私の4人の子供たちの3人はバプテスマを受けて、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になりました。この教会は時々誤ってモルモン教と呼ばれることがあります。子供たちがバプテスマを受けたのは8歳のときで、それは責任を持つことができるようになった年齢です。あるいは、子供が神の前に自分のする行動に対する責任を持ち始める年齢と言ってもいいでしょう。(4番目の子供は2−3年待たなければなりません。)イエス・キリストの教えでは、人は罪の赦しを受けるために神権の権威を持った人の手によって、浸礼の儀式でバプテスマを受けなければなりません。その神権とは神がその権能をふさわしい男性に与えるもので、それは主の子供たちの救いのためにすべてのことを行うための力です。
バプテスマの後、子供たちはそれぞれ、イエス・キリスト教会の会員として確認され、聖霊の賜物を受けました。この聖霊は、神の御霊であり、慰め主です。これらの儀式を受けた後、光を輝かしているようでした。私は自分が8歳でバプテスマを受けた後、とても清められた気持がして、その時に感じた平安と幸福感の美しい気持を失わないように、どんなふさわしくないこともしたくないと感じたものです。その「きらめき」、光り輝くもの、平安と幸福の気持は聖霊の賜物としてきます。
聖霊とは誰か?
聖霊は神会の3番目の方です。霊の御方で、父なる神や御子イエス・キリストのように栄光化された骨肉は持っておられません。このことは現代の啓示を通して学んでいます。教義の聖約130:22にあります。「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である。しかし、聖霊は骨肉の体を持たず、霊の御方であられる。もしそうでなければ、聖霊はわたしたちの内にとどまり得ない。」
聖霊は救いの計画、ないしは贖いの計画の中で数種類の決定的な役割を果たしています。ところで、この計画はイエス・キリストのまったき福音であり、人の不死不滅と永遠の命をもたらすものです。この計画には、世の創造、アダムの堕落、イエス・キリストの贖いがあり、それとともにあらゆる種類の神から与えられた律法、儀式、教義が含まれます。聖霊は御父と御子について証します。(1コリント12:3)すべてのことの真理を明らかにします。(ヨハネ14:26)聖霊は悔い改め、バプテスマを受けた人々を清めます。(ヨハネ3:5)聖霊は約束の聖なる霊です。(教義と聖約76:50−53)
クレイグ・C・クリスチャンセン長老は七十人定員会(聖書の時代のようにこの定員会は福音を宣べ、イエス・キリストの教会を建てるために召されている)の一員ですが、次のように述べています。
「聖霊は天の父とイエス・キリストと完全な一致のもとに働きます。聖霊の主たる目的は、父なる神と御子イエス・キリストについて証し、すべての物事の真理を私たちに教えることです。聖霊から来る確かな証は、その他のあらゆる源から来るにも増して、強い確信をもたらします。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。『神の御霊が人の霊に語りかけることには、真理をもたらす力において実際に天使に会うことよりも大きい影響力があります。』」 [1]
聖霊はキリストについて証をすることによって人々をキリストのもとに導きます。神の計画の中での聖霊の役割は私たちにとって欠かすことのできないものです。聖霊の助けなしでは神を知ることはできないでしょう。
聖霊の賜物と力
聖霊は人の子に対して二通りの働きかけをします。力と賜物です。聖霊の力はバプテスマを受けなくてもだれにも働くことができます。そして、それはイエス・キリストの福音は真実であることを確信させる証です。救い主はヨハネ14:26の中で、「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」と述べておられます。それに対して、聖霊の賜物は人がバプテスマを受けた後で授かるもので、神権の権威を持った人によって授けられ、その人がふさわしい限りは絶えず聖霊を伴とすることができる賜物です。次の節で、救い主は、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と語りました。私たちはこの約束された平安は聖霊の賜物を通して感じます。
デヴィッド・A・ベドナー長老は、十二使徒定員会の一員ですが、この会は大管長会とともにイエス・キリスト教会の管理役員の集団です。この長老は次のように語っています。
「新会員を確認し、聖霊の賜物を授与する儀式は単純ですが、深遠なものです。ふさわしいメルキゼデク神権者がその手をその個人の頭の上に手を置いて、名前を呼び、それから、聖なる神権の権威によって、また、救い主の御名によって、その個人を末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として確認し、この大切な言葉を発します。『聖霊を受けよ。』」
この儀式が単純であるために、その重大さを見過ごしにしてしまうかもしれません。これらの6文字の表現「聖霊を受けよ」は、受け身のことを言っているのではありません。むしろ、それは神権の命令なのであって、権威の筋からの勧告であって、自分から働きかけるべきであって、ただ受け身で待っていてはいけないと諭されているのです。聖霊が私たちの生活の中でその機能を果たすには、単に頭に手を置いてもらって6文字が宣言されただけではだめなのです。この儀式を受けるとき、私たちは一人一人、願い、探し、働き、ふさわしく生活し、実際に「聖霊を受け」、それに伴う霊的な賜物をも受けるようになるという神聖で持続する責任を負うのです。「ある人に贈り物が与えられても、彼がそれを受け取らなければ、それは彼にとってなんの益があるだろうか。見よ、彼は与えられるものを喜ばず、その贈り物の送り主をも喜ばない。」(教義と聖約88:33) [2]
