イエス・キリストとは末日聖徒イエス・キリスト教会にとってどんな存在なのでしょう?

モルモンはクリスチャンです。教会ではイエス・キリストと、彼が創造主であり、贖い主であるという役割を中心に据えています。イエス・キリストは礼拝の中心であるだけでなく、彼が預言者(教会の大管長)に啓示を通して、また神権者にキリストの御名により行動する権能を与えて、教会を自ら導いています。ではなぜ末日聖徒イエス・キリスト教会はクリスチャンではないとよく言われるのでしょうか。以下の二つはよく用いられる理由です。

  1. 聖書に加えて聖典を持っている。
  2. 末日聖徒イエス・キリスト教会では「異なるイエス」を信じている。

これらの言葉は教会員にとって理解しがたいものです。わたしたちはもっと聖典があればと願っており、彼らが受けるにふさわしくなれば、もっと与えられるということも知っています。「異なるキリスト」信仰についてですが、実は回復されたイエス・キリスト教会は地上のどの教会よりもキリストについてより多くの知識を持っているのです。

前世のキリスト

キリストは地球が存在する前、神でした。キリストは永遠の存在です。彼を通じて、父なる神は数えきれないほどの世界を創造されました。キリストによらずには何も創造されなかったのです。教会の教義では、前世のキリストは「エホバ」と呼ばれています。旧約聖書で神が語られる箇所、それはエホバが語っているのです。聖書では、彼の名前を使いすぎないように、敬虔な思いから、「主」という言葉は置き換えられました。教会の教義は全人類は一人一人「英知」として永遠に存在し、父なる神が地上に送る前にわたしたちを霊として創造したとしています。

人もまた初めに神とともにいた。英知すなわち真理の光は、創造されることも、作られることもなく、実にそうすることのできないものである。(教義と聖約93:29)

「英知」はわたしたちの存在の本質であり、永遠に存在するものです。わたしたちはこのことについて多く知っているわけではありませんが、わたしたちの英知は明らかに常に個人でした。主は古代の預言者アブラハムに次のように語りました。

主はわたしに言われた。「実にこれら二つの事実がある。すなわち、二つの霊がいて、一方が他方よりも英知に優れている。彼らよりもさらに英知の優れた別の霊がいる。わたしは主なるあなたの神であって、わたしは彼らすべてよりも英知が優れている。(アブラハム3:19)

救いの計画は父なる神がわたしたちの霊の文字どおりの父であり、わたしたちは霊として地上に死すべき人生を生きるため肉体を得て生まれる前に神と共に住んでいたと教えています。キリストは無限の永遠の贖いをして人類を救うために選ばれました。そして文字通り神の独り子としてこの地上に来て、贖い、救い、昇栄の計画すべてを実現させるようにしたのです。(ブルース・R・マッコンキー モルモンの教義 2編、129ページ)

わたしたちは常にイエス・キリストが父なる神とは別のお方であると信じています。ある面キリスト自身がわたしたちの父と言えるかもしれません。-彼は天と地を創造し、信仰を新たにした人々すべてにとって父となるのです。彼は完全、力、権能のすべての属性において父なる神と一つです。生きている間に彼の戒めに従うならば、私たちは別の意味で彼の子となるのです。わたしたちは彼のものであり、彼は神のものです。

死すべきメシヤとしてのイエス・キリスト

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イエス・キリストはマリア(彼女から死すべきものを受け継ぎ)の息子として神(神から死に打ち勝つ力を受け継ぎ)の息子としてこの世界に生まれました。キリストは恵みに恵みを加えられすべての知識を得ました。天と地のすべての力は彼に授けられました。彼はすべてのことを理解し、すべての力と知識において限りがありません。

