今から2,000年以上前にイエス・キリストが地上で教えた教義、示した愛、奇跡、そして模範は、現代の私たちの生活に影響を与え続けています。
キリストについて知り学ぶことで、この世界を平和にするために何ができるか、身近な人を大切にしていることを伝えるためには何をしたらいいか、学ぶことができます。
また、キリストがしたことと同じように、キリストがしなかったこと、決して言わなかった言葉を知ることで、彼がどんな個性を持っていたのかを学ぶことができます。
もしかしたら多くの人がこの視点を持ったことがないかもしれません。
そこで今回は、イエス・キリストがこの地上で人々に教えた時にしなかった8つのことを紹介します。
現代を生きるわたしたちにとって、とても価値ある教えとなるでしょう。
1. キリストは、使徒たちに最も優れた人たちを選ばなかった

キリストは地上で教えている間、1人の漁師、1人の取税人、そして、聖書に記録されるほど重要とは思えない職業の人々を選びました。
もちろん職業がその人自身を表すものではありません。しかしキリストのこの選択は、多くの人が予想できなかったかもしれません。
使徒たちは最も聡明な候補者だったでしょうか。おそらく違いました。
最も賢く、義にかなった人々だったでしょうか。おそらく違いました。
では最も備えられた人々だったでしょうか。おそらくそうだったかもしれません。
そして最も進んでキリストの求めに応じようとする人々だったでしょうか。はい。
キリストはごく普通の人々を選び、並外れたことを成し遂げさせることを常としていたのです。その普通の人々は、弱さ、罪、不安、固定観念、そしてさまざまな葛藤、先入観、迷いという重荷を抱えていました。
彼らはわたしたちとは違う特別な存在だったわけではありませんでした。そしてキリストはわたしたちにも、驚くべきことを成し遂げる力を与えることができます。
2. イエス・キリストは姦淫の女を罪に定めなかった

罪や過ちを犯したら、どんな人でもその代価を払わなければなりません。そしてイエス・キリストはわたしたちのために、その代価を支払います。しかしそれでもなお、真心からの悔い改めが必要なのです。
多くの人が姦淫の女の物語を知っているのは、イエス・キリストが憐れみを示し、さらに大切な教えを授けたからです。主はわたしたちに、人を罪に定めてはならないことを教えました。
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。 」
― ヨハネによる福音書 第8章11節
確かに、イエス・キリストは彼女を罪に定めませんでした。しかし彼女は、自分の罪の赦しを得るために、悔い改めの過程を経る必要がありました。
姦淫は軽い罪ではないことを忘れてはなりません。
3. キリストは、人々が自分を踏みにじることを許されなかった

もしかしたらイエス・キリストをこんなふうに想像していませんか?
現実離れしていて、幻想的な姿。天使のようで、なんでも受け入れてくれる。いつも従順で、争うことなくどんなことも赦してくれる。そして人々に好きなように扱われるままの姿を。
しかし、そうではありませんでした。
イエスは当時の社会に大きな変化をもたらす存在でした。
人々の考え方を改め、根深く定着した当時の宗教的解釈に異議を唱え、ユダヤ人にとって最も神聖な場所である神殿においてさえ、権威をもって行動しました。
そして、自分が長年待ち望まれていたメシヤであると宣言されました。それは決して小さな主張ではありませんでした。
主は安息日に人々を癒しました。また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と語るなど、多くの人が受け入れ難いと感じた教えを説きました。
そして、主に反対する人々から問い詰められても、決して退きませんでした。自分の言葉と行いを守ったのです。
救い主が贖罪を成し遂げるため、「ほふり場に引かれて行く小羊」のようになったのは確かです。
しかし、神様の御心に完全に従っていたその時でさえ、実際には誰1人として主を支配していたわけではありませんでした。
ペテロが「大祭司のしもべを打ち、その耳を切り落とした」とき、イエスは暴力でも恐れでも応じませんでした。
主はそのしもべを癒やし、ペテロにさらに高い道を教えました。そしてこう言いました。
「わたしが父に願って、天の使いたちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか。」(マタイによる福音書 第26章53-54節)
無力に見えたその時でさえ、キリストは自分の意思で行動していました。主が十字架にかけられたのは弱さではなく、確かな意志による選択だったのです。

主の揺るがない謙遜さは、地上で伝道していたほかの場面とは、対照的です。
神殿を清めたとき、主は静かな小羊ではありませんでした。毅然としておられ、断固としていました。神様の家を清めるという使命を持ち、権威をもって行動したのです。
ジェームズ・E・タルメージ長老は、『イエス・キリスト』の中で次のように記しています。
「キリストが神殿を清めるために力をもって行動された出来事は、キリストをあまりにも従順で控えめな存在として描き、あたかも確固とした意志を持たないかのように考える従来のイメージとは一致しません。主は苦難の中では柔和で忍耐強く、悔い改める罪人には憐れみ深いお方でした。しかし、偽善に対しては厳格で、決して妥協することはありませんでした。 」訳:信仰プラス
またマタイによる福音書 第10章34節にもこう書かれています。
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 」
キリストは地上での伝道を終えるその時まで謙遜であり、完全に神様に従いました。
しかし、それは決して人々が主を操ったり、脅したり、主の使命を決めたりすることを許したという意味ではありませんでした。
キリストの柔和さは弱さではありませんでした。
それは、制御された強さでした。
そしてそのことは、「主のようになる」とはどういう意味なのかというわたしたちの理解を、根本から変えるものです。
4. イエス・キリストは福音を制限しなかった

