦しの定義について再考するなら、ときどき私たちは、人生で物事がうまくいかないと神を責めたり、神に対して恨みを抱いたりしませんか?私たちは謙遜になり、恨みを取り除き、代わりに神に信仰を持つ必要があるという意味のみで、私たちは神を赦す必要があります。

無知に天に向かって責めたてて指を指すよりはむしろ、「わたしに学びなさい」(マタイ11:29、教義と聖約19:23,32:1)という主の招きを受け入れ、神との適切な関係を理解するため追及することは、私たちの崇拝の中心であり義務です。私たちがそのようにするときに、私たちは天父と御子イエスキリストに対して熟知していることと尊敬の念をバランスよく成長させるうえで無頓着でいるべきではありません。

私たちは天のお父様が父であられることを知っています。天父は私たちを息子および娘とお呼びになりますが、私たちはまた天父を崇拝します。私たちはイエスキリストが私たちの長兄であることを知っています。イエスは私たちを主の友とお呼びになります。主は私たちの救い主であり、天父との間との仲保者であり、私たちの王です。「主は彼らに対して御手を伸ばし」(イザヤ5:25[2ニーファイ15:25])てくださっていますが、私たちが主の足元にひざまずくためです。私たちは、人生の最後の温かい抱擁を愛情を込めて想像するかもしれませんが、私たちは主によって御腕に招かれるようにするべきです。これは、私たちが崇拝するお方に対しより適切な敬意を表すことであり理解することです。

神との適切な関係について入念に検討するにつれ、私は畏敬の念を抱いています。私が神について学んだ証は、神は1)すべてを愛し、2)全知であり、3)完全に公平であり、4)全能者でおられます。この神の特性の組み合わせにより、すべては結局大丈夫であることを知っています。

これらのことを知っていると、神を見上げ、ポケットにある石を取り除く助けとなるので、私は、この証の各解釈について簡潔に展開していきたいと思います。

はじめに:神は私たちを無条件に愛しておられます。私たちはときに愛されていないと感じるからといって、実際の神の愛の大きさを測り間違えてはいけません。私たちが自分のことをどのように考えようと、または過去に何をしたかに関わらず、私たちは神の子供たちであり、神は完全に私たちを愛しておられます。私たちは神をがっかりさせることがあるかもしれませんが、神の最大の望みは私たちが神のみもとに戻ることです。私たちが真に悔い改めの心をもって、神のもとに来るのであれば、神は常に私たちを赦してくださいます。

二番目に:神は、私たちの可能性を含むすべてのことをすべてご存知です。神は私たちが神のようになるために、私たちが強くなるため必要であり、私たちが耐えうる経験をお与えになるということを信頼していいでしょう。私たちは神のタイミングと私たちの祈りに対する最高の答えを信頼しなければなりません。私は自分自身に、神はそうされると思い出させるようにしています。

三番目に:私は神は完全に公平であると信じていますが、人生も公平であるべきだと信じているという意味ではありません。私たちのまわりには、不公平に思えることがあります。とても重要な現実的なことは、この世の標準により、善良な人々は必ずしもこの世で最高に祝福されているようには見えません。そして悪人は必ずしもこの世で罰を完全に受けるわけではありません。神は私たちの行動と心の意図に従って、私たち各々を裁かれます。鍵は、私は主は公平な判事であり、最後の裁きで主はすべての事を正されます。

四番目に:たとえ何が起ころうと、神が管理しておられます。神はすべての創造物の神であられます。神は宇宙の平衡と調和をご存知であり管理されています。ですから、もし最終的にそれが真に私たちのためになることであるならば、神は状況をお変えになると信じなければなりません。たとえ不公平に思えることでもです。神は何が必要であるかご存知です。しかし、神は全能であり、ときおり私たちの道に試練を置かれるからといって、神がすべてのことを起こさせるわけではありません。神は私たちを悪から守ることができますが、必ずしも私たちの選択や他の人たちの選択の結果から私たちを守るわけではありません。それは、選択の自由という神の崇高な賜物に反するからです。

神は私たちにとって善良であり、私たちのために多くのものを与えてくださっています。特に贖いをとおして、私たちの限りがある能力を補償してくださいます。もし私たちが神を非難せず、単純に神の方を向き信頼するならば、私たちの見通せる力は変わり、主は私たちのその他すべての人間関係や関連する問題を助けてくださいます。人生のすべての浮き沈みをとおしてこの世の良いものを受け入れ楽しむのは私たちの選択なのです。

 

どのように私たちは赦すのか?

