今年の中秋の名月は9月25日です。小さい頃に「月にはウサギがいる」「月でウサギが餅をついている」という話を聞いたことがある日本人は、少なくないと思います。

この「月のウサギ」には、古くから伝わる物語があります。そして、その物語を知ると、「自分自身を誰かのために差し出す」という行為について考えさせられます。

この昔話は、イエス・キリストがわたしたちのために自身をささげたことを思い起こすきっかけにもなるかもしれません。

帝釈天に食べ物を持ってこれなかったウサギが自身を捧げようとして、その姿勢を認められる
食べ物を持ってこれず自分を食べ物として捧げようとしたウサギのその行いをたたえる帝釈天

月のウサギの物語

月のウサギの物語のもとになった話は、仏教説話集『ジャータカ』に収められているとされています。『ジャータカ』は、仏陀の前世についての物語を集めたものです。

物語には、ウサギ、サル、キツネが登場します。

あるとき、仏教で「天」と呼ばれる存在の一人である帝釈天(たいしゃくてん)が、動物たちの行いを試すため、老人の姿になって現れました。老人は動物たちに食べ物を求めました。 

サルとキツネは、それぞれ食べ物を見つけて老人に差し出しました。しかし、ウサギには食べ物を用意することができませんでした。

そこでウサギは、自分自身を食べ物として差し出そうとします。そして火の中に身を投じました。

帝釈天はウサギの行いをたたえ、その姿を月に残したと伝えられています。

この話は日本にも伝わり、『今昔物語集』巻五・第十三話にも収められています。国立国会図書館のレファレンスでも、「月にウサギがいる」という伝承の基になった物語として『ジャータカ』と『今昔物語』が紹介されています。

もちろん、この物語は仏教説話であり、イエス・キリストの贖いを描いたものではありません。

しかし、このウサギの行いからキリストの犠牲と愛を思い出すことができます。

キリストはわたしたちや神様への愛により自分自身を捧げた

自分自身をささげる

ウサギは、自分には差し出せる食べ物がないと分かると、自分自身を差し出そうとしました。

イエス・キリストが十字架に架けられ亡くなったのは、わたしたちのためです。

しかし、キリストの犠牲には、この物語とは大きく異なる意味があります。

クエンティン・L・クック長老は、2025年4月の総大会で、イエス・キリストの贖いについて次のように教えています。

「救い主は、永遠を形作る贖罪と復活において、すべての人のために『死の縄目を断って死に対して勝利を得』られました。罪を悔い改めた人々のために、彼らの『罪悪と背きを身に負い、彼らを贖い、正義の要求を満たされ』ました。」

そして、クック長老はこう述べています。

「贖罪がなければ、わたしたちは罪と死からの救いを得ることはできません。」

クリスティン・M・イー姉妹も、2024年10月の総大会で、キリストの贖いについてこう教えています。

「わたしは主の贖いの犠牲によって、悔い改め、真に清められ、贖われることができると知っています。」

イー姉妹はさらに、

「主は御自身の苦しみを通して、わたしたち一人一人が個人的な弱さや罪を克服する道を備えてくださったのです」

と教えています。

キリストの犠牲は、わたしたちが自分の力だけではできないことを可能にしました。キリストの復活によって、すべての人が復活することができるようになりました。

そして、キリストの贖いによって罪を悔い改め、わたしたちは清くなることができます。死んだ後、また神様の元に戻り、神様とキリストと大切な家族と永遠に住む道が開かれたのです。

縁側に座って家族でお月見をする。

月を見るときに思い出せること

今後、きれいな月を眺める時に、月のウサギのように、「自分は何を与えられるだろう」ということを考えてもいいですね。

そして、その物語からさらに、「わたしのために自分をささげた存在がいる」ということを思い出すこともできます。

イエス・キリストの贖いは、わたしたちが完全には理解できないほど大きな犠牲です。しかし、その中心にあるのは、わたしたち一人一人に対する愛です。

わたしたちがキリストに心を向けて、彼について学び祈るなら、キリストの犠牲をますます理解できることでしょう。

苦しい時、助けが必要な時に主に頼ることができます。

救い主であるキリストは、偉大な存在ですが、わたしたちが彼の戒めを守り、彼を愛することで、まるで大切な友人のような存在になります。

あなたのために命を捧げたイエス・キリストを、あなたはどれだけ普段思い出していますか?

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書 第15章13節)