わたしはニーファイ第一書を何度も読むにつれ、わたしの頭の中にはあるテーマが形作られ始めました。ニーファイは、霊的な事柄を気乗りのしない兄たちに理解させるときに、重要なテーマに重点的に取り組むことです。
以下は、1ニーファイ17章から見本として一節を引用しています。この章は主がニーファイに船を一隻造るよう命じられている箇所です。彼の兄たちは手伝いたくなかったので、ニーファイは兄たちに警告し、彼らに主の力を示すために、彼らの身を震えさせました。
これが表面上のストーリーですが、その表面下には、神の特質、神の律法、信仰、主の万人への愛、人の扱い方などの豊かな教義(いうなれば金の塊)があります。ここに出てくる聖句は、ニーファイ第一書17章からのものです。パート1では、最初の4つの金塊(価値あるもの)について説明します。残りの3つは、来週の投稿で説明します。
1.神の言葉は絶対的である
3節は、疑問の余地のない発言で始まっています:「このように、神の命令は必ず成し遂げなければならないことが分かる。」ニーファイは、家族が荒れ野を旅していたときに経験した苦難について話しています。主は、彼らが荒れ野にいた8年間、火を使うことを許されなかったので、彼らは生肉を食べなければなりませんでした。主は肉を「甘く」されました。
ニーファイは、主の戒めについて語りましたが、その多くは守るのが難しいものでした。主の戒めを守るように人々に奇跡を与えられ、イスラエルの人々がエジプトから導き出されたときのように、主が戒めを与えられました。これらの奇跡には、約10年間生肉を食べて生き延びられるようにしてくださったこと、リアホナに導かれたこと、女性たちは強められ子供たちに乳を十分飲ませることができたこと、彼女たちは男のように強かったので、子供を身ごもって大きなお腹を抱えていたときでも、砂漠を歩くことにも耐えることができたことが含まれます。
次のことを考えてみてください。この宇宙に存在するもので、唯一主の戒めを無視するものは、主の子供たちです。もし主が銀河系や星に動くよう命じられると、それらは命じられたようになります。もし主が地球の元素に命じられるならば、それらは直ちに従います。そのため、イエスさまは嵐を静め、水の上を歩き、病人を癒すことがおできになりました。すべての元素は、主の声に従います。主の子供たちのみが、大胆にも主に反抗します。
3節:このように、神の命令は必ず成し遂げなければならないことが分かる。もし人の子らが神の戒めを守るならば、神は彼らを養い、強くし、また御自分が命じられたことを成し遂げる手段を与えられる。それで神は、わたしたちが荒れ野にとどまっていたときにも、わたしたちに手段を与えられた。
主はわたしたちに、「人が存在するのは喜びを得るためである」(2ニーファイ2:25)と言われました。わたしたちが戒めの一つに従うたびに、従順であることの報いとして天父から何らかの形で祝福を受けます。ニーファイは、戒めを守る者には、扉が開かれ、神が命じられたことを行うことができるように助けを得られると、彼の記録の中の複数の場所で何度も繰り返しています。戒めを守ることにより、わたしたちが神に信仰を働かす限り、主は命じられるどんなことでも、わたしたちがやり遂げることができることを示されます。
ニーファイにとってこれはとても単純な考えですが、どういうわけか、レーマンとレムエルにはとても難しいものです。ニーファイとサムは、この原則を額面どおりに受け入れ、何度も繰り返してそれを証明しました。レーマンとレムエルは、主の約束を信じることを拒みました。圧倒されるような証拠を前にしても、彼らは信じることを拒否するので、ニーファイは彼らの心がかたくなであることを叱責しました。
2.神はわたしたちの信仰を次第に試される
1ニーファイ17:8-9の8節と9節の間で、主は、ニーファイに造るよう言われた船のブループリント(設計図)を示されたことを含む、多くのことをニーファイに明らかにされました。ニーファイの心には、行って船を造るという戒めがすでにしっかりと固定されていました。彼が必要としたのは、どこへ行けばあらがねを見つけられるか教えを受け、主が示された方法で船を造るための道具を造ることを考え出すことでした。