聖霊のコミュニケーションは個人的なもの
ベドナー長老が語ったように、聖霊の賜物は積極的に受け取らなければなりません。イエス・キリスト教会の会員として私たちは自分たちの生活の中で聖霊がどのように自分に意志を伝えるのかを学ばなければなりません。私の姉妹には聖霊が夢を通して力強いメッセージを送ります。私は認めなければなりませんが、御霊がそのような方法で自分にも働きかけてくれればよいと思っているのですが、現実にはうまくいきません。私には聖霊は静かな小さなささやきとして、平安と快い気持によってメッセージを送ります。聖霊は私が聖典を読んでいる時にしばしば語りかけます。たまには、聖霊の答えがとても強くてあたかも声を聞いているように感じるときもあります。聖霊は私たち一人一人に違った方法でコミュニケーションをしますが、いつでも個人的な方法でそれが起こります。ダリン・H・オークス長老は、イエス・キリストの使徒ですが、次のように語っています。
「イエス・キリスト教会の忠実な会員にとって聖霊とのコミュニケーションが当然とてもなじみ深いものであるために、それを当たり前のことと考えていい加減に扱わないようにしなければなりません。(中略)ある教会員があるとき自分が聖餐会の時にお話や音楽ですばらしい気持を感じたのに、彼が招待した人はそのような気持を全然感じませんでした。この例が示すように、聖霊の賜物がある人でそのささやきに波長を合わせている人と、賜物がなく波長も合っていない人との違いが出て来てしまいます。 [3]
私は生活の中で、聖霊の影響とメッセージについて理解し、それを認識できる力が与えられていることに感謝しています。最近、自分の考えでは物事がうまくいかずつらい日がありました。健康の問題でフラストレーションを本当に感じていました。聖霊がささやきました。「夫に神権の祝福をしてもらいなさい。」その祝福とは、儀式で、神権の力によって行われる霊的な意味を持った聖なる行為です。祝福の中で、天の父が祝福を授けるものを通して個人的に語りかけられます。私はしばしば祝福を受けますが、私はそれが好きです。しかし、今回は、私は当惑していてその気持と戦っていました。しかし、夫から祝福を受けるべきだという考えが何度も起こってきました。とうとう、夜遅くなって、夫に頼みました。平安と安堵の気持はとても力強いものでした。それは確かに私に必要なもので、私の信仰を新たにしてくれました。多分初めて、私は自分の人生におけるこの試練の意味をはっきり理解しました。私は救い主と天の父が私にいだいていらっしゃる愛を理解しました。もし聖霊のささやきに耳を傾けていなければ、そのような感動的な経験をすることがなかったでしょう。そして、そのような経験こそ私が必死になって求めているものでした。
「モルモンのきらめき」は生活の中に聖霊があること
常に聖霊が伴侶になってくれるのにふさわしく生活するとき私たちの顔は輝きます。私たちにはその違いが感じられ、他の人もそれが分かります。私が聞いた話ですが、ある人がバーに行きました。そこには聖霊が宿ることができません。そして直ちに聖霊が去るのを感じました。その人は決して同じことを繰り返しませんでした。聖霊は、清い宮居にだけ宿ることができます。私たちが罪を犯し、あるいは神のことから目をそらすと、御霊は退きます。オークス長老は言いました。
もし私たちが信仰を行使し、聖霊が伴となるように探し求めるならば、聖霊の存在は心の中にも家庭の中にも感じることができます。家族の日々の祈りをし、神の戒めを守ろうと努め、主の御名を尊び、互いに愛をもって語り合う家族は、家の中に霊的な雰囲気を持ち、入って来る人々にそのことがはっきり感じられます。私はこのことを知っています。というのは、多くのLDSの家庭を訪問して、そのような雰囲気があるかないかを感じて来たからです。
聖霊の賜物の結果として来る輝きや啓示が個人に来るとき、突然でもなく、探し求める努力なく起こるのではないことを覚えておくことが大切です。スペンサー・W・キンボール大管長は、聖霊は、「一度に少しだけ、あなたに利益をもたらしつつやって来ます。そしてあなたの人生がそれと調和するにつれて、聖霊はもっと大きな規模で訪れます」(スペンサー・W・キンボールの教え、エドワード・L・キンボール編、1982年、114ページ)と述べています。聖霊の賜物を通して与えられる祝福は私たちのふさわしさに依存しているのです。 [3]
常に聖霊に一緒に居てもらうためには、私たちはふさわしい生活をしなければなりません。そして、促しに耳を傾ける方法を学ばなければなりません。聖霊は、静かで小さな声です。そのささやきは心の波長を合わせないと聞くことができません。しかし、私たちがこの賜物を受けるにふさわしい状態になると、日々の生活の中で、聖霊は私たちの伴侶となり、案内人となり、慰め主となります。
この記事はlmontagueによって書かれました。彼女はイエス・キリストに4つの記事を投稿しています。アイダホの山間にある小さな町に住んで、妻であり4人の美しい子供たちがいます。家族は一緒に、冬はスキーをし、夏はキャンプ、釣り、海岸に行くなどの活動をします。彼女は生まれたときから末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、人生で救い主と福音の祝福があることに感謝しています。