聖き御霊は救い主が私たちに下さる多くの賜物の一つです。様々な名前がありますが、その中には聖霊とか慰め主という名称が含まれます。
心に聖霊がある状態は私たちがイエスとともに歩むためになくてはならない条件です。聖霊は神の真理を伝える者で、それ無しでは私たちは真理から逸れてしまいます。
新約聖書のヤコブはもし知恵が必要であれば、神に尋ねることができるという約束を与えています。この約束は、もし私たちが、何が永遠の真理か知りたければ、祈り求めることによって答えが得られるということです。宗教家の中にはそのような試みをすることに警告する人たちもいますが、そのような態度は聖書の教えに反するばかりか、本当に神の力を過小評価しています。確かに神は、御自分が私たちに聖霊を通して語られる時にそれが認識できるように助けることがおできです。私たちが答えを求めて祈れば祈るほど、私たちは御霊が、私たちが考えていることが真理であると確信させて下さる温かい気持ちをよりよく認識できるようになります。まず、最初によく問題点を研究して決断を出します。それから私たちの決断についての確認を求めて神のもとに行きます。(時々自分の決断が誤りであることを教えられます。)それから神が私たちに告げられることに信仰を持って前進します。
聖霊のもう一つの役割は私たちを安全に保つことです。身体的にも、道徳的にも、霊的な意味でも安全に進むように助けてくれます。時には危険が近づいている時に警告を与えてくれます。私たちが、神が私たちにすることをお望みでないことをやろうとしているとき(罪深いことか、または単に神が、私たちがすることを計画されていないかの理由で)私たちは強い不安の念を受けるかもしれません。私たちが正しいことをしている時、平安で正しい気持ちを感じますが、それが、私たちが正しい軌道に乗っているということを聖霊が私たちに語りかけていることなのです。
それから、聖霊は人生において正しい選択をし、不必要な試練を避けて進みたいと思っている全てのクリスチャンにとって非常に価値のある道具になります。試練のない人生はありませんが、聖霊は私たちが、本当に必要がない試練を通らずに済むようにしてくださいます。どのようにしたら私たちは聖霊が私たちの所に来て永遠に共に居て下さるようにすることができるのでしょうか。
だれでも聖霊の促しや影響を経験することができます。さもなければ、私たちは真理を決して学ぶことができないでしょう。私たちがすべきことは正直な気持ちで真理を探究することだけで良いのです。時々適切な生き方をしようとしている人たちは直感とか良心とかと捉えている気持ちを感じます。しかし、それは、本当は聖霊の影響力なのです。
しかし、時々そのような気持ちを受けるよりももっと大きな賜物は、日夜、いつでも聖霊をともにすることができることです。モルモン(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に対するニックネーム)は聖霊をいつも得られると教えています。バプテスマを受けた後、神権者が私たちの頭に手を置いて、教会の会員として確認します。それから私たちが聖霊の賜物を受けるように招きます。
この時から、私たちは聖霊を常時受けることができるのです。それは聖霊を伴とすることがふさわしい生き方をしている時に成就します。私たちが意図的に罪を犯している時には聖霊は宿りません。ですから、私たちが聖霊の警告を無視すると去ってしまいます。これは危険な状態です。聖霊が共に居て下されば守られるはずのものを失うからです。
モルモンは聖霊の神聖な存在が私たちに伴って下さるのにふさわしくなろうと熱心に努めます。私たちがいつも聖霊を伴とすることができ、私たちがこの世の生活を歩む時に何をなすべきで、何が本当なのかを示して下さることは慰めとなり安心感を与えてくれます。
聖霊の賜物を受ける方法を学んで下さい。
聖霊が心に宿ることができる
テリー・リン・ビットナー
この記事はテリー・リン・ビットナーによって書かれました。彼女はこれまでにイエス・キリストに55の投稿をしています。