主の安息

モルモン教の会員が信仰について話すときに、「主の安息」という表現が用いられることがあります。主の安息ということがアルマ書(モルモン書の中の1つの書)で、アルマが次のように説明しています。

さて、わたしの同胞よ、わたしたちはこれらのことを知っており、これはほんとうのことであるので、主なるわたしたちの神がわたしたちにあたえてくださったこれらの第二の戒めについて神を怒らせ、神の激しい怒りを招くことのないように、悔い改めて、心をかたくなにしないようにしようではないか。そして、神の御言葉のとおりに備えられている神の安息に入ろうではないか。(アルマ12:37)

主の安息という表現は、神の子供たちの生活には2つの意味で当てはまります。1)神の戒めに従うことによって、確信を持って、堅固な精神の平安を持つこと、2)永遠の命というより大きな平安を得ること。

 

従順さと知識によって安息を見いだす

神は私たちに、この世において指針と平安を与えるために戒めを与えられました。神はまた、救いに関する目的を達成するために、御名によって行動する権威と権能である、神権の権能を私たちに授けてくださっています。戒めや神権の儀式があるために、わたしたちは救い主に対する証を強めることができます。福音に生きるともっと強く決意することができるようになります。福音に沿ってに生きることを決心することが強まれば、敵対者の誘惑にもっと動じなくなり、日々の決意から来る継続する平安をもっと享受するようになります。

福音の教義が分かれば分かるほど、わたしたちはこの地上で主の安息をもっと享受するようになります。モルモン教の預言者であったジョセフ・F・スミス大管長は、こう述べています。

「〔主の安息〕は神の知識と愛に入って行くことを意味し、その目的と計画に対し自分が正しいと確信する程度に信仰を持ち、ほかのものを追い求めることなく、あらゆる教義の風に惑わされることなく、あるいは欺こうと待ち構えている人々の狡猾やずる賢しこさにも動じないことです。」

わたしたちが福音の知識を増すときに、主における安息を見いだすことができます。聖典を探求し、祈りに従事することにより知識を確実なものとし、この世での生活に平安を増すことができます。

 

神権の儀式の役割

神権によって行われる儀式は、わたしたちがこの世と永遠にわたって主の安息に入るために必須です。神権の儀式の目的は神の安息に神の子供たちを備えさせることです。

さて、これらの儀式は次のように与えられます。それによって人々は神の御子を待ち望むようになり、それが神の秩序の典型となり、あるいは神の秩序となり、自分たちの罪の赦しを得るために御子を望むようになり、主の安息に入るようになるためです。(ジョセフ・F・スミス、福音の教義、1986年、139−140ページ)

神権の儀式には、浸礼によるバプテスマ、聖霊の賜物を授けるための按手礼、主の神殿におけるエンダウメント、永遠に伴侶に結び固められる儀式があります。神権の儀式を執り行う時、わたしたちは神と聖約を交わしますが、その聖約を守ることによりこの世では平安を、この世の生活の後には神とともに住む永遠の命を与えられます。

天の父は神権の儀式をわたしたちに益あるように、またわたしたちが成長出来るように設定されました。わたしたちが聖約の中でなした約束を熱心に守れば守るほど、人生を通してより多くの平安と幸福を見いだします。

 

主の永遠の平安

永遠の観点からは、主の平安は天父とイエス・キリストとともに永遠に住むことを意味しています。この平安は裁きの後に来ます。復活の後、わたしたちがイエス・キリストの福音をどれほど受け入れ、それを生活の中で実践したかどうかに応じて与えられます。永遠の主の安息とは,、主の御前に完全でまた栄光に満ちた存在として入って行くことです。そのような完全さはイエス・キリスト御自身の恵みによってのみ得られます。モルモン教はイエス・キリストの救いの力を信じ、主を通してのみ救いがあることを信じています。戒めに従うことは必須の条件で、戒め自体が重要であるばかりでなく、誠実に従うことが救い主に従うべきことに対する個人の決意を表しているからです。神は子供たちに機会を与えられて、来世での安息のみならず、この地上でも安息があることを祝福して来られました。わたしたちのこの世での生活には試練や困難が満ちていますが、主の福音によってわたしたちは主の平安を今、この瞬間にも得ることができます。またその平安は続き、永遠に神と御子とともに住めるようになるまでに至ります。

 

この記事はもともとモルモンウィキに掲載されたものです。