キング・シスターズは、ユタ州ソルトレークシティから南へ35マイルのところにある、プレザントグローブで生まれ育ちました。彼女たちの父親、(キングとして知られる)ウィリアム・キング・ドリグズ・シニアは、14年間コロラド州やユタ州のいくつかの大学で音楽や声部の教授を務めました。彼はまた、彼女たちに様々な楽器を演奏することも教え、彼の子孫にとって最初の音楽の教師でした。

家族が増えるにつれ、教師の収入だけで家族を養うのはますます難しくなっていきました。そこで娘たちがまだ若いころから、夏の間や週末に西部の至る所を旅し、劇場、クラブ、学校や教会などでファミリーオーケストラ(当時は「エンターテイナーのドリグズ・ファミリー」として知られていました)として演奏し、わずかばかりの収入を補いました。

家族は増え続け、最終的には6人の娘と2人の息子(カールトン、マキシーン、ルイーズ、アリス、ドナ、イボンヌ、ビル、マリリン)が授かり、家族の家計はさらに厳しくなっていきました。朝起きると、彼らの車が差し押さえられていたことなどが何度もありました。結局家族は、音楽教師が生計を立てるのに適していて可能な、カリフォルニア州オークランドに引越しました。

マキシーン、ルイーズとアリスがまだ中学生のとき、ボーカルトリオとしてオークランド地域でパフォーマンスを始めました。アリス(キング)クラークによると、このトリオは父によって、「家族の皿洗いをするときに娘たちが口論したり喧嘩したりするのをやめさせるために企画されました」。

「ドリグズ・シスターズ」のデビュー

1931年に、姉妹たちはオークランドのラジオ局KLXで放送デビューを果たしました。この頃は大恐慌時代のため、音楽教師として生活をやりくりするのは不十分になっていきました。姉妹たちがラジオショーで稼ぐ、合計で一週間にたった25ドルの乏しい収入は、家族を養うのための唯一の収入でした。

兄弟のカールトンをピアノ伴奏者として連れ、父親から学んだトレーニングを使って、姉妹たちは自分たちでアレンジをし、週三回パフォーマンスをしました。多くの歌を歌う姉妹たちのように、ドリグズ・シスターズは、成功しているボズウェル・シスターズに憧れ、彼女たちの歌とアレンジを学ぶことによって、彼女たちのようになろうとしました。学校から急いで家に戻ると、姉妹たちはラジオのチャンネルをロサンゼルスのKFWBに合わせ、ボズウェルズの流行的なハーモニーを欠かすことなく聞きました。

約束されたキャリアのはじまり

1932年に家族はソルトレークシティに戻る決断をします。やがて姉妹たちは、KSL局でレギュラーを務めることになります。彼女たちの15分のプログラムは、週に5回オンエアーされ、一回のショーにつき10ドルが支払われました。彼女たちが稼ぐ微々たる収入は、家族を養ってきましたが、その必要性はさらに大きくなっていきました。恐らく、KSL局のマネージャーは、「ドリグズ・シスターズ」という名前が好きではなかったのでしょう。姉妹たちに新しい名前をつけるように言いました。彼女たちは、ふさわしい名前を考え付くことができませんでした。アリス・キングによると、局のマネージャーが「お父さんの名前はなんだい?」聞き、私たちは『キング』ですと答えました。すると、マネージャは「よし、これから君たちは『キング・シスターズ』だ」といいました。

1934年に、KSLでキング・シスターズの一人の放送を聴いたバンドリーダーのホラス・ハイドは、ゴールデンゲイトシアターでの二週間公演のスペシャルゲストとして、彼のオーケストラのメンバーになるため、彼女たちをサンフランシスコに行かせることを両親に説得しました。姉妹たちは、この思いがけない機会の申し出に胸が高鳴りましたが、間もなくその思いは、期待されたペースを持続させなければならないため、圧倒される思いに変わっていきました。彼女たちは毎日休みなく、一日に4~5回のショーでパフォーマンスをしました。最初は二週間という約束も、結局五年間続けました。

マキシーンが結婚して辞め、他の姉妹のドナとイボンヌが加わり、グループはカルテットとして活動していきました。後にドナが辞め、一番下の妹のマリリンが加わりました。結局、6人のドリグズ姉妹たちは全員、キング・シスターズのメンバーとして歌を歌いました。

シカゴのドレイク・ホテルやニューヨークのビルモア・ホテルを含む、最初の全米中でのホラス・ハイド・オーケストラとのレコーディングとパフォーマンスで、キング・シスターズは後に、ギターリストと、ハイドの元メンバーだったアルヴィノ・レイ(キング・シスターズのルイーズと結婚)と彼のオーケストラが参加する前に、伝説的バンドリーダーでありクラリネット奏者のアーティ・ショーとツアーをともにしました。彼らはともに、レコード、ラジオおよびコンサートステージで、当時の一流の呼び物の一つになっていきました。

「フォー・キング・シスターズ」

ルイーズ、アリス、ドナおよびイボンヌで構成されるフォー・キング・シスターズは、「Mairzy Doates」,「Nighty Night」、「Miss Otis Regrets」、「San Femando Valley」、「Jersey Bounce」および「Hut-Sut Song」などの多くのヒット曲に恵まれました。彼女たちが、音楽業界で有名になるにつれ、「ジャズをベースとした四部合唱のハーモニーを奏でる、初めての女性ボーカルグループとして、1941年から1945年の間に13曲のレコードがトップ30入りしました。」