8節: そこで主は、わたしに言われた。「わたしがこれから示す方法に従って、一隻の船を造りなさい。この大海を越えて、わたしがあなたの民を連れて行けるようにするためである。」
9節:それでわたしは、「主よ、お示しくださった方法に従って船を造るための道具を造るには、どこへ行ってあらがねを見つけたらよろしいでしょうか」と言った。
ニーファイは、ラバンから真鍮版を得るため兄弟とエルサレムに2度戻り、再度エルサレムへ行き、イシマエルに家族と共に荒れ野に来るよう説得した経験により、この作業を成し遂げるため、ある程度備えられて来ました。ニーファイは、ラバンから真鍮版を手に入れるためエルサレムに戻る前は、御霊の啓示とメッセージについて簡単に記録しています。しかし、ニーファイは信仰の試しを勇敢に乗り越えた後では、ラバンと二人の兄たちから極悪な反抗を受けたにもかかわらず、ニーファイの啓示ははるかに広大で詳細なものになりました。
ニーファイは、主への従順さを示すと、主はニーファイの子孫の将来と、数千年後アメリカ大陸に住むすべての人々の行く末もお見せになりました。さらに主は、船を造るよう命じられました。ニーファイがこのようなことを経験した後で、なぜ主は船をお造りにならなかったのでしょうか? ニーファイが見た主が成就されたことと、将来主が達成される示現とを比較して見て、主が船を造られるのはそんなに難しいことなのでしょうか?
3.主は常に御自身を立証される
しばしば主は、主がわたしたちに命じられることに関して完全な説明なしに、わたしたちが行うことを要求されます。それは、信仰の試しです。(そのため、わたしたちはここにいるんですよね?覚えていますか?)わたしたちはときどき忘れてしまいますが、ある時点で、主は、わたしたちが理由もなく戒めに従っているのではないことを、いつもわたしたちに示されます。主は常に、わたしたちが正しくて賢いことを行っていることを示してくだるでしょう。
13節と14節では、もしニーファイの家族が戒めを守るならば、主は、彼らに主が割り当てられた大きな偉業を成し遂げられるよう、道を備えてくださることについて書かれています。主の約束の後に、ある時点で、正しい時に彼らをエルサレムから導き出したのは、リーハイではなく神であったことを彼らが知るようになると約束されました。主は、彼らが破滅から救い出してくださったのも主であったことを、彼らにまた示されます。
13節:わたしはまた、荒れ野であなたがたの光となろう。あなたがたがわたしの命令を守るならば、わたしはあなたがたの前に道を備えよう。したがって、あなたがたはわたしの命令を守るかぎり、約束の地に導かれるであろう。そして、あなたがたを導いているのがわたしであることを知るであろう」と言われたからである。
14節:主はまた言われた。「あなたがたは約束の地に着いた後、主なるわたしが神であり、また主なるわたしがあなたがたを滅亡から救い出したこと、まことに、わたしがあなたがたをエルサレムの地から連れ出したことを知るであろう。」
あなたは、エルサレムが滅ぼされたことと、主がリーハイとニーファイにユダヤ人の身に起こるすべての事について話されたことが正しいと、どのように主は明らかにされたのかと疑問に思うかもしれません。結局のところ、彼らは別の大陸にいました。エルサレムが滅ぼされた事実は、啓示によりもたらされました。ニーファイ人が、エルサレムの王の息子の子孫であるミュレク人と出会ったのは300-500年後のことでした。ミュレク人は、崩壊とバビロンへの捕囚を逃れた唯一の王族の一員でした。これは、エルサレムが預言どおりに滅びたことを示す、最も信頼のおける物理的な証明でした。
