今回のテーマは神の愛を日々の生活の中に感じること、神がわたしたちを御自身の霊の子供として愛してくださっていることを感じることです。これらのことをするためには聖霊の助けが必要です。聖霊はすべてのことを思い起こさせ、あなたに必要なすべてのことを示してくださいます。

神の愛を感じられないと悩んでいませんか?そのような悩みを持っている人はあなただけではないですよ。

まずある方が送ってくれた文章を、その方から許可を得た上で紹介したいと思います。

「残念ながら、わたしは始めのステップでつまずいています。自分が神から愛されている神の娘であることを信じることができません。教義としては、神はわたしたちの霊の父であり、御自身の子供たちのためにこの計画を立てられたことを信じています。わたしは姪たちに『神の子です』を歌ってあげることがあります。それが真実であることを信じたいのですが、実際の生活の中でそのように感じられないのです。最近わたしは、神の娘として愛されているのか確かめるために断食をしました。しかし答えや導きを受けることができませんでした。天は閉ざされ、わたしはその教えには当てはまらず、神の王国においてはわたしはイスラエルの娘ではなくて、ただの異教徒の僕であることを痛感せざるを得ませんでした。わたしは長年このことについて苦しんできましたが、未だに祈りが届いていないと感じています。わたしはこれからも神の愛を感じるために戦い続けることに価値があるのかを疑問に感じ始めました。」

この手紙を読みながら、わたしは同じような気持ちを抱いている人達のことを考え、心が痛みました。程度の違いこそあれ、同じように感じている人がいるでしょう。

まず一番始めに皆さんにお伝えしたいことは、永遠の父なる神と救い主イエス・キリストはすべての人を心から愛していらっしゃることです。たとえ自分をどのように評価しようとも、神はすべての人を変わらず愛して下さいます。ニーファイは「義にかなった者は神から恵みを受け(る)」と言いました。その言葉の真意は、神の戒めを守る者はより多くの祝福を得るということです。義にかなった生活をしているにも関わらず、他の人と同じ祝福を受けられないのは、自分が神から愛されず、恵みを受けていないからだとは思わないでください。たとえ祝福を受けていても、あなたの受けている恵みは様々な理由から気付きにくいものである可能性があります。

トーマス・S・モンソン大管長はこのように教えられました。

「天の御父は皆さんを、皆さん一人一人を愛しておられます。その愛は不変です。その愛は、皆さんの外見や持ち物、あるいは銀行口座にある金額に左右されるようなものではありません。皆さんの才能や能力でも変わりません。その愛はただそこにあるのです。皆さんが悲しんでいるとき、喜んでいるとき、落胆しているとき、希望に満ちているとき、皆さんのために存在しています。神の愛は、皆さんがその愛にふさわしいと感じているかどうかにかかわらず、皆さんのために存在しています。いつもそこに存在しているのです。」

ネルソン会長は最近の総大会でこのようにお話しされました。

愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちが感じる幸せは、生活の状況ではなく、生活の中で何に目を向けるかにかかっているのです。生活の中心を神の救いの計画とイエス・キリスト、主の福音に向けるなら、人生で何が起こっても、起こらなかったとしても、喜びを感じることができます。喜びは主から始まり、もたらされるものです…末日聖徒にとって、イエス・キリストは喜びです。」(2016年10月総大会「喜びー霊的に生き抜く道」ラッセル・M・ネルソン)

モルモン書にはリーハイの夢について書かれています。その夢に描かれているすべての事物は、キリストのことを思い起こさせてくれます。主は道であり、鉄の棒、神の御言葉、生ける水の源、そして命の木です。その実は贖罪を表しています。

ニール・A・マックスウェル長老は1999年10月の総大会でこのように述べました。

「神の愛である命の木の実…(1ニーファイ11:25)。神の愛が最も深く表れているのは、イエスを贖い主として送ってくださったことです。『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった』(ヨハネ3:16) 神の愛にあずかるとは、イエスの贖いと、それがもたらす解放と喜びにあずかることです。」

