ある日、十代の息子がわたしにこうたずねました。「御霊を感じているかどうかは、どうやって分かるの?」わたしはパニックになり、自分のオフィスへ行き本を書きました。御霊を感じることを認識し、理解するには生涯をかけて追い求める必要があります。しばしば、その感じ方は捉えがたいため、何か感じているのか自信が持てないものです。「どうしたら理解してるって分かる?(How Do I Know if I Know?)」からの抜粋を以下に示します。

モルモン教では、わたしたちが証について話す時、ほとんどの場合、わたしたちの気持ちについて話します。わたしたちは、「御霊を感じた」り、ある決断について「良い気持ちを感じた」り、またあることを行うように「印象を受けた」ことについて話します。それにもかかわらず、わたしたちがどのように感じたか、または正確に気持ちを説明しようとすると、とても難しくて説明できないことがわかります。ボイド・K・パッカー会長は、次のように教えました:

「御霊について言い表す言葉は、わたしたちにはありません(聖典にさえそれはありません)。聖典は、一般的に声という言葉を使いますが、それは正確には適切ではありません。このような繊細で、微細な霊的なコミュニケーションは、目で見ることも、耳で聞くこともできません。声と言い表されますが、それは、耳で聞こえるというよりは、心に感じる声なのです。」(That All May Be Edified, 335

御霊を「感じる」には、繰り返し行うこと、忍耐、そして粘り強さが必要です。わたしたちの多くは、感じたことがありますが、それを認識したことがありません。別の言葉で言えば、わたしたちは知っていますが、自分が知っていることを知りません。御霊を感じることを学ぶのは、一生かけて追い求めるプロセスです。では、御霊を感じるとはどういう意味で、どのような感覚なのでしょうか?

内から燃える気持ち

おそらくほとんどの場合、証について話す時の気持ちは、「心の内が燃える」と表現します。この表現は、モルモン書の翻訳の過程について、教義と聖約で使われています(教義と聖約9:8参照)。それは、新約聖書にも使われており、復活されたイエスが、イエスと気づかなかった2人の弟子と、エマオまでの道を歩いておられた時に表現されました。イエスが去ると、2人の弟子はお互いに、こう言いました。「道々お話になったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」(ルカ24:32)。

多くのわたしたちは、この「燃える」力強い証を望み、待ち焦がれ、祈ります。そして、それが来ないとがっかりする人もいます。心が燃えたことがないので、人よりも霊的に劣るのではないかと、恥ずかしく感じたり、心配する人もいるかもしれません。御霊からの証は、心が燃えなければならないと推測するのは間違いです。たとえ、この聖句で表現される、燃える気持ちを感じたことがないとして、あなたがふさわしくなかったり、証がないというわけではありません。落胆しないでください。そういう経験がないからと心配するのは、あなただけではありません。ダリン・H・オークス長老は、次のように教えました:

「わたしは、「心の内が燃える」のを感じたことがないので、御霊からの証を得たことがない、と言う人に会ったことがあります。「心の内が燃える」とはどういう意味でしょうか?燃焼によって生み出される火力のような熱さを感じる必要があるのでしょうか? もしそういう意味であれば、わたしは心の内が燃えた経験をしたことがありません。疑いなく、聖典の「燃える」という言葉は、慰めや穏やかな気持ちを意味しています。これは、多くの人が受ける証です。このように、啓示は働きます。実に、細く小さな声は、まさに「細く」「小さい」のです。」 (エンザイン、1997年3月、13)。

ジェイ・E・ジェンセン長老は、別の十二使徒定員会会員のコメントを分かち合いました:

「わたしは、世界中の教会を旅し、心の内が燃えるという経験をしたことがあるという人は、比較的まれであることがわかりました。事実、長いこと祈り、断食してきたにも関わらず、その気持ちを経験したことがないので、失望していると話す多くの人たちに会いました。」(エンザイン、1989年4月、21-22)

わたしは、この燃える気持ちを感じたことがあると言う人がいるのを知っていますが、全く感じたことがないと言う人たちが多いのも知っています。それでも、大丈夫です!だれかが、「それは、心が温まる物語だね」と言うのを聞いたことはありませんか? それは、文字通り、彼らの心が温かくなったという意味でしょうか?それとも、それはただの表現でしょうか?おそらく、「心の内が燃える」というのは、心が温まる感じから、物理的な熱を感じることまで幅があります。

霊的な知識について学ぶ、最も重要な原則の一つは、主はさまざまな人々に異なる方法で話されるということです。かさねて、御霊の証は「燃える」感じのみとは、限らないということです。

今後の投稿では、御霊を感じる時のその他の気持ちである、平安、喜び、悟りについて話していきたいと思います。

 

この記事は「How Do I Know If I Know?」という著者からの抜粋です。John Bythewayによって書かれ、彼のブログに掲載されました。