わたしが、主は常に御自身を立証されると言ったことに注目してください。ときに、物事が証明されるのに数世紀、または千年かかりますが、どちらにしても、預言者に従うことは賢いことであることは、常に証明されるでしょう。その過程は単純です。わたしたちは信仰を働かせ、信じることを選び、信じると決めたことを行動にすると、ある時点で、信仰が試された後に、(すべてをご存知である)主の時に、わたしたちが信じていることは正しいということが証明されるでしょう。わたしたちの信仰が試されるまで立証されないというこの原則は、福音を信じるわたしたちすべてにとって中心となります。神がわたし個人に立証されることは、ときに大勢の人々の信仰の試しより重要ではないことを覚えておくのは大切なことです。主は常に御自身を立証されるでしょうが、それがわたしが生きている間に来ることを期待していません。(しかし、立証されるときに感謝します。)
4. かたくなな心に対処する
レーマンとレムエルは、(故意に)不信仰であっただけでなく、高慢でもありました。心をかたくなにするには、不信仰の性質と、神や他の誰かよりも自分の意思を上に置く高慢の両方がなくてはなりません。あなたが1ニーファイ17:19-22を読むときに、彼らに何が欠けているのかを特定してみてください。
19節:そこでわたしニーファイは、兄たちの心がかたくななためにひどく悲しんだ。すると兄たちは、わたしが悲しみだしたのを見て心の中で喜び、わたしのことでうれしく思ったほどで、このように言った。「おまえに船が造れないのは分かっていた。分別が足りないからだ。おまえには、そんな大仕事を成し遂げることはできない。
20節:おまえは、心に浮かぶつまらない空想に惑わされた父によく似ている。まことに、父は我々をエルサレムの地から連れ出し、我々は長年の間荒れ野をさまよってきた。そして、我々の妻は身重の体で身を粉にして働き、荒れ野で子を産み、ただ死ななかっただけであらゆる苦しみに遭った。妻たちは、このような苦難に遭うくらいなら、エルサレムを出る前に死んだ方がましだった。
21節:見よ、我々は、長年の間荒れ野で苦しんできたが、その間に自分たちの財産や受け継ぎの地を欲しいままにして、幸せに暮らせたかもしれない。
22節:我々は、エルサレムの地にいた民が義の民であったことを知っている。なぜなら、彼らはモーセの律法に従って、主の掟と裁決と主のすべての戒めに従っていたからだ。だから我々は、彼らが義の民であることを知っている。ところが、父は彼らを裁いた。そして、我々が父の言葉に聞き従ったので、我々をエルサレムから連れ出した。弟は父によく似ている。」兄たちはこのような言葉でつぶやき、父とわたしに対して不平を言った。
彼らの議論の中で欠けているものが見つかりましたか?レーマンとレムエルは、諸要素から神を完全に除外しました。彼らが、唯一神について言及したのは、エルサレムにいるユダヤ人はモーセの律法を守っていたので、彼らは正しい人たちであったに違いないと議論しようとしたときでした。
この話の中で主を除外することは、彼らなりの狙いがありました。主を除外することにより、社会は父親に従うよう要求するので、彼らの夢を見る父親は、無意味なことをさせ、要するに彼らの人生を台無しにしました。彼らの父親の夢のおかげで、彼らは財産をすべて失い、家を捨て、永遠に友達を失いました。彼らは幸せの元をすべて奪われてしまいました。兄たちを助けるためニーファイは彼らに、彼らの話の中に主を除外していることを思い出させます。
45節:あなたがたは罪悪を行うのは早いけれども、主なるあなたがたの神を思い起こすのは遅い。あなたがたは一人の天使に会い、その天使はあなたがたに語りかけました。まことに、あなたがたはその声を時々聞いています。天使は静かな細い声で語りかけましたが、あなたがたは心が鈍っていたので、その言葉を感じることができませんでした。それで天使は雷のような声であなたがたに語りかけ、その声は、まるで引き裂くほどに大地を揺り動かしました。
これはわたしたちが当てはめるべき重要な教訓です。わたしたちはどれくらいの頻度で、大変なことが起こると不満を言いたいと感じたり、さらに、主がわたしたちが幸福を見出せるように、助けてくださるすべての事を考慮しないでいるでしょうか? レーマンとレムエルは、実際に何回も主の声を聞きました。主は彼らに優しく語りかけられましたが、彼らが不信仰だったため、主は彼らの注意をむけさせるために少し大声で話す必要がありました。彼らは、実際に天使を見たことがあり、天使の説教に耐え忍ばなければなりませんでした。
