下に引用するのは、ランダール・J・ブラウンの著書「キリストを経験する:救い主への個人の旅」の一部です。この本は2009年にシーダ・フォートより出版されました。ブラウンはイエス・キリストにあって、またイエス・キリストを通してでしか私たちが救われることはないと述べています。キリストの私たちの生活における役割は無限です。ブラウンは末日聖徒イエス・キリスト教会(ときどきはからずも「モルモン教会」と呼ばれる)の会員で、イエス・キリストの献身的な信者であり、弟子です。

私たちの負債を経験する

mormon-jesus-gethsemane主の天よりの助け無しには自分たちは無力であると気づくことは、私たちが主の恵みを本当の力の源として頼るようにしてくれます。賛美歌「来れ、なれ万の祝福の源」は私たちがいかに容易にさまよいやすく、さまよっている自分を主に結びつける救い主の恵みにどれほど依存しているかという点を強調しています。

ああ、私は恵みにどれほど日々に頼っていることでしょうか!汝の善良さが、足かせのごとく、私のさまよえる心をつなぎ止めてくださるように。さまよいがちな私を、主よ、愛する神を離れがちな私ですが、私の心ここにあり、ああ、それを取り、封じてください。汝の天の宮に封じてください。[1]

私たちはみな救い主の無限の恵みに恩があります。その恩は決してお返しすることができません。私たちはみなさまよえる羊で、羊飼いの絶え間ない導きを必要としています。救い主の回復された教会の会員でありながらも、私たちはさまよえる羊で、なぜならばしばしば私たちは福音の聖約における自分の限られた役割を誇大視してしまうからです。そうすることで、自分たちが救い主の恵みに完全に依存していることを見過ごしてしまう危険があるのです。

私たちの多くはニーファイの次の声明を誤解しています。「それは、わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われることを知っているからである。」(2ニーファイ25:23)ある人たちはこの聖句を次のように解釈します。私たちは自分を完全なものとするようにあらゆることを尽くさなければならず、それから、自分が自己充足、自制心、自己正義の限りを尽くした時に、主は足りない所を補ってくださると。

そのように考えることは、私たちは自分の救いをもたらす働きの大部分は自分自身にあると主張しているように感じられます。それはまた、救い主の助けが必要にならないようにできる限りのことを独力でやるべきだと言っているようにも思われます。しかし、もし少しでも不足している部分があれば、主にその足りない部分を補ってもらうべきだと言っているように思われます。このように考えることは、私たちの聖約関係における主の無限の貢献について非常に浅い理解をしていることを露わにしています。無限の方であるキリストとの聖約関係にあることによってのみ、私たちを救い、昇栄させるに十分なほどに、私たちの霊における銀行口座の残高が確保できます。私たちの有限な役割だけでは、決して十分になり始めることさえできないのです。

この私たちの聖約における不十分な(有限の)役割と救い主の十分な(無限の)役割の顕著な違いを理解するための方程式は次のようです。

(無限)—(有限)=(無限)

言葉を替えて言えば、有限なものと無限なものとの違いは、いつでも無限なのです。私たちがすることと救い主がなさることとの違いは、常に無限なのです。私たちの持ち分をとってそれを100乗したとしても、その結果は相変わらず有限なのです。

私たちの有限の力をどれほど増したとしても、有限なものと無限なものの違いはいつも無限であり続けるのです。私たちがどれほど聖約の自分たちの役割に努力をつぎ込んでも、私たちは相変わらず自分を救うことに関しては救い主の無限の力に完全に頼っているのです。堕落したこの世の存在として、私たちはいつも「ふつつかな僕」(モーサヤ2:21)なのです。

私たちは私たちの救いに対する主の無限の貢献に対して、イエス・キリストにあらゆる栄光を与えるべきです。私たちは主が無限で永遠の贖いの犠牲を私たちのためにしてくださったことを知って喜ぶべきです。私たちは主の驚くべき恵みに対してほめたたえ、礼拝すべきです。それは無限の賜物であって、私たちは決して自分で勝ち得ることができないものです。

とにかく、私たちは自分で一体何ができるというのでしょうか。私たちが進んで行うことが必須ですが、私たちがすることは何も十分ではありません。私たちがすることは、ただキリストのもとに来て、主の救いの恵みに与り、主の贖いの血によって御父との関係を修復することです。もちろん、私たちはこれらの段階を踏むことにおいてさえも、その恵みに完全に頼らないでは、私たちの努力は可能にはならないのです。私たちは信仰を実践することにおいても主の恵みに頼っています。神の戒めに従う努力ができるように主の恵みに頼らなければなりません。私たちはその一歩一歩の段階で主の恵みに負債を負っています。

イエス・キリストの救いをもたらす恵みは神が御子を通して私たちに授けてくださった驚くべき賜物です。しかし、主の恵みはどのように私たちのもとにもたらされるのでしょうか。神は神聖な特質や力をどのように単なる人である私たちにもたらされるのでしょうか。それは聖霊の力によってなされるのです。すなわち主がこの世の人間である私たちに恵みを伝達する媒介です。私たちが罪、弱さ、病気、この世で経験するあらゆる激烈な試練から救い出されることを求める時に、その救助はいつも主の恵みにより、それを通して行われ、そしてそれはいつも主の神聖なタイミングで起こるのです。

私たちは主の救助が確かなものであることを信頼しなければなりません。しかし、これらの約束が成就するのは私たちが、艱難が私たちに教えることになっている教訓を学んだ後に来ます。それらは私たちがへりくだり、自分自身を神聖な特徴に合わせて変えることによって初めて与えられます。

自分が人生の中で、一人で役割を果たすことのないようにしてくださっている救い主イエス・キリストに永遠に感謝し続けるでしょう。私は主を通して、また主によって、私が、力、救助、平安、導き、愛、理解などを得ることができることを知っています。そして、全く現実的に、主を通してのみ、私はあらゆる良いもの、神聖なものを受けることができることを知っています。私は主を愛しています。そして主は私を愛しておられます。

私はあなたがイエス・キリストを単なる良い人としてではなく、あなたの救い主として、信奉なさるようにお勧めします。祈りの気持ちでキリストの言葉をよく味わうことによってそうなさるようにお勧めします。キリストの言葉は、とりわけ復活なさった主がアメリカ大陸を訪れられた(モルモン書の3ニーファイにある)ことの記録の中に見いだされます。私はこの事を試して、本当に力づけられる形で生活が豊かになり、啓発されてきました。

[1] 「来れ、なれ万の祝福の源」、賛美歌集、1948年、70番

この掲載はアシュリーによっていますが、彼女はこれまでに、イエス・キリスト42の投稿を行っています。アシュリー・ベルは22歳の妻、母、BYUの卒業生、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。アシュリーは走ること、料理、園芸、読書が好きで、何よりも家族や友だちと過ごすのが好きです。