神の愛を感じるために一番よい方法は、悔い改め、常に真心から贖いの実を受け、聖霊と共にいることです。命の木にたどり着き、イエス・キリストの贖いの犠牲の実を頻繁に頂くことです。

 

ビショップも試練に見舞われる

主はわたしがまったく予期せぬ方法を通して、わたしを愛していることを示してくださいました。2012年4月、わたしは12年間続けた仕事を失いました。その当時、わたしはビショップとして4年半ほど奉仕していました。まるで自分のキャリア計画を根底から覆されたようでした。すべてが思い通りに行きませんでした。わたしたち家族はそれまでにも経済的に困窮しており、終わりが見えないようでした。悲しみ、怒り、落胆、失望を感じていました。何よりも困ったことに、二か月後、息子のシェーンが伝道に出る予定でした。

その日、わたしは帰宅後に心を注ぎだして、なぜそのような事柄が起きたのか、その理由を知るために祈り求めました。今までビショップとして忠実に奉仕してきたのに、なぜ、今このような目に遭わなければいけないのですか?今までわたしはワードの会員やその他の多くの会員たちに、神は御自分の子供たちを愛されていることを教えてきました。もちろんわたしはその教えを100パーセント心から信じていました。それでも数年の間にうつの症状が進行し、この世的な祝福を得られないことが続いていたために、わたしは先ほどの姉妹のように、自分はまったくの除外者であると感じていました。「神はわたしを愛していませんし、わたしはいつまでたっても幸せになれません」と。自分でもそれはうつ病の兆候だとは気づいていましたが、心底そのように信じていました。

自分の理解力が増し加えられ、神がわたしに望まれていることを知れるように祈り求めました。わたしは聖典を読むようにわずかな促しを受けたように感じました。わたしは聖典をおもむろに開けば、必要な聖句が見つかると思いました。そうすれば主の御腕に包まれ、みんなと同じように、困難な中にあっても温かい気持ちを感じられると思いました。しかしわたしはそのような経験をすることができませんでした。

それから、わたしは前の日に、聖典学習で読んだ個所から読み進めるべきだとの導きを受けました。モルモン書のある章に、リムハイと彼の民がレーマン人の奴隷の状態から解放されるように懸命に主に懇願している様子が描かれていました。彼らはアルマの民のように謙遜に神の方法に頼ることをせずに、自分たちのやり方を貫いたために、幾度も失敗を繰り返しました。アルマの民は、神の助けを求め、忍耐と信仰を持って神にすべてを委ねたので、その重荷が軽くされました。主は重荷を取り上げることはしませんでしたが、重荷を軽減されたのです。彼らは試練のただ中にあって、祝福を得ました。主は重荷を軽くすることを通して民に御自身の愛を示されました。主は取り除くことはせず、耐え忍ぶために重荷を軽くしてくださいました。

わたしは平安や愛を感じるどころか、聖句を読むたびに御霊を通して主に懲らしめを受けているように感じました。主はわたしの長年犯してきた間違いを明らかにされました。そしてわたしは自分の高慢さや、神に対する感謝に欠けていたことにようやく気がつきました。主は変わらず常にわたしを愛されていますが、わたしはまったくそれが分っていなかったのです。

時折、主は懲らしめを通して、わたしたちに愛を示されることがあります。そうすることによりわたしたちはへりくだり、生活の中に主の御手をはっきりと感じられるようになるのです。長い間、わたしは次々に降りかかるこの世の試練から、自分は何を学べるかを考えてきました。わたしは心から高慢さや感謝の欠如について悔い改めたときに、穏やかな気持ちに包まれ、すべては上手くいくと感じました。主は民を愛していることを証明するために、人を懲らしめるとおっしゃっています。

「まことに、主は、愛するあなたがたにこのように言う。そして、わたしはまた、愛する者たちを懲らしめる。それは、彼らの罪が赦されるためである。わたしは懲らしめるとともに、すべてのことにおいて彼らが誘惑から救い出される道を備えるからである。わたしはあなたがたを愛してきた。」(『教義と聖約』95:1)