赦しとは何か(および赦しでないものは何か)、なぜ私たちは赦さなければいけないのか、私たちが赦さなければならないすべてのものについて考えてきましたが、ではどのように赦せばいいのでしょうか?

オンラインや本、ビショップや訓練を受けたカウンセラーと一緒に働くことにより、具体的で実質的な素晴らしいツールを使って学ぶことができます。赦す努力の中心には、今日私がお話しているメッセージの最初の部分が存在していなければなりません。私たちは信仰をもって神の方を見、痛みや恨みまたは一層悪いことに執念深くしがみついて自分の背中に背負ってしまった不必要の重荷を手放す必要があります。私たちのキリスト教徒の同志である兄弟姉妹からこの言葉をお借りして、私たちは「手放して神にまかせましょう。」

私たちを傷つけた人々が彼ら自身の救いを救い主とともに努力してやり遂げられるように、私たちのポケットから石を取り除くことにより、私たちは赦すことができます。彼らの赦しは実のところ彼らと主の間で行われることなのです。ですから、彼ら自身の悔い改めは彼ら自身で努力させるべきであり、代わりに私たちは、彼らを裁いたことについて悔い改めるべきでしょう。

ルカ6:41に、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」とあります。もしすべての人がこの福音の教えに従い、まず慎重に自分の心を気にかけ、自分が他人にとる態度に対しても気をつけたら、どんな世界になるか考えてみてください。スペンサーWキンボール大管長はこう提案されました:

もし率先して和解することで平安を求めるのであれば、もし心から赦し忘れるのであれば、もし私たちが他の人に石を投げ非難する前に自分の罪、敵意、および罪悪感を清めるのであれば、もし私たちが自分たちの罪の赦しを求める前に実在する侮辱や空想上の侮辱を赦すならをば、もし私たちが私たちの負債者を圧迫する前に自分たちの大小の負債を払うならば、もし私たちが他の人のちりを拡大する前に自分自身の目をくらませている梁をなんとか取り除こうとするのなら、この世界はなんと輝かしいものになるだろうか!(「奇跡に先がける信仰、スペンサーWキンボール、195-96英語版)

主は私たちの心をご存知であり、私たちの意図や可能性もご存知です。そして主は、私たちを傷つけた人々についても同じようにご存知です。私たちの人生の中での神の役割を理解し、神を愛し隣人を愛することに私たちの活力を使うことに心を注ぎ、神を永遠なる正義の番人とすることにより、私たちは赦すことができます。ゴードンBヒンクレー大管長は何度となく次のように言っています:

神の助けを受けて、もう少し優しくなり、もっと寛大になり、もっと赦し、もっと喜んで2マイル歩き、罪を犯したけれどもすでに悔い改めの実を結んでいる人に手を伸ばして引き上げ、昔の恨みを忘れ、二度と恨みを増幅させることがありませんように。(ゴードンBヒンクレー大管長、「赦す」エンサイン、2005年10月号)

私がホテルの部屋の窓からみた物の見方を覚えていてください。私がいかに、はじめ私の視界の下にあるくすんでいて憂鬱なものしか見なかったことを。視界を制限するのは簡単だったかもしれませんが、それをせず私は上を見上げました。赦しは、愛情あふれる神を信頼しつつ私たちの視界を上にあげることを選択することなのです。

私がポケットから取り出し、黒板のトレイに並べた石を覚えていてください。途中で拾い上げた重荷を降ろすことにより、赦しは私たちの霊を解放することができます。

天の御父は、私たちが試練にあっても、またはたぶん試練があるからこそ、私たちが神の方を見て喜びを得ることを望んでおられます。

 

 

この記事はブリガムヤング大学アイダホ校で2014年10月7日に行われてディボーショナルにおいて、地域関係&大学イベントディレクターであるブレット・サンプソン兄弟が話された講話です。