ジェフ・D(ブリガム・ヤング大学学生)

末日聖徒イエス・キリスト教会(他の宗派の友人たちからはうっかり「モルモン教会」と呼ばれています。)の会員として、神は文字通り天の御父のことであるということを知っていることに感謝しています。このことについては古代の聖典である「高価な真珠」のモーセの書の第一章に書かれています。

3節で神はモーセに神が至高の方であり、力と威厳と始めもなく終わりもない「全能」の永遠の存在であることを示されます。確かに、そのような現れを受けたら、人間は敬虔になり、恐れを持って、そのような存在の前に自らの小ささをひどく自覚して、地にふすでしょう。しかし、父なる神はモーセに神の息子としての彼の持つ可能性の理解の眼を開くのです。「また見よ、あなたはわたしの子である。」(モーセ1:4)と言いました。

この告白により、神はもはや到達できない、未知の、理解しがたい存在ではなくなりました。モーセは肉体の父の息子としての経験のため-その関係が最終的にはどのようになったかにかかわりなく-神との同様の関係を知識として、経験としてその意味合いを理解していたのです。モーセは肉体の父が持った地位、繁栄、特権は生来のものであることを理解していました。したがって彼の人生において同じような所産を実現するために同じ受け継ぎの力を完全に使うことができました。

同様に、先祖と天の御父とのつながりのため、モーセは最終的には父なる神が持っておられた同じような尊厳、力、理解を持つことができたのです。しかし、モーセは他の息子たちと同じように世の中で自分として選択の自由を行使することができることもわかっていました。彼は天の御父のようになる可能性を持ってはいましたが、まだそれを知らず、モーセがふさわしくならない限り、神は常に彼の上にとどまっておられたのです。

父なる神は、その業と人が神の業のすべてを知ることはできないということを話された時に高い位の資格を与えるものを提示されました。神はこのように言われました「それゆえ、見なさい。そうすれば、わたしはあなたに、わたしの手で造られたものを見せよう。」ここで神はモーセに「見る」または注視するという勧告を与え、神が宇宙で行われる業を理解するようにしました。(神の持つ光と知識を得るようにとの招きです。)神は聖霊によらなければ、誰にも神の存在を示されません。「それゆえ、だれもわたしのすべての栄光を見ることなしに、わたしのすべての業を見尽くすことはできない。」(モーセ1:5)近代の啓示である「教義と聖約」と呼ばれる聖典には次のように述べられています。「神の栄光は英知である。言い換えれば、光と真理である。」(教義と聖約93:36)

父なる神とわたしの関係は同じように主の前にへりくだる状況を認めざるを得ません。モーセが言うように「人は取るに足りないもの」です。しかしそれは御父の彼に対する愛が彼の絶望的な状況のために多少なりとも弱められるというのではなく、神の助けなしには天の御父に完全に近づくのを妨げる淵は乗り越えられないように思えたからです。わたしは神の戒めである「神が完全であるように完全となりなさい」を守れるでしょうか。そのような基準に照らし合わせた時、自らの足りなさをはっきりと露呈する多くの状況がある中、神の裁きの座で「シミのない」自分を示すことができるでしょうか。わたしは救い主イエス・キリストの啓示と実在の中に慰めを見い出します。主の憐れみと愛により、主は常にわたしたちの救いのための偉大な計画を子供たちに教える機会を求めておられます。モーセの示現は例外ではありません。

モーセを業に招いた後、父なる神はモーセに救い主と偉大な贖いの計画を示されます。「わたしの子モーセよ、わたしはあなたに一つの業を用意している。あなたはわたしの独り子にかたどられている。わたしの独り子は、現在も将来も救い主である。」(モーセ1:6)

自分の罪深い、堕落した状態を救う贖いの力を含むイエス・キリストの生涯とその使命について知っているので、わたしと天の御父を隔てる永遠の淵に橋がかけられたことがわかります。かつて明らかにされた一致への望みは、避けることのできない分離により妨げられましたが、創造主であり、永遠への偉大な橋であるイエス・キリストの恵みと真理により再び合致したのです。