ハリウッドが、キング・シスターズの才能に注目するのに、そんなに時間はかかりませんでした。そして彼女たちは、デジィ・アマズ出演の「Cuban Pete」、ルシール・ボール出演の「Meet the People」、およびMGMのヴァン・ジョンソンとエスター・ウィリアムズ出演の「Thrill of Romance」などの映画にも出演するようになりました。1953年までに、NBCはキング・シスターズとアルヴィノ・レイに彼らのテレビシリーズ、ザ・アルヴィノ・レイ-キング・シスターズ・ショーを申し出ました。その番組は、ロスアンゼルスで聴衆をともなって、大きな成功を収め、キャピトル・レコードの注目を集めました。この頃には、ドナがグループを辞め、マリリンがキング・シスターズの永続的なメンバーとなりました。

1957年、キング・シスターズはキャピトル・レコードとの契約にサインをし、新しい洗練されたサウンドを提供するバンドとしてデビューしました。常に一流の彼女たちのパフォーマンスに、歌のキーを下げ、もっとユニゾンを特徴付け、さらにもっとジャズ指向の印象を加えました。彼女たちの大ヒットは、グラミー賞にノミネートされた画期的なアルバム、イマジネーションを含む新しいキング・シスターズのレコードはどれも成功を収めました。彼女たちのレコードが売れることにより、ザ・スティーブ・アレン・ショー、ザ・ジョージ・ゴベル・ショーおよびザ・アドベンチャーズ・オブ・オジー&ハリエットを含む、テレビのショーケースに登場するのはもちろん、国内のトップクラブやショールームでのコンサートのスケジュールが忙しくなっていきました。

未来の成功の種をまく

キング・シスターズの人気が上がるにつれ、家族も増えていきました。多くの彼女たちのパフォーマンスで、ステージに子供たちを登場させると、観客は間違いなく喜びました。「種は、1960年代が近づくにつれ、キング・ファミリーが活躍し始めた歌とパフォーマンスの誕生へと導きました。」

末日聖徒イエスキリスト教会で、募金を集めるためにショーを企画するよう頼まれたときに、イボンヌはステージに家族全員を参加させることにしました。ショーは成功し、各シスターズの教会でも同じようなショーの企画をお願いするようになりました。ブリガムヤング大学でもショーが行われ、ビデオ学部の生徒により録音が為されました。イボンヌは編集されたテープをABCテレビに送り、テレビ番組のシリーズとして企画を考慮してほしいと売り込みました。そしてザ・キング・ファミリーが誕生しました。

ザ・ハリウッド・パレスに二回登場した後に、ザ・キング・ファミリーの特番が呼び物になりました。初めてテレビに出演したときの一般の反応は、熱狂的で、テレビから巷へ大評判を巻き起こしたこの新しいグループを応援するファンから、5万3千通以上の手紙がテレビ局に届けられました。この特番の成功は、1960年代から70年代にかけて、キング・ファミリーのバラエティシリーズと17回のキング・ファミリー・スペシャルとの2つにわけられることになりました。

キング・ファミリーは1970年代もずっとコンサートやテレビ出演をともに行い続け、キング・シスターズは1980年代も活動を続けました。彼女たちは、1985年に行われたロナルド・レーガン大統領の第二期就任祝賀会での、主演エンターテイナーの一組でした。ごく最近では、キング・ファミリーは、1996年のユタ州150年祭の祝賀にそろって出演しました。2004年には、クリスマスの時期に関連して、エンターテイナーの殿堂の中でも独自の地位を築いたグループとして、アンディ・ウィリアムズやジュディ・ガーランドとともに、BRAVOテレビ・ネットワークのドキュメンタリー番組、クリスマススペシャル・クリスマススペシャルの一組としてお祝いに参加しました。[2]

彼女たちが残したレガシー

アリス・キング・クラークは、1996年8月23日、81歳で呼吸障害で亡くなりました。ルイーズ・キング・レイは、1997年8月4日、アルヴィノ・レイとの結婚60年の年に83歳で、癌のため亡くなりました。ドナ・キング・コンクリングは、2007年6月16日、88歳でテキサス州プラノで亡くなりました。マキシーン・キング・トーマスは、2009年5月13日、93歳でカリフォルニア州コロナで亡くなりました。イボンヌ・キング・バーチは、2009年12月13日、89歳で、カリフォルニア州サンタバーバラの自宅で転倒したことが原因で亡くなりました。最後に一人残された、マリリン・キングは、2013年8月7日、82歳で癌のためカリフォルニアで亡くなりました。

キング・シスターズは、もうここにはいません。しかし、彼女たちが残してくれた音楽とレガシーは、これからの多くの世代に長く語り継がれる思い出を残してくれるでしょう。キング・ファミリーが、1960年代に「アメリカの最初の歌う家族」として当初名づけられたことは、少しも不思議なことではありません。キング・シスターズのみならず、キング・ファミリーとして、彼女たちは美しいハーモニーを作り上げたのですから。