その後、事態は良くなりませんでした。この世的な観点からは、むしろ物事は悪化しましたが、わたしは生活に主の御手を見出し、忍耐し、信仰を持つことができました。毎日わたしたちはクリストファーソン長老の勧告に従い、主に「日々のマナ、またはパン」を願い求め、その日に必要な費用を支払えるように祈りました。そして一日の終わりには、その日のマナが与えられたことを主に感謝しました。二年間わたしたち家族はこの習慣を続けてみて、ようやく改善の兆しが見え始めました。主はわたしたちが一日一日を乗り越えられるように祝福し、わたしたちに主の愛を示してくださいました。


息子を亡くした母親が神の愛を見出す

神が愛を示されるもう一つの方法は、周りの人を通してわたしたちに愛を伝えられることです。バーバンク家族の話を許可を得た上でご紹介します。

2017年7月、同じワードの若い男性、コルトン・バーバンクが夜中に発作に襲われ、20歳のその生涯を閉じました。彼と母親のカレンは大の仲良しでした。彼女は悲しみに打ちひしがれ、とても動揺していました。彼女はコルトンなしでどうやって生きていけるのでしょう?

それから数か月、彼女は気持ちを切り替えるためにありとあらゆる努力をしました。何としてもコルトンを近くに感じたいと切望したのです。家族、友達など多くの人々が彼女にコルトンの存在を近くに感じた話をしました。でも母親のカレンにはコルトンを近くに感じられませんでした。なぜ主はコルトンの一番近い存在である母親にそのような経験をさせてくれないのでしょうか?主は他の人と同じように彼女を愛していなのでしょうか?

ある日曜日の扶助協会の時間に、わたしの妻レスリーはカレンがいつもよりも悲しそうな様子をしていることに気付き、彼女の隣に座りました。カレンは気分を害している様子だったので、妻は彼女を廊下に誘い出しました。カレンは泣き止むことができませんでした。二人が立ったまま話していると、4人の男性が別々のタイミングで近づいてきて、彼女が泣いている様子を見て立ち止まり、まるでコルトンがするように彼女を抱きしめました。4人目の男性はビショップでした。

みんなでカレンに祝福を授けることにしました。話していくうちに、カレンは自分以外のすべての人はコルトンが幕の向こう側にいることを感じているので、神様は自分だけを愛していないように感じると言いました。その瞬間、わたしはコルトンが人々に大きな影響を与えていたことを彼女に知らせ、そうすることで彼女に幾度も愛を伝えようとしていたことが分かりました。幕の向こう側でも彼は変わらずコルトンのままです。すべての出来事は神の愛を証していたのです。15分前、廊下を歩いていた4人の男性はそれぞれ導きに従い、まるでコルトンがするようにカレンを抱きしめたのです!この4つのハグは、神が彼女を御存じであり、愛していることを証明しています。わたしがこのことを彼女に伝えると、まるで心が光で照らされたかのように彼女は変わり、主の愛をはっきりと感じられるようになったのです。

2018年7月、コルトンの葬儀から一年後にカレンは肝臓がんの診断を受けました。そして2019年2月、この世を去りました。彼女は祝福されて、再びコルトンと天で共に暮らしているでしょう。


神が愛を示される方法

ほとんどの場合、主は周りの人との交わりを通してわたしたちに御自身の愛を示されます。時折わたしたちは感情的になるあまり自分が欲しいものしか目に入らず、他者を通してようやく神の愛に気がつくことがあります。

ガラテヤ人5章にはこのようにあります。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実」わたしなりに付け加えると、促しを感じること、慰め、隣人を愛すること、霊感、祈りの答え、お話やレッスンを聞く時にひらめきや理解を得ること、祈り、聖文を読むことなどが含まれます。

