オリンピックでは100人以上の末日聖徒イエス・キリスト教会( モルモン書があるので誤ってモルモン教と呼ばれる )のアスリートたちが競技してきました。また、2016年のリオオリンピックには14名のモルモン教アスリートたちが参加しています。歴史の1ページを塗り替えるとともに自身の信仰を守ったアスリートたちもいますが、世界の舞台に上がった時にはまだ真実を探し求めていたというアスリートたちもいます。以下はモルモン教に改宗した有名なオリンピック選手たちです。

 

アンブローズ・ゲインズ4世

アンブローズ・ゲインズ4世は友人たちから「ローディー」の愛称で親しまれ、1980年代最速の競泳選手の1人でした。全米大学競技協会で1978年から1984年までいくつもの世界記録を破ってきたアメリカ人をみれば、ゲインズが小さいころ運動が苦手だったことなど想像する人もいないでしょう。それも、高校2年生のときに水泳を始めるまでの話です。

1980年のモスクワオリンピックで、ゲインズは少なくとも5つの金メダルを獲得するだろうと言われていました。しかし、アメリカ合衆国はその年のオリンピックをボイコットすることに決めたのです。ゲインズはオリンピック出場の道は絶たれたと考え、1981年にオーバーン大学を卒業してすぐに競泳を引退しました。しかし彼の父親が競泳を続けるよう励まし、彼はスポーツにもう一度打ち込むことを決めました。その後、1年も経たないうちに世界選手権における200m自由形で自身の世界記録を更新しました。1984年、ゲインズはロサンゼルスオリンピック出場を果たし、3つの金メダルを獲得しました。その年、ゲインズ以上に金メダルを獲得した競泳選手はいませんでした。しかしゲインズはその栄光を自分自身のものだけにとどめておくことはありませんでした。彼は自分が得たメダルを、1つはコーチに、そしてあとの2つをそれぞれ両親に渡したのです。

1989年、ゲインズはモルモン教会に改宗したもののその当時は教会に活発に参加してはいなかったジュディー・ザキアと出会い結婚しました。1991年にゲインズが突然の病と戦っていた時、2人はまだ新しい家庭を築き始めたばかりでした。彼はギラン・バレー症候群と診断されました。ギラン・バレー症候群は、免疫抗体が神経を攻撃し始めてしまうという珍しい病気です。力が入らず、刺すような痛みを伴い、最終的には麻痺状態に陥ってしまうのが一般的な症状です。彼がこの病気だと診断されたころ、モルモンの友人がゲインズ一家を教会に招きました。彼がその病気から回復してすぐに、ジュディーとローディーはその招待を受け入れ、家族でモルモン教会に行きはじめました。

1998年、家族のなかで最初にバプテスマを受けたのは彼らの娘、マディソンでした。モルモン教ニュースによると、ゲインズは彼女のバプテスマ会で集まった人の前に立ち、聖霊の賜物について話をしたそうです。「彼はこういいました。『マディソン、パパが君に買ってあげられないものの1つは、聖霊の賜物です。』」と、妻のジュディー・ゲインズは振り返ります。「その直後、彼は声を詰まらせて話ができなくなりました。聖霊の力が信じられないほど強かったのです。」そのわずか2週間後、ゲインズは娘にならいバプテスマを受けてモルモン教の会員となりました。彼の驚くべき適応力と決意、そして新しく見つけた信仰のおかげで病気から完全に回復しました。それどころか、2011年には50から54歳の100m自由形で再び世界記録を破ったのです。現在ゲインズは最も経験のある競泳解説者として認められ、コメンテーターとして何度もオリンピックに姿を見せています。もちろん2016年のリオオリンピックでも、彼のコメントを聞く機会があるでしょう。

しかし彼の人生の中で最も誇り高い達成は何だったかという質問に対して、この4人の娘をもつ父親はモルモン教ニュースにこう答えました。「比べることはできません。リクタースケール(地震の規模を表すマグニチュードの別称)でさえ計ることはできません。わたしが家族に対して感じる愛に比べたら、金メダルなど価値のないものです。陳腐に聞こえるかもしれませんが、それが真実なのです。」

 