わたしたちは、どれほど霊的な促しや、わたしたちを助けることができたであろう「偶然」や、わたしたちが聞きたくない祈りの答えなどを無視してきたのでしょうか?ときどきわたしたちは、物事が公平でなかったり、わたしたちが望むように物事がならないととても動揺します。わたしたちは主に対して怒り、主の御心を聞いたり理解する努力を止めてしまいます。そこまで来ると、わたしたちの心はかたくなになり、御霊はわたしたちに何も教えることができなくなります。この時点で、わたしたちはただ極端なものだけに注目するようになります。わたしたちのかたくなな心が短く、あまりかたくなにならないことを望みましょう。
最終的な考え
わたしは、ニーファイの教えを学ぶことが大好きです。彼は、福音を一つの大きな完全なものとして捉え、すべては一緒に理解される必要があると考えます。ニーファイはこのように教え、彼の考えを主張するために、さまざまな事柄から原則を取り入れます。
モルモン書を学び始める際に、福音を一つの大きな完全なものとして結び付ける、これらの参照聖句を注意して見てください。主は、神の子供たちすべてを平等に愛しておられますが、主に反抗し、自分たちに悲しみをもたらすのはわたしたちです。宇宙の元素はすべて主の御心に従うので、主は元素に対して忍耐する必要はありません。主に最も悲しみをもたらすのは、神の子供たちです。しかしまた、わたしたちが主を信頼し従順になることを学ぶときに、最大の勝利の瞬間をもたらします。
以下は、1ニーファイ17章から見本として一節を引用しています。この章はニーファイが船を一隻造るよう命じられている箇所です。彼の兄たちは手伝いたくなかったので、ニーファイは兄たちに警告し、主は二人の兄たちに主の力を示すために、彼らの身を震えさせました。
これが表面上のストーリーですが、その表面下には、神の特質、神の律法、信仰、主の万人への愛、人の扱い方などの豊かな教義(いうなれば金の塊)があります。ここに出てくる聖句は、1ニーファイ17章からのものです。
先週に投稿したパート1で、最初の4つの価値あるものについて説明しました。残りの3つは少し長いので、パート1と2に分けて投稿することにしました。ニーファイが書いたことの中には、力強い教訓があります。
5.すべてのものは、神の言葉により行われる
ニーファイは、神は口先だけの神ではなく、すべてのものは神聖な命令により行われることを、兄たちに分からせようとします。何らかの命令なしに、何事も行われません。神の御言葉は、全世界を統治する力です。ニーファイは、イスラエルがエジプトの捕らわれの身であったことを例にしています。モーセは、彼らを捕らわれの身から救い出すよう命じられました。モーセは、主が望まれることをすべて行えるように、一つずつ教えを受けました。モーセが行ったすべての奇跡は、主がモーセに語られた言葉に従って行われました。モーセは、やりたいことを好きなようにしていたのではなく、彼が行ったことすべては、神聖な指示によるものでした。以下は、25-31節からの聖句です:
25節:あなたがたは、イスラエルの子らが奴隷の状態になっていたことや、彼らが耐え難いほどの苦役を負っていたことを知っています。ですから、彼らが奴隷の状態から導き出されることが、彼らにとって良いことであったに違いないことを、あなたがたは知っているのです。
26節:あなたがたは、モーセがあの大いなる業を行うように主から命じられたことを知っています。また、モーセの言葉によって紅海の水が右と左に分かれ、イスラエルの子らが乾いた地を渡ったことも知っています。
27節:しかしあなたがたは、パロの軍勢であるエジプト人が、紅海でおぼれて死んでしまったことも知っています。
28節:あなたがたはまた、イスラエルの子らが荒れ野において、マナで養われたことも知っています。
