「死んだらどうなるのか」というのは全人類に共通する疑問です。死後には何が起きるのでしょうか?よく使われる比喩は、手袋をした手を想像することです。人は死ぬと手(霊)が手袋(体)から出るのです。そして(復活とも言われる)「手袋」と「手」が再び一つになる前に、学びと成長の期間があります。この真理は、モルモン教の教義と啓示から見出すことができます。

 

死と復活の間に何が起こるか

幸運にもわたしたちには、学び成長する期間がこの人生の後にもあります。モルモン教ではこれを「霊界」と呼んでいます。イエス・キリストの福音を教えられ受け入れている人々は、霊界にある霊のパラダイスに行きます。そして、まだ福音を受け入れていない人々は霊の獄(ひとや)へ行きます。霊のパラダイスにいる霊は、霊の獄にいる霊を教えます。そして彼らがキリストの福音を完全に受け入れて、キリストの贖いにしっかりつかまった状態になり、悔い改めた時に霊のパラダイスに移ることができます。霊界で過ごす時間は、わたしたちを裁きの日のためにもっと備えさせてくれます。そこでわたしたちは、愛する人たちとの再会も喜びます。(霊界の霊たちへのキリストの教導の業についての示現の記事はこちらです。)

 

死後、大切な人とともにいられるか

「死んだ後も愛する人と一緒にいられるのか」といことは、長いこと多くの人の心を不安にさせてきた疑問です。愛する人が一緒にいない天国を想像することができますか。わたしにとっては、彼らの存在が天国を作るでしょう。地上にキリストの教会を回復した預言者ジョセフ・スミスは兄を亡くしたので、この同じ疑問が心に押し迫っていました。

アルビンが世を去ったとき〔イエス・キリスト教会が回復される前〕,家族はニューヨーク州パルマイラの長老派の牧師に葬儀の司式を依頼した。アルビンはその牧師の信徒ではなかったため,牧師は説教の中で,アルビンは救いを得ることができないと断言した。ジョセフの弟ウィリアム・スミスは,次のように回想している。「〔牧師は〕……〔アルビン〕は教会員でなかったので地獄に行ったと,とても強い調子で言いました。しかしアルビンは善良な人であり,父は牧師のその言葉を好ましく思いませんでした。」

アルビンの死後、多くの歳月を経た1836年1月,ジョセフ・スミスは日の栄えの王国の示現を受け,その中で自分の父母だけでなく,アルビンもまたいつかその王国を受け継ぐことになるのを見た。ジョセフは「〔アルビン〕がどのようにしてその王国で受け継ぎを得たのか不思議に思った。〔アルビン〕は主が再びイスラエルを集める業を始められる前にこの世を去り,罪の赦しのためのバプテスマを受けていなかったからである。」(教義と聖約137:6)すると主の声がジョセフに聞こえ,次のように告げた。

「この福音を知らずに死んだ者で,もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう者は皆,神の日の栄えの王国を受け継ぐ者となる。これから後,この福音を知らずに死ぬ者で,真心からそれを受け入れたであろう者も皆,その王国を受け継ぐ者となる。主なるわたしは,すべての人をその行いに応じて,またその心の望みに応じて裁くからである。」(教義と聖約137:7-9)(預言者ジョセフ・スミスの教え:p401-403)

 

天国にふさわしくなる

「最後の裁きにおいて、わたしたちの備えができている王国で場所を受け継ぐでしょう。聖文には3つの栄光の王国について説かれています。すなわち、日の栄えの王国、月の栄えの王国、星の栄えの王国です。(教義と聖約88:20-32参照)」(福音の原則2011年、p268-274)(第一コリント15:40-42も参照) 

わたしたちの思い、言葉、行いすべてが、わたしたちを裁くために使われます。(アルマ12:14、マタイ12:36-36、モーサヤ5:2参照)もしわたしたちの思い、言葉、行いが神の律法にすべて一致していたら、日の栄えの王国を受けます。その日の栄えでのみ、家族と永遠に一緒にいることができます。ですからわたしたちは日の栄えに集中するべきです。それは、天の様々な王国にいる愛する人たちと再び会えないということではありません。しかし天の最も高い王国では、彼らとそして神の家族に結び固められることができるのです。わたしたちは誰も完全ではありません。そしてそれが、わたしたちに救い主が与えられている理由です。イエス・キリストは、わたしたちが贖われることができるように、すべての罪を引き受けられました。