ロバート・デットウィーラー

アメリカ空軍の大佐となりモルモン教の会員になるまで、ロバート・デットウィーラーはイリノイ州ジーグラーで育ちました。1940年代に高校を卒業してからアメリカ海軍学校に進学し、そこでボートクラブに入りました。「グレイト・エイト」として知られる彼のチームは、スポーツ史上最高のチームと考えられていました。彼らは1952年のヘルシンキオリンピックでの金メダルを含め、ただの一度も負けたことがありませんでした。オリンピックでの勝利から1年後、デットウィーラーはアメリカ海軍学校を卒業し、空軍でパイロットとなりました。26年間空軍で職務を果たし、その間に殊勲飛行十字章を5つ、勲功章、そして殊勲賞を受賞しました。彼はまた原子物理学者となり、1965年には「最優秀軍学者」と呼ばれるようになりました。

この頃、デットウィーラーはモルモン教について研究をはじめ、その後バプテスマを受けました。1978年にはドネル・ブラウンとアイダホ州アイダホフォールズ神殿で結婚しました。モルモン教会の会員として、彼はビショップリック(1人のビショップと2人の顧問から成る、1つの教会堂に集う教会員を管理し助ける組織)の顧問、神殿奉仕者、そしてスカウト・リーダーなど多くの召しを信仰深く務めました。

才能に恵まれたデットウィーラーは、プロボにあるアイリング・リサーチ・インスティチュート(アメリカのNPO団体)でエネルギーとコミュニケーションに関する研究の研究長としても働き、ユタ・ピアノカルテットの創立メンバーともなり、ソルトレイクオペラカンパニーと共に歌ったことがあります。そしてユタ郡地方美術協議会の協議長としても奉仕していました。

 

マーク・シュルツ

「最高峰とは言わないまでも、レスリングというスポーツに参加したオールラウンドアスリート(どんな技術もこなしてしまう選手)の中で最も偉大な人の1人」これが第16回ナショナル・レスリングチャンピオンであるウェイン・ボーグマンがマーク・シュルツを説明した表現です。1960年10月26日にカリフォルニア州パロアルトで生まれたシュルツは、ドロシーとフィリップ・シュルツの間に生まれた2人目の息子でした。彼の兄であるデイヴはマークより1歳半年上でした。シュルツは子供の頃からオールラウンドアスリートで、学校の記録を20も塗り替えました。高校1年のとき、彼は北カリフォルニアのオールラウンド体操チャンピオンになりました。しかしシュルツは兄の軌跡を追い、2年生のときにはレスリングを始めたのです。

彼の兄デイヴは、州タイトル、ナショナルタイトル、そしてインターナショナルタイトルを獲得しましたが、マークはレスリングをはじめて最初の1年を可もなく不可もなくといった感じで過ごしました。しかしシュルツの技術は向上し、3年生のときには州タイトルを獲得するまでになりました。デイヴとマークは大学でチームを組んで練習を始め、そのおかげでマークの技術は大幅に向上し、彼は3つの全米大学競技協会で優勝することができました。シュルツ兄弟は全米大学競技協会、アメリカオープン、世界大会、そしてオリンピックのタイトルにおいて、2人合わせて最多勝利数を誇りました。また、彼らは世界チャンピオンシップとオリンピックで金メダルを獲得した唯一のアメリカ人兄弟となりました。デイヴは1983年の世界チャンピオンシップで優勝し、1984年のオリンピックでは故郷に金メダルを持ち帰りました。マークは同1984年のオリンピック金メダル、そして1985年と1987年の世界チャンピオンシップで優勝しました。彼が競技を引退したのは、1988年にオリンピックで6位になった後でした。

1991年、マーク・シュルツはブリガム・ヤング大学(通称BYU)のアシスタント・レスリングコーチとして働き始め、同じ年にモルモン教に改宗しました。ところが1996年に悲劇が起こります。兄のデイヴが2度目のオリンピック出場のためトレーニングをしていたとき、自宅があるフォックスキャッチャー・ファームで彼は突然ジョン・E・デュポンによって殺害されました。その時マークはブリガム・ヤング大学レスリングチームのヘッドコーチでした。そしてデイヴの死から4ヶ月後、マークは最高峰のファイティング・コンペティションで優勝し、500万円を獲得しました。

感動的で華々しいマーク・シュルツの人生はアカデミー賞受賞歴のあるディレクター、ベネット・ミラーの目に留まり、「フォックスキャッチャー」というタイトルで映画化されました。マーク・シュルツ役をチャンニング・テイタム、デイヴ役をマーク・ラッファロ、そしてジョン・E・デュポン役をスティーブ・カレールが演じました。

 