29節:またモーセが、自分の内にある神の力によって言葉を発して岩を打ったところ、水がわき出し、これを飲んでイスラエルの子らが渇きをいやすことができたことも知っています。
30節:彼らの神であり贖い主である主は、彼らに先立って進み、昼は彼らを導き、夜は彼らに光を与え、人が受けて益になるあらゆることを彼らのためにしてくださいました。そのようにして導かれたにもかかわらず、彼らは心をかたくなにし、思いをくらまして、モーセとまことの生ける神をののしりました。
31節:そこで神は、御自分の御言葉のとおりに彼らを滅ぼし、御自分の御言葉のとおりに彼らを導き、御自分の御言葉のとおりに彼らのためにあらゆることを行われました。神の御言葉によらないで行われたことは何もありません。
この最後の2つの節は、いかに人間は気が変わりやすいかを明示しています。シナイの荒れ野にいたときも、神はイスラエルの子らが命を維持し繁栄するように、すべてのことをしてくださったにも関わらず、彼らは神に心を背き、エジプトの神ではなく、エジプトの習わしを望みました。彼らの心痛は、彼らの頑固さとイスラエルの神を信じ崇拝する気がなかったことが原因でした。
ここで注意すべき大切な点は、主はすべての人を公平に重んじられるというところです。主は常に、すべての事は主の言葉により行われるという規則に従われました。主は人々に、幸福になるための聖約と要求について説明されました。信仰を持って主の御言葉を受け入れ、彼らの特権に従うことにより約束された祝福を受けるか、または、同じ御言葉を拒み、神の律法に不従順であることから来る罰と不幸を受けるかは、彼ら次第でした。幸福か不幸を選ぶのは、常に人々の選択によるものでした。それと同様に、わたしたちも選択によって幸福か不幸を選ぶのです。
6.普遍的な神の愛
ときに人々は、なぜイスラエルの民は約束の地へ入り込み、その地の人々を追い散らして滅ぼさせることを許されたのかについて、理解に苦しむことがあります。32節から38節では、原則が説明されています。悪に対する万物の標準があることに注目してください。国民の罪悪が熟したときのみに、主は彼らを滅ぼされます。
罪悪が熟すとは、人々が悔い改める能力を失うことを意味します。彼らの人生のこの時点で、彼らを救うことができないサタンに自分自身を引き渡すこととなります。神の御霊は、彼らに働きかけることを止めます。別の言葉で言うと、御霊は、もはやキリストの贖いの力は彼らの魂に及ばないことを宣言します。そうなると人々はすべてサタンのものになります。人々がこのような地点にたどり着くまで、主は常に彼らを救おうと努められます。これは、聖約内の人々だけでなく、聖約外の人々も含められます。
教会で、ときどきわたしたちは、主はわたしたちを救うためだけに働かれ、もし誰かがバプテスマの聖約を喜んで受け入れないならば、その人は完全に道に迷うことになると思うことがあります。それは違います。この世で福音を受け入れない人々がいますが、霊界で彼らは福音を教えられることが先任されています。主はそれでも、この世でサタンの手中から人々を救おうとされます。この世で福音を聞く機会がなかった人々をも救おうとされます。
これらの節は、いかなる国民も彼らの罪悪が熟すまで、主は彼らを滅ぼされないことを主張しています。しばしば主は、罪悪が熟した人々を滅ぼすのに、悪人を使われます。この際、主は聖約の民を送られました。彼らは神によって命令を受けたので、 殺害は、イスラエルの人々にとって罪と見なされませんでした。これにより、異なる状況では悪事と考えられることも、神が命じられることは何であれ、正しく公平であることが分かります。ニーファイがラバンを殺したときも、これも神により認められたことであった例です。それは命令により行われました。
32節:そして、彼らがヨルダン川を渡ると、主は彼らを、その地に住む人々を追い散らして滅ぼすほどにまで強大にされました。
33節:さて、この地の人々、すなわち、約束の地に住んでいてわたしたちの先祖に追い出された人々、あなたがたをその人々を義人だと思いますか。まことにわたしは、決してそうではなかったと言います。
