時に人生は大海の下に流れる強い激流の中にいるようなものです。岸に向かって泳ごうとすると、激流で海に引き込まれてしまいます。前進しようとすると、激流のために力を搾り取られてしまいます。多くの人は激流の中で岸に向かおうとして、亡くなってしまいました。生き残るための鍵は岸に平行に激流のない安全な場所まで泳ぐことです。そのことをがんで髪の毛を失うことによって学んだのです。

人生の困難な時期に、わたしたちは襲い来る力が勢力を弱め、少しでも前進できるようにと望みながら泳ぎます。日によって力強く泳げる日もあれば、犬かきしかできなかったり、浮いているだけの日や水面から顔を出すだけで精一杯の日もあります。わたしたちはできることをするしかないのです。

そんな時、わたしたちはベッドにもぐり縮こまって、ふとんを頭までかぶっているのでしょうか。あきらめるのでしょうか。

いいえ!

試しの時には、ひたすら努力し続けるのです。

 

前向きになることを選ぶ

問題に直面したとき、わたしたち一人ひとりの目の前には選択するものがあります。弱くなるか、強くなるか選べるのです。その選択について深く考えるのは興味深いことです。

弱くなるには情緒的なエネルギーを大量に必要とするとわたしは思います。みじめになって、悲しくなり、落ち込み、がっかりし、恐れを抱くには多くの骨折りが必要です。これらの選択に至るあらゆる感情のエネルギーについて考えてください。これはかなり意義深いことです。では強くなるにはどれほどの感情的なエネルギーが必要か考えてみましょう。強くなり、勇気を持ち、前向きで、勇敢であるには努力が必要ですが、弱くなることを選ぶよりもエネルギーは少ないとわたしはあえて言います。

最近、乳がんと闘っている間、自分は強くなりたいということが分かっていましたが、わたしの選びは毎日、時には1時間毎に試されました。それが正しい選択であり、自分にとっては最良の選択であることが分かっていましたが、確かに簡単なものではありませんでした。

試練や苦痛の正体が何であるのか見てみると、それは強くなる機会なのだと分かりました。そのように考えると、試練に対する考え方が変わりませんか?わたしたちに与えられた試練は、強くなることを選び、そのようにしながらさらに強く成長するとても大きな機会なのです。

ではわたしたちがこういった「強くなる機会」を経験するとき、どのような態度を選ぶべきでしょうか?

 

元気をだす

毎朝、わたしはウォーキングをしながら祈ることが好きです。自分にとって気分転換する時です。暗黒の日々でさえ、わたしはにっこりしてこう言うのです。「わたしは元気!わたしは幸せ!わたしは前向きに生きる!」時には涙や苦痛に顔をゆがめながら言ったこともあります。そんな日がたくさんありました。でも日々、わたしは元気になるように努め、その単純な選びが驚くべき違いを生んだのです。

ある日曜、わたしは教会の扶助協会で指揮をしていました。化学療法の大変な中にあっても、わたしはとても上品なクリーム色の帽子をかぶって、かなりおしゃれな格好をしていました。レッスンが終わると、ある一人の女性がわたしのところにやって来て言いました。「姉妹、あなたの帽子の下にある髪の毛を見たいわ!」

「ああ、姉妹、わたし髪の毛ないんです。丸ハゲよ。」と言いました。

化学療法を受けていると言ったにもかかわらず、一瞬むしろ彼女は混乱した様子でした。「いいえ、わたしはあなたの帽子の下が見たいのよ!」

わたしは笑顔を絶やさず「あの・・姉妹、帽子の下は何もないんです。」と言いました。

でも彼女はゆずらず、3度もきました。

それでわたしは帽子を持ち上げると、彼女はハッと息をのみました。「姉妹!あなた赤ちゃんのお尻みたいにまるはげね!」

わたしはクスクス笑って言いました。「うん、その通り!」

そして彼女はわたしの目をじっと見て、尋ねたのです。「でもあなたどうしてそんなに幸せで前向きでいられるの?髪の毛もないし、病気だし。なんで笑ってられるの?」

そのとき時間が止まりました。わたしは彼女の目を見て言いました。「ただの髪の毛じゃない。また生えてくるわ。毎日、わたしは選ばなきゃならないの。みじめになって憂鬱になることも選べるし、元気になって前向きになることも選べる。わたしは前向きになることを選ぶのよ。」

わたしはその選択の力を証しできます。そしてわたしが大変な化学療法を受けていた時、その選択は肉体の命を救うものでした。化学療法を受ける時、わたしはその週のテレビショーのサバイバー(訳注:アメリカのテレビ番組)のカラフルなロゴのついたシャツを着て行きました。座って液体毒物の点滴につながれている間、わたしはにっこりしながら、他の患者たちと笑ったりおしゃべりをしていました。治療にも前向きな態度で行くと、まったく違いました。にっこりしようとしている人よりも、否定的で不満を言う人の方がもっと辛そうでした。

 

学び、成長することを選ぶ

ずいぶん昔、教会の日曜学校を教えていた時に「人生で大変難しいことを経験したことがある人は手を挙げてください」と言ったことがあります。ほとんどすべての人の手が挙がりました。それからわたしは次のように尋ねました。「その経験をしないことを選ぶ人はどれだけいますか?」前に手を挙げた人全員がスッと手を挙げました。おっと、間違った質問をしてしまった。「その経験から学んだことを失いたい人はどれだけいますか?」挙げた手はすべて下りました。

だれも大変な時の経験に感動する人はいません。生活の中に試練や苦難を祈り求める人はいないのではないかと思います。しかしそのような時が来る時に、わたしたちが受け入れるなら、そのような試練には必ず祝福も伴ってくるのです。

確かに、わたしたちは大変な時を耐え、自分が得られる恩恵や理解を得ないでいることもできます。その経験から「良いもの」を余すところなく得るには、わたしたちの側の選びが必要です。わたしたちは学ぼうとする開かれた心を持ちながら、自分を強めてくれるような機会に近づくことを選ばねばなりません。

わたしはロナルド・E・オズボーンの次の引用が大好きです。「困難なことを引き受けてください。あなたのためになるでしょう。自分がすでに学んだこと以上のことをしようとしないと、あなたは決して成長しません。」

人生で困難に直面する時、そこにはそれ以外の方法では経験できなかった成長のための大きな機会があるということを自覚する必要があります。わたしたちは自分が何から作られているのか分かるでしょう。だから努力し続けましょう!

 

メリリー・ボヤック、「試しの時に、ひたすら努力し続ける」からの抜粋、2017年6月19日

これは、元々はMerrilee Boyackがwww.ldsliving.comに”How Losing My Hair to Cancer Changed How I Think About Happiness”の題名で投稿したものです。

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