ジーン・ソーバート

ジーン・ソーバートがモルモン教に入る経緯は、マーヴィン・メルヴィルというモルモン教の男性の話から始まります。

メルヴィルにとって、子供のころからスキーは単純に楽しい娯楽でした。しかし1955年のスノーカップで元オリンピック選手を打ち破ってから、彼はスキーが楽しい趣味以上になり得ることを初めて知ったのです。メルヴィルは1956年にイタリアのコルティナダンペッツォで開催されたオリンピックにアメリカ代表として出場することになります。8人編成のスキーチームにおける4人のスターターのうちの1人に選ばれたのです。彼がメダルを獲得することはありませんでしたが、オリンピックにおいて残した影響は計り知れないものでした。

1964年、メルヴィルはアメリカ女子スキーチームのアシスタントコーチになるよう頼まれました。そこで初めてオリンピック選手のジーン・ソーバートに会ったのです。オレゴン州で生まれ育ったソーバートにとって、スキーは簡単なものではありませんでした。「わたしはたくさんのレースで負けました。ほとんどいつも3位でした。大体レースは3人で競われるからです。」と、ソーバートは笑いながらモルモン教ニュースにコメントしています。

悪戦苦闘しながらも懸命に努力を重ね、彼女は14歳の時にナショナル・ジュニアチャンピオンに輝きました。21歳までには回転スキーのトップ選手となり、いくつもメダルを獲得しました。「回転スキーに関しては、彼女は世界一でした。」とメルヴィルはモルモン教ニュースに語りました。しかしソーバートのオリンピックデビューは険しい道となりました。女子回転の初戦で彼女は6位だったのです。しかしそこから2回戦、最終戦と戦い続ける中でめざましい挽回を遂げ、銅メダルを獲得しました。また女子大回転では素晴らしいパフォーマンスを見せ、見事銀メダルを獲得しました。

オリンピックのあと、ソーバートはメルヴィルとユタ州立大学でトレーニングするためにソルトレイクシティに引っ越しました。彼女はモルモン教の家族に生まれたわけではありませんでしたが、小さいころモルモン教の友達が数人いたためモルモン教については少し知っていました。この頃、ソーバートはモルモンの会員であるメルヴィルの両親の家でホームステイを始めました。それまでに彼女はいくつもの宗教を学んできていましたが、ホームステイをきっかけにモルモン教の福音について学ぶことにしたのです。その後彼女は宣教師と会うことに同意し、バプテスマを受けるように勧められ承諾しました。彼女のバプテスマは、コーチであるマーヴィン・メルヴィルが執行しました。

メルヴィルもソーバートも信仰深く、多くの召し(会員が無償で行う教会内での様々な役割の呼び名)で奉仕しました。メルヴィルはユタ州立大学に通う生徒たちから成る既婚者ワードのビショップ(ワードの会員たちを管理し助ける役割)として奉仕し、その後高等評議員としても奉仕しました。ソーバートは若い女性のMIAアスレチック評議会(昔行われていた青少年プログラム)の会員として奉仕し、その後は神殿奉仕者として奉仕しました。2007年5月14日に亡くなるまで、彼女は常に信仰を生活の中心として守り続けました。

 

アンジェ・ミザースキー・ハーヴェイ

アンジェ・ミザースキーはクロスカントリースキー選手で、「鉄のカーテン」の向こう側である東ドイツで育ちました。

彼女がステロイドの摂取を拒んだため、ドイツのナショナル・クロスカントリーチームから登録を抹消されてしまいます。そのことがきっかけで、ミザースキー家は政府の監視対象となり、まだ10代だった彼女はオリンピックの夢は絶たれたと思いました。

しかしそれも、後にオリンピック出場を果たし、将来の夫とも出会わせてくれるきっかけとなったバイアスロンと出会うまでの話でした。

ベルリンの壁崩壊から3年後、ミザースキーは1992年にフランスで開催されたアルベールビル冬季オリンピックに出場し、15キロレースで金メダル、7.5キロスプリントと3✕7.5キロリレーでそれぞれ銀メダルを獲得しました。この時彼女と、選手にステロイドを与えることを拒んだために東ドイツスキーチームのヘッドコーチから解雇されていた彼女の父親は、東ドイツチームが行ってきたドーピングについて公に語りました。その結果、彼らは東ドイツで殺しの脅迫を受け、国中から嫌われ悪評を買いましたが、同時に多くの人々から尊敬を集めました。