わたしたちが御霊の実を受けることは、それ自体がわたしたちへの神の愛を表しています。ある人は、神の愛を感じること、御霊の実を受けることは別物だと考えています。しかしそうではありません。御霊の実は、天のお父様がわたしたちに愛を示されていることを証明しています。神はすべての子供たちが御元に戻ることを望まれていて、わたしたちが清められ、精錬されるために必要なすべてのことを行なわれます。それは大きな霊的経験の場合もありますが、ほとんどは試練、逆境、周りの人、小さな御霊の実の成就、時には懲らしめを通してもたらされるものです。

2007年10月の総大会の中で、ヘンリー・B・アイリング管長は生活の中に神の御手を思い起こしたり、見出すことについて素晴らしいお話をされました。その中から一部引用したいと思います。

「わたしはそれから何年も、毎日少しずつ書き留めました。どんなに疲れていても、翌朝どんなに早起きしなくてはならないとしても、一日も休みませんでした。書く前には、次の質問を考えるようにしました。『今日、神がわたしたち、子供たち、家族に御手を差し伸べられ、触れられるのを見ただろうか。』続けていくうちに、何かが起き始めました。一日の出来事に思いをはせると、神が家族の中のだれかのためにされたことで、日中の雑多の中では気づけなかったことがよく分かるようになったのです。そうすると、それは何度も起きたのですが、覚えておこうと努力することで、神は御自身がなさったことを示してくださることが分かるようになりました。

言い尽くせないほどの感謝の念が心に芽生え始めました。証が育ったのです。天の御父が祈りを聞き、答えてくださるという確信が今までになく強まりました。救い主イエス・キリストの贖いによって人の心が和らげられ、清められることに対して、さらに感謝するようになりました。またそのとき気づかなかったり、関心を向けていなかったりしたことも、聖霊はことごとく思い起こさせることがおできになるということも、今まで以上に確信ができるようになりました。

皆さんに切にお願いしたいことは、神の優しさに気づき、覚えておく方法を見つけることです。

「かつて受けし主の恵み数えてみなば驚かん。」

証を得て、その証を保てるように物事を覚えておくには、聖霊を伴侶として受けることが鍵となります。神がわたしたちにしてくださったことを理解できるようにしてくださるのは聖霊です。わたしたちの仕える人たちが、神がしてくださったことを理解できるように助けることがおできになるのも聖霊なのです。

…気づいていないだけで、誰にでも霊的な経験はあるはずです。

大半の人が気づいている以上に主がわたしたちを愛し、祝福してくださっていることを証します。」

父なる神はわたしたちのそばに居て、わたしたちの日々の生活に密接に関っていらっしゃいます。わたしたちが聖霊を常に伴侶とするためにできる限りのことをするならば、神はわたしたちにその愛をお示しになるでしょう。神はあなたには他の人とは違う方法でお話するかも知れないので、神がどのようにあなたに語りかけるのか、どのように愛を示されるのかを知るために祈り求める必要があるかもしれません。

みなさんの中にはうつ病、不安障害、他の精神的な病に悩まされている方々がいらっしゃいます。そのような方々は聖霊はおろか神の愛さえも感じられない状態にいることを知っています。なぜ皆さんの気持ちが分るかと言うと、わたしも同じような経験をしており、今でも日々悩まされているからです。たとえすべてのことを正しく行ったとしても、どんなに努力したとしても、皆さんは愛や御霊を感じることができないかも知れません。もしそのような気持ちを感じているのならば、ぜひ信頼できる友人や家族に助けを求め、あなたが主の愛の御手に気づき、それを書き留められるようにしてください。あなたはこれからもわたしと同じように悩み続けたり、苦しみが長い間続くかもしれませんが、最後にはすべて価値ある経験となるでしょう。

ジェフリー・R・ホランド長老が教えたように、「祝福はすぐに来ることも、後から来ることも、また天に召されるまで来ないこともありますが、イエス・キリストの福音を頂く人には必ず来ます。

わたしは神とその御子イエス・キリストは生きておられることを知っています。御二方はわたしたちのすべてを完全に愛してくださいます。聖霊にふさわしく生活するならば、聖霊を通して神の愛を日々感じられることを知っています。

この記事はあるステーク大会でステーク会長が話したものです。