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子とし(なさい)。 」(マタイによる福音書 第28章19節)
「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」 (ガラテヤ人への手紙 第3章28節)
神様は自身のすべての子供たちを愛し、完全な愛をもって接します。では、なぜイエス・キリストは、「イスラエルの家の失われた羊」のためにだけ遣わされたと言われたのでしょうか。(マタイによる福音書 第15章24節)
その鍵は、特別扱いではなく、秩序にあります。
聖文を研究すると、神様は定められた秩序に従って御業を行うことが分かります。
古代の父系制の伝統では、長子は長子の権を受けました。
それは、指導と霊的管理に関する特別な責任でした。長子は主に聖別され、聖約を守り、神様の律法を家族の他の者へ伝える責任を負っていました。
イスラエルは、聖約の計画の中でその長子の権を受けました。そのため、キリストが地上に来たとき、地上での伝道は聖約の民、すなわち「イスラエルの家の失われた羊」の間で始まりました。
それは、他の人々の価値が低かったからではなく、神様が聖約の秩序に従って働いていたからです。
キリストはまず、霊的な責任を受けた人々を教えるために来ました。その後、彼らが世に光をもたらすことになっていたのです。
復活の後、その範囲は広がりました。使徒行伝10章から11章で、ペテロは異邦人に福音を伝えるよう啓示を受けました。そして救いのメッセージがすべての人のためのものであることが確認されました。最初の順序は、永続的な排除ではなく、備えでした。
その後、使徒たちの死と大背教を経て、福音は終わりの日に異邦人の間から回復されました。こうして、救い主が教えた原則が成就したのです。
「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。 」(マタイによる福音書 第20章16節)

神様は偶然に働くことはありません。
神様には時があり、過程があり、目的があります。
イエス・キリストも、「父のもとで見たこと」を行うと宣言しました(ヨハネによる福音書 第8章38節)。主の伝道は、神様の御心を完全に反映していました。
福音が最初にユダヤ人へ、そして後に異邦人へ宣べ伝えられた順序の背後にある理由を、わたしたちは完全には理解できないかもしれません。しかし、それが主の完全な時の表れであることは認めることができます。
そしてその時は、聖文が教えているように、すべてのことが明らかにされるとき、さらに十分に理解されるでしょう。
神様の愛が問題であったことは決してありませんでした。神様の御業の秩序もまた、そうではありませんでした。
5. キリストは律法を廃するためではなく、律法を成就するために来た

これはキリスト自身の言葉です。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」 (マタイによる福音書 第5章17節)
調べてみると、「成就する」という言葉は、「願いや目標、計画などが思い通りに叶うこと、または物事を完全に成し遂げること」と定義されています。
一方、「廃する」とは、「今まで続いていた習慣や制度などをすっかりやめて、行わないようにすること、また人や地位をその立場から退けたり、取り除いたりする」と定義されています。
キリストは律法や、それを教えた預言者たちを廃したいとは望んでいませんでした。それらには価値があり、今日でもわたしたちはそこから学ぶことができます。
旧約聖書には、わたしたちが学ぶことのできるキリストの象徴が数多くあります。
モーセの律法は、犠牲と正確な従順について多くのことを教えてくれました。義と啓示に関するすばらしい模範を示した預言者たちを尊敬しています。
もしキリストが律法を「廃し」たなら、もしそれを重要ではないものとして退けたり、「誤っている」として攻撃したなら、わたしたちは信仰と聖さに関する偉大な模範を失っていたでしょう。
キリストはモーセの律法を損なったり、攻撃したいとは望みませんでした。なぜでしょう。主は、その律法を最初に制定したエホバだったからです。しかし、その律法が終わりを迎える時が来ていました。

人間であるわたしたちは、ときどき、終わるべきものは悪いもの、損なわれたもの、不完全なものだけだと考えがちです。時にうまくいっているものも、なぜ終わらせるのでしょうか。それを、さらに優れたものに置き換える以上に良い理由があるでしょうか。
それがキリストがしたことです。主は、良い律法であったモーセの律法を、さらに良い律法、より高い律法へと置き換えました。
わたしたちが主にさらに似た者となることを望むためには、その律法をさらに強める必要があると知っていました。
それはある意味で、以前のホームティーチャーと家庭訪問教師がミニスタリングというプログラムに変更したことを思い出させます。
「古い律法」は非常に具体的でした。実行したかどうかを記録する表がありました。難しいこともありましたが、何を期待され、いつそれを行うことが期待されているのかが明確でした。
ラッセル・M・ネルソン大管長は、ホームティーチャーや家庭訪問教師が、悪い慣行やプログラムだったと非難したわけではありませんでした。
ただ、それらを終え、完成させ、さらに優れたプログラムのための場所を設けたのです。
キリストが制定したより高い律法と同じように、ミニスタリングは言葉よりも御霊に、行うべき事柄の一覧よりも個人の義に重点を置いています。
ミニスタリングはわたしたちが進歩し、さらに主に似た者となり、御業を早めるよう促す、キリストからのもう一つの霊感です。
キリストは律法を廃するためではなく、それを成就するために来ました。そして今なお真実である、過去の原則の上に築いたことを理解するとき、主はわたしたちがすでに学んできた真理を用いて、より良い人へと築き上げていることが分かります。
6. イエス・キリストは誰も一人にしなかった