聖書にはキリストが死すべき間に行ったことや教えの一部が書かれています。モルモン書には主が復活後、アメリカ大陸のイスラエルの子孫たちを訪れた記録があります。その記録はキリストが次に失われた十支族を訪れる計画をしていたことがわかります。これでわかるように、キリストの地上における行動のすべての記録をわたしたちが持っているわけではないのです。モルモン書はアダム、アブラハム、モーセを含む時の始まりからのすべての預言者がキリストの個人的な証を持っていたこと、そして来るべき贖いの概念を理解していたことを教えてくれます。これらのすべての預言者たちは人々にメシヤについて教えましたが、その教えの多くは長年の間に聖書から取り除かれたり、混ぜ合わされたりしてしまいました。

イエス・キリストは人類のすべての罪に対する神の怒りにゲッセマネと十字架上の両方で苦しまれました。主の贖いがあるので、わたしたちは悔い改めてキリストのもとに来ることを選ぶならば、自分の罪に苦しむ必要はなくなったのです。またキリストはわたしたちが永遠に加えて死すべき間にも平安を受けられるよう、わたしたちのすべての嘆き、喪失、不安、悲しみ、過ちに苦しまれました。復活はすべての生けるものへのキリストからの贈り物です。昇栄は悔い改めを条件として得ることができます。

キリストは悪を打ち破り、千年間平和に地上で統治をされるため、再び力と栄光を持って再臨されます。「福千年」後、善と悪の最後の戦いが起こり、キリストは勝利をおさめ、サタンと彼に従う者たちは永遠に追放されるのです。

不死のキリスト

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イエス・キリストは復活の最初の実であり、すべての人が復活できるようにしてくださいました。彼は今完全で栄光に満ちた肉と骨から成る復活体を持っており、日の栄の王国で神と共に永遠に住まわれています。彼は永遠に統治をされます。天の最高の位に救われ、昇栄した人々はキリストの持つすべて-完全、知識、知恵、力-しかし永遠の神としての地位を占めることはありません。

聖典から考えましょう

多くの日の後、主の天使がアダムに現われて言った。「あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。」そこで、アダムは彼に答えた。「わたしには分かりません。ただ、主がわたしに命じられたのです。」すると、天使は語って言った。「これは、御父の恵みと真理に満ちている独り子の犠牲のひながたである。したがって、あなたが行うすべてのことを御子の御名によって行いなさい。また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって行いなさい。また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって神に呼び求めなさい。」その日、御父と御子のことを証する聖霊がアダムに降り、そして言った。「わたしは初めから、また今から後とこしえに、父の独り子である。あなたは堕落したので、贖いを受けることができる。全人類、まことにそれを望むすべての者も同様である。」 (モーセ5:6~9)

モーセが非常に高い山に連れて行かれたときに、神がモーセに語られた御言葉。このとき、彼は顔と顔を合わせて神にまみえ、神と語り、神の栄光がモーセのうえにあった。それゆえ、モーセは神の臨在に堪えることができた。・・・わたしの子モーセよ、わたしはあなたに一つの業を用意している。あなたはわたしの独り子にかたどられている。わたしの独り子は、現在も将来も救い主である。彼は恵みと真理に満ちているからである。しかし、わたしのほかに神はおらず、すべてのものはわたしとともにある。わたしはそれらすべてを知っているからである。(高価な真珠 モーセ1:1、2、6)

さて、わたしの愛する同胞よ、ユダヤ人よ、地の果てに至るすべての人よ、これらの言葉を聴き、キリストを信じなさい。また、これらの言葉を信じなくても、キリストを信じなさい。キリストを信じれば、これらの言葉を信じるようになるであろう。これらの言葉はキリストの言葉であり、キリストがわたしに授けてくださったものだからである。そして、これらの言葉は、善を行わなければならないことをすべての人に教えている。わたしたちはキリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、キリスト​の​こと​を預言し、また、どこに罪の赦しを求めればよいかを、わたしたちの子孫に知らせるために、自分たちの預言したことを書き記すのである。(モルモン書 第二ニーファイ33:10、25:26-紀元前約550年)

主なるわたしは、地に住む者に下る災いを知っているので、わたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアを訪れ、彼に天から語り、戒めを与えた。また、ほかの者たちにも戒めを与えて、彼らがこれらのことを世に宣