こんなコマーシャルがあります。銃殺隊の前で男たちが杭にしばりつけられているコーラのコマーシャルです。彼は最後にひとつの望みを言うことを許可されます。男は何かを頼みました。それからちょっと間をおいて、まさに殺されようとするときに、彼は「あと…」と言い、冷えた飲み物を含む「最後のひとつの望み」をいくつか加えていったのでした。

自分の最期に思いをはせるのは悪いことではないと思います。ある種の成功をしたからといって満足しているのでは十分ではない、ということに気づくのが早ければ早いほど私たちは一層幸せになります。

 

最後のひとつの望み:父親や母親は子どもの成功を助け、祝うものです

モルモン教

の第9代大管長のデビッド・O・マッケイ大管長は「いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできない」と述べました。未来を見て「もし自分が目標に到達したら、お祝いするより後悔する方が大きいだろうか?それを防ぐにはどうしたら良いのだろう?」と自問するのは大切なことです。

どんなに心躍る目標や野望があっても、そのような中にあって人との関係を築いていかなければ後になって空虚な思いを持つようになるかもしれません。私の父は起業家で創業者であり、夫であり、9人の子供の父親、善良な男性で自由と国家と神を愛する人でした。人に対して正直で、世話好きで人を助ける人でした。いろいろな面でどうしたら成功できるかを示してくれた父の模範に感謝しています。父の態度は前向きで有言実行の人でした。いつもこういいました。

「てっぺんにはあなたも来れるゆとりがあるんだよ。」リン・H・スミス

 

 

家庭における愛

父の言葉に私たちはいつも励まされました。父の決定や行動は私にとって最も尊い贈り物となりました。父は私に母を、命、きょうだい、家を与えてくれました。私が強くなるように、学業を頑張るように励ましてくれました。父は財政的に私たちをサポートしてくれ、母と継母を与えてくれました。継母のおかげで私が成長する時はずっとストレスがなく、より安定したものとなりました。父は人と正直に親切に誠実に交わることを態度で示してくれました。父が全力で私に向き合ってくれたことはとても嬉しいことでした。

両親の模範から多くを学びました。成長する過程で見た最も心休まることの一つは互いへの愛を行動で示していたことです。父は玄関で母に熱いキスをするのを子供たちに見せたものです。両親は手をつなぎ、いつでも幸せそうに見つめあっていました。現代は男女どちらが強い立場、つまりお山の大将になるかを競っているような時代なので、しっかりした堅固な結婚を理解するのは難しい時代になっています。

お山の大将になるには、落ち葉の山でも土の山でもとにかく小さな山があれば良いのです。頂上に立って近づいてくる人を押しのけててっぺんに君臨しようとします。子供は自然とこのことを分かっていて、こういう遊びをするのが好きです。時には皆で協力して大きな子を山からひきずりおろしたりします。

いろいろな意味で私たちはそのゲームに飽きることは決してないようです。どうしてそんなに競うのでしょう?嫉妬深い人たちは自分より上の、比べてみると「自分がみじめに見える」リーダーを引きずり下ろすのが好きなようです。もしあなたがトップを目指すなら、そこにはあなたのかかとを掴んで引きずりおろそうとする多くの手があることを覚悟しなければなりません。時には結婚生活は「お山の大将」になるための継続する戦いのように思えます。頭で考えてみても、二人の人が両方ともボスになって対等になるのは難しいことです。どうしたら可能でしょうか?どうしたら相手を引きずりおろさずにすむでしょう?

 

 

てっぺんにはいつも誰もが来れる場所がありますか?

どうしたら静かで幸せな愛に満ちた結婚生活をおくれるでしょう?どうしたら本当に相手の成功を自分の成功とすることができるでしょう。多くの人は伴侶を自分の生活の第一優先に持ってくるようにアドバイスします。それは真理だと思いますが、混乱も招きます。どうしたらあなたを一番にして自分も一番になれるでしょう?あなたをトップにするために台の上に立たせたら、自分が小さくなりませんか?それでは対等ではないように思えます。山の頂上には二人立つ余裕がないように思えます。

通常、関係には二つの異なるものがあります。一つは親子のような関係でこれは等しい関係ではありません。もう一つは仲間のような関係で互いを尊重する健全な関係です。親子のような関係はそれ自体は変なものではなく、上司、警察、教師などとの関係ではいつもあることです。権威を持った人たちに対して、私たちが対等にならない時があり、私たちの福利を考えている権威ある人たちに対して尊敬の念を持つのは普通おかしいことではありません。社会の決まり事を施行し、教える権威を持った人がいることで、私たちは皆安全に暮らせるのです。結婚生活においても私たちは時には平和を保つために互いを尊重する必要があります。

しかし私たちがもし二人ともリーダーになり、相手をナンバーワンにすると、対等に尊重する関係から自分を子供役にすることになりませんか?確かに王様は一人しかいないと思えばそうなるでしょう。でも頂上には本当は二人分の場所があるとしたらどうでしょう?どのような風になるでしょう?

 

なぜならもし結婚していて、社会で活躍していても家庭ではみじめであったら自分は成功したとは感じないと思います。もしあなたが子持ちの人と結婚しているなら、子供たちの母親/父親を愛することほど大きな贈り物はないと思います。社会では自分の代わりをする人がいても家庭ではそうはいきません。

例を出すと、我が家の子供たちは皆養子です。彼らにとって一生の間、私たちは母であり、父です。でも私たちは彼らの産みの両親ととってかわることはできませんし、するつもりもありません。子供たちには二組の両親がいるのです。もしあなたが離婚し、元の伴侶が再婚するなら、再婚相手はあなたの役割りを引き受けるかもしれませんが、その人があなたになることは決してできません。家庭では私たちは置き換えることはできないのです。

ですから、もしこれが決して本当に置き換えることができない場所であるなら、だれかが私たちの仕事や役割ができても、決して私たちになることはできないし、それをうまくやるために工夫するのは価値のあることです。しかしそれは本当に難しいのです。両親はうまくやっていたように見えました。銀行の口座は一つで、二人一組のチームだったのです。でも私はもっと何かが欲しかったのです。私はそれがどのように見えるかのビジョンが欲しかったのです。

 

 

1たす1は2ではない

私がつくった絵は新しい数字、全部まとめた新しい概念です。

私たちはそれぞれがナンバーワンであり、どちらも一人ではないのです。

私たちは家庭という丘の上で冠をかぶった 1 1 (つまり1が二つ並んでいること)なのです。

あなた自身に、また、あなたの伴侶や子供たちに決して後悔することのない成功を与えてください。伴侶が思っている一番大切なお願いを今かなえて、一緒に頂上に上る道を探してください。皆さんが最高に幸せな両親になれますように。

 

単純な算数

1たす1は

3です

私の算数は

あっています。

なぜかというと「私たち」は

1が二つ合わさったのより良くて

結婚は

神聖なものだから

 

ナマステ

 

この記事はもともと DarEll Hoskisson によって書かれ、ldsblogsに”One Last Request” という題名で投稿されたものです。