天国とはどのようなところか

現代の啓示である教義と聖約の76章で、ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは、日の栄えの王国の示現について説いています。場所について焦点を合わせるよりも、どんな人々がそこにいるかについて分かち合っています。

すなわち、彼らはイエスの証を受け入れ、その名を信じ、そしてイエスの名によって水の中に沈められ、イエスから与えられた戒めのとおりにその埋葬に倣ってバプテスマを受けた者である。

それは戒めを守ることによって、彼らが自分のすべての罪から洗われて清くされ、この力を持つように聖任され結び固められている者の按手によって聖なる御霊を受けるためである。

また、彼らは信仰によって勝利を得、御父が正しくかつ真実な者すべてに注がれる約束の聖なる御霊により結び固められている者である。

これらは、自らの血を流すことによってこの完全な贖罪を成し遂げられた、新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされた正しい人である。

これらは、その体が日の栄えの状態にある者である。その栄光は太陽の栄光、すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であり、その栄光は大空の太陽によって象徴されると記されている。(教義と聖約76;51-51、69-70)

預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが、天国を説明するために言えたであろうことすべてを考えたときに、何がそこにあるかではなく、誰がそこにいるかを記録したことに留意すると興味深いです。ですからわたしたちが天国について考える時、実際の場所だけを考えてわたしたちの視界を狭くすべきではなく、天国にいる人々はどのような人々かということも考えるべきでしょう。その考えは、これらの疑問を生じさせます。わたしたちは今、天国のような環境に自分を置こうとしているだろうか。わたしたちの人格を高め、気持ちや生活を向上させる人たちと時間を過ごそうとしているだろうか。わたしたちの行動により、そして人生に求めるものにより、天国のような生活を今日始められると、私は信じています。モルモン教の信仰箇条の13条は、天国への道をどのように始められるかの完璧な規範を示しています。

わたしたちは、正直、真実、純潔、慈善、徳高くあるべきこと、またすべての人に善を行うべきことを信じる。実に、わたしたちはパウロの勧告に従うと言ってもよい。わたしたちはすべてのことを信じ、すべてのことを望む。わたしたちはすでに多くのことを耐え忍んできており、またすべてのことを耐え忍べるようにと望んでいる。どのようなことでも、徳高いこと、好ましいこと、あるいは誉あることや称賛に値することがあれば、わたしたちはこれらのことを尋ね求めるものである。

「死後の生活があるのならば、どのようなものか」と言う疑問に答えるために、イエス・キリストが死の縄目を断ち切ったと言う喜ばしい真理を思い起こしましょう。彼は、復活しました。復活という彼の輝かしい奇跡のおかげで、永遠の喜びを待つ栄光ある体に復活することができます。私は、モルモン教の十二使徒、ラッセル・M・ネルソンによる「死後の生活」と言う話が好きです。彼はこのように語りました。

私は感謝の気持ちと断固たる確信を持って, 死後にも命があると申しあげます。人は皆まず霊の世界において存在し, また, 死から復活して存在し続けるのです。神が生きてましますこと, 救い主イエスが神の御子であることを私は知っております。救い主こそ「よみがえりであり,命」です。(ヨハネ11:25)主は生きておられます。主は私の主人であって, 私はその僕です。心から主を愛しております。私は主を証します。(「死後の生活」、聖徒の道 1987年7月)

わたしは、イエスがキリストであり、わたしたちは彼を通して御父がもっておられるすべてを受けることができると証します。宣教師に会って、モルモン教についてもっと学ばれるようお勧めします。彼らは、どんな人生の疑問にも答えられるようあなたを助けることができます。神によって召されたイエス・キリストの代表者だからです。

この記事は、アシュリーによって書かれました。

アシュリー・ベルは22歳で、妻、母親、BYU卒業生であり、モルモン教の会員です。アシュリーは、ランニング、料理、ガーデニング、読書、そして何よりも家族や友人と時間を過ごすのが好きです。