イエス・キリストはヨハネによる福音書 第16章7節で宣言されました。
「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう 。」
わたしたちはこの世で孤独や悲しみを感じることがあります。しかしキリストにあって、わたしたちは一人ではありません。主と調和している限り、主の御霊はわたしたちとともにあり、困難な時に導いてくれます。
ダニエルのときと同じように、イエス・キリストはわたしたちのそばにいてくれます。
イエス・キリストは決してためらいません。主はわたしたちを見捨て、置き去りにすることもできました。しかし、そうはされません。これは心から感謝すべきことなのです。
ダニエルは信仰によってライオンから守られました。アルマとアミュレクのために牢獄の壁が崩れ落ちました。レーマン人サムエルはどんな武器にも傷つけられませんでした。2,050人の若い戦士たちは生き残りました。
イエス・キリストは、わたしたちを見捨てていないのです。
7. イエス・キリストは自分を誰よりも優れた存在とは考えなかった

イエス・キリストは人を差別しませんでした。主は人々を、その本来の姿、すなわち神様の子供として見ていました。
イエス・キリストは人には近づくことのできない光の中に住み、その力によって宇宙を支え、海にさえ境界を定めているにもかかわらず、自らへりくだることを選びました。
この世の特権や名誉を携えて来たのではありません。キリストは地位や身分、地上での名声を求めませんでした。誰一人として劣った者として扱いませんでした。すべての人を、その本来の姿、すなわち神様の息子、娘として見ていたのです。
主は弟子たちの足を洗いました。誰も触れたがらなかったらい病人にも触れました。取税人や罪人たちと同じ食卓に着きました。
人々を癒し、養い、解放しました。そして最後には、世の罪の代価として自身の体をささげ、人間の忍耐の限界に至るまで十字架を担ったのです。
預言者イザヤは、すでにメシヤがどのように来られるかを預言していました。
「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 」 イザヤ書 第53章2節
主には、人々に畏敬の念を抱かせるような外面的な偉大さはありませんでした。主の栄光は誇示されたものではなく、自ら覆われたものでした。
イエス・キリストは、その権利を十分に持っていたにもかかわらず、決して優越感から行動しませんでした。
主の権威は高慢さではなく、奉仕によって示されました。主の力は支配によってではなく、自らをささげることによって表されました。
宇宙の王は、すべての人の僕となることを選びました。
そして、その最高のへりくだりの行為を通して、真の偉大さとは他人の上に立つことではなく、ほかの人を立ち上がらせるために自ら低くなることであると教えられました。
8. イエス・キリストは自身の望みを行われなかった

「血のような大粒の汗」を流し、苦悩がその身の隅々にまで及ぶ中で、イエス・キリストはこう叫びました。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。 」 マタイによる福音書 第26章39節
ゲツセマネから救い主の真の人間性を見ることができます。母マリヤを通して、イエスは死すべき性質を持っていました。
自分を待ち受けている肉体的、感情的、霊的な苦痛を正確に知っていました。主が直面していたのは象徴的なものではなく、限りない苦しみでした。
その杯は抽象的なものではありませんでした。現実のものでした。
しかし、最大の苦悩の時でさえ、主の祈りは要求ではなく、自らをささげるものでした。
キリストは自身の望みを行うために地上に来たのではありません。
自分を遣わした神様の御心を行っていると繰り返し宣言しました。そしてゲツセマネで、その真理は最も純粋な形で示されました。
杯が過ぎ去ることを願ったことは弱さではありません。それは完全な率直さでした。神様の御心を受け入れられたことは諦めではありません。それは完全な愛だったのです。
主は拒むこともできました。天使の軍勢を求めることもできました。すべてを止めることもできました。しかし、そうしないことを選びました。

最も無力に見えた時でさえ、キリストは完全な自覚と決意をもって行動しました。
主は犠牲へと引きずられて行ったのではなく、自ら進んで御自身をささげたのです。迫害する者たちに支配されたのではなく、神様の計画が成就するために、その出来事が起こることを許されたのです。
主は最も容易な道を選んだのではありません。永遠の道を選びました。
この世界では「自分の心に従うこと」や「自分のしたいことをすること」に執着してしまいますが、イエス・キリストはさらに高いことを示したのです。
真の自由とは、自分の意志を神様の御心に一致させることなのです。
そして、この意思の強い従順が、わたしたちすべての運命を変えたのです。
参考:masfe.org