1991年から1992年にかけてドイツのルーポルディングで行われたバイアスロン・ワールドカップで、ミザースキーはアメリカ人選手のイアン・ハーヴェイと出会い、2人は15ヶ月後に結婚しました。

1994年、アンジェ・ミザースキー・ハーヴェイはリレハンメル冬季オリンピックに出場し、4✕7.5キロリレーで銀メダルを獲得しました。

ヘーゼルとパールという2人の娘が生まれたあと、ミザースキーは甲状腺機能亢進症(こうしんしょう)に苦しみ始めました。この時期、近所の人が闘病中のミザースキーに贖いについて教えようとしました。それからすぐに彼女と夫イアンは一緒にモルモン書を読み始め、モルモン教に入るためバプテスマを受けました。

2012年、ミザースキーと彼女の父親は、ドイツのスポーツ界で殿堂入りを果たしました。

 

マーシャ・マークベアード

マーシャ・マークベアードが初めて競技に参加したとき、彼女は小学6年生でした。

トリニダード・トバゴで育った彼女は、家の近くの道で開催されていたレースに何度も参加していました。しかしある日のレースはいつもと違いました。その時は、同年代のレースで勝てば自転車を買ってくれると父親が約束してくれたのです。

このご褒美を胸に、マークベアードはたくさん練習しました。そしてついにレースの当日を迎えます。驚くことに彼女は同年代のレースで勝っただけでなく、近所に住む男の子たちまで負かしたのです。その経験からマークベアードは、何かが欲しければ一生懸命に努力しなければならない、ということを学びました。

やり投げでよく知られる彼女ですが、マークベアードはリックスカレッジ(現在のブリガム・ヤング大学アイダホ校)でコーチが彼女を引き抜くまで、7種競技については聞いたこともありませんでした。1つの陸上競技に代わり、7種競技は7つの競技に参加します。100メートルハードル、走り高跳び、砲丸投げ、200メートル、走り幅跳び、やり投げ、そして800メートルの7つです。それは彼女が、ハードル、砲丸投げ、そして走り幅跳びを新しく学ばなければならないということを意味していました。

険しく難しい道でしたが、数ヶ月で学校の記録を破るまでになりました。2年後、彼女はブリガム・ヤング大学に編入し、1997年に社会福祉学位を、そして1999年に同修士号を取得しました。

マークベアードは、リックスカレッジに入った時に初めてモルモン教に触れました。彼女は福音の教えの多くを好ましく感じましたが、地上に生ける預言者がいるということを受け入れるのに苦労しました。彼女はMormon.orgのサイト内にあるmeet Mormons(英語のみ)のプロフィールに、こう書いています。「わたしは5年間、この概念と奮闘しました。そしてこれについて考え、答えを探すなかで、やっと心から祈ってみることに決めたのです。わたしは探していたイエス・キリストの福音を見つけました。わたしは聖霊によって、この教会が真実であるという明らかで否定することのできない答えを受けました。」

2000年、モルモン教に入るためのバプテスマを受けたあと、マークベアードはトリニダード・トバゴで初の7種競技選手としてシドニーオリンピックで22位となり、歴史をつくりました。彼女は2004年にはアテネオリンピックにも出場し、25位になりました。

それからほどなくして、マークベアードは子供をもうけるために引退しました。彼女と彼女の夫は現在3人の息子に恵まれています。

「夫と3人の息子はわたしのすべてです。」とマークベアードはMormon.orgに書いています。「妻として、そして母として、わたしは彼らの必要が満たされるようにしています。時には至らないこともありますが、翌日また頑張れることを知っています。また、わたしはもう少しだけ良い母と妻になれるよういつも努力できることを知っています。わたしはアスリートとして、不可能と思えることでも諦めないことを学びました。主がわたしの味方でいてくださるので、彼の計画に沿って努力する限りすべてのことは可能であることを知っています。わたしは完璧ではありませんが、彼を通して毎日もう少し頑張るための力を得るのです。」

彼女の3人の息子たちが成長している今、マークベアードは2016年のリオオリンピックで復帰を果たそうとしましたが、予選を通過できませんでした。

しかし、この秋彼女はオーストラリアで行われるワールド・チャンピオンシップで、40歳以上の部門で記録を破ろうとトレーニングに励んでいます。

 

この記事はDanielle B. Wagnerによってldsliving.comに”6 Famous Olympians Who Became Mormons“の題名で投稿されました。

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