34節:あなたがたは、彼らがもしも義人であったなら、わたしたちの先祖は彼らよりもさらにえり抜かれた者になっていたと思いますか。わたしはそうではなかったと言います。
35節:まことに、神はすべての人を公平に重んじられ、義にかなった者は神から恵みを受けます。しかしまことに、この民は、神のすべての御言葉を拒んで罪悪が熟しました。それで、神の満ちみちた激しい怒りが彼らに下り、主は彼らに対しては地をのろい、わたしたちの先祖のためには地を祝福されました。すなわち、彼らに対しては、地をのろって彼らを滅びに至らせ、わたしたちの先祖のためには、地を祝福してその地を治める力を得させてくださったのです。
36節:まことに主は、人が住めるように大地を造り、それを所有できるように御自分の子供たちを造られました。
37節:そして主は、義にかなった一つの国民を起こして、邪悪な者たちから成る諸国民を滅ぼされます。
38節:そして主は、義人を貴い地へ導き、また悪人を滅ぼして、彼らのために地をのろわれます。彼らの行いがそうさせるのです。
34節から、「えり抜かれた」者とは、血統によるものではないことが分かります。もし、イスラエルが入り込み殺した人々が義人であったなら、彼らは神の目から見て、イスラエルの家の人々と同じように重要な存在だったことでしょう。35節では、主の立場を明白にして次のように言われました。「義にかなった者は神から恵みを受けます。」実にシンプルです。
それがこの地上のどこであっても、神により与えられた地にわたしたちが住むことができるのは、わたしたちが義にかなう者であるかにかかっています。わたしたちが、わたしたちの社会の標準に沿って生活し、神から与えられた良心に耳を傾ける限り、主はわたしたちを祝福してくださるでしょう。主が与えてくださった光を拒むときが、わたしたちが罪悪に熟すときです。そのときに、主はすべての国民を、彼らがいる場所や土地 から取り去り、もっとふさわしい人々にそれを与えられると約束されています。
アメリカは、唯一最も高い標準を持つ国と考えられている場所です。主が、西半球で最もえり抜かれた地であると宣言されて以来、そこに住む人々に、唯一の真の神である主に仕えるよう要求しておられます。さもなくば、ひとたび罪悪に完全に熟すようになると、地上から一掃されることになります。
7.偉大なことを行う信仰はシンプルである
次の多くの節は、すでに読んだ聖句ですが、強調するために、別の聖句と組み合わせてみました。ニーファイの信仰は、神の力と能力についての広い見方に基づいています。彼は、行うと決めたことはどんなことでも神はおできになることを、完全に信じました。また、主が行うように命じられ、完全なる信頼を主において行うならば、奇跡は起こることができ、これからも起こるであろうということを、ニーファイは自らの経験から学んできました。
奇跡は、わたしたちには説明することができない単なる出来事です。主にとってそれらは奇跡ではなく、ただニーファイにとってそれらは奇跡であることを彼は理解していました。主はすべてを理解しておられます。主の深い憐れみと導きに頼り、ニーファイはまったく疑問を抱かず、すべての任務に自分自身を捧げました。ニーファイは、従順であり神の務めにくじけないように努力したので、主が喜んでニーファイを祝福されることを完全に信じました。
これらの聖句を読むときに、ニーファイの観点から彼が何を言おうとしているのかを考えてみてください。ニーファイは、子供のころから教えられてきた基本的な教えを兄たちに繰り返しただけでした。彼らは皆、神がモーセやイスラエルの子らに示された奇跡について理解し知っていました。彼らはこれらの事は事実であり、神がこれらのことを行ったのは、彼らが神より選ばれた民であったからであることを教えられていました。彼らはこのようなことが彼らの身にも起こることを期待すべきでした。
26節:あなたがたは、モーセがあの大いなる業を行うように主から命じられたことを知っています。また、モーセの言葉によって紅海の水が右と左に分かれ、イスラエルの子らが乾いた地を渡ったことも知っています。
27節:しかしあなたがたは、パロの軍勢であるエジプト人が、紅海でおぼれて死んでしまったことも知っています。
28節:あなたがたはまた、イスラエルの子らが荒れ野において、マナで養われたことも知っています。
29節:またモーセが、自分の内にある神の力によって言葉を発して岩を打ったところ、水がわき出し、これを飲んでイスラエルの子らが渇きをいやすことができたことも知っています。
46節:またあなたがたは、主が全能の御言葉の力をもって、この大地を過ぎ去らせることがおできになることを知っています。また主が、御自分の御言葉によって起伏の激しい地を平らにし、平らな所を崩すことがおできになることを知っています。おお、それなのにどうしてあなたがたは、そのように心をかたくなにしていられるのですか。
50節:わたしはまた彼らに言った。「どのようなことでも神がわたしに命じられれば、わたしにはそれができる。もし神がわたしにこの水に向かって『陸になれ』と言うように命じられれば、水は陸になる。わたしがそう言えば、そのとおりになる。
51節:主がこのように偉大な力をお持ちになって、これほど多くの奇跡を人の子らの中で行われたとすれば、どうしてわたしに一隻の船を造ることを教えられないことがあろうか。」
これを今日の基準で表現すると、「Duh moment(そんなの当たり前でしょ的瞬間)」と呼べるでしょう。もし神がそれほどの偉大な力があり、神が人に命じ、その人が命じられたとおりに奇跡を起こすことができ、陸に向かって水になれと命じればそのようになり、山を動かし、岩を打って水をわき出し数百人の渇きをいやすことができるなら、神が船を造るよう命じられないことがあるでしょうか。これらの奇跡の中で、より難しい奇跡はどれでしょうか?
ニーファイについての最終的な考え
わたしたちが、リーハイとニーファイの約束の地への旅について考えるときに、彼らが直面した試練と苦難だけを考えますが、あなたがニーファイの言葉を読む時に、彼が多くの場合、希望に満ちていて、神の子供たちへの神の愛あふれる憐れみに、喜びを感じていたことに気づくことを願っています。ニーファイは、従順であることとすべての事において主を信頼することを選んだので、愛あふれる憐れみを受けました。
ニーファイは、疑念を持たずに、主の言葉に従順であり信頼することを選んだので、奇跡は彼の生活の中で日常的な出来事になっていました。ニーファイは、自分ができることをすべて行うと、主が命じられて果たさなければならないことは何であれ、主が助けてくださることを期待するようになりました。わたしたちは皆、このような信仰を持てるよう見習うべきです。主は実に奇跡の神であり、わたしたちは奇跡について説明をする方法を知りません。わたしたちは、虹がどのように起こり、風がどのように機能するかは知りませんが、このことに関して口論をしようとは思いません。ただそれを受け入れ感謝します。わたしたちは、同じように神からの祝福を、疑問を抱かずに感謝して受け入れる必要があります。
この記事はKelly P Merrillによって書かれ、LDSBlogsに掲載されたものです。
質問です。
荒れ野を徘徊するのであれば、燃料となる木々がなかったと推測します。
そのために火を使うことができなかったのかと考えていますが、
火を使うことを神が許されなかったとどこに書かれてあるでしょう?
また、肉を甘くしたとはどの部分でしょう?
ご教示いただけましたらありがたく存じます。
池川兄弟、コメントをありがとうございます。ニーファイ第一書12節に『荒れ野を旅するときに、主はこれまでわたしたちに、あまり火をおこすことを許されなかった。主が、「わたしがあなたがたの食物の味を良くするので、煮炊きするには及およばない。』と書いてあります。英語ではsweetと書かれてありました。枝で弓を作っていますし、船も作っているので、木々はあったようですね。火を起こさない理由は私にはわからないです。誰かに見つからないようにでしょうか?どなたかご存知の方、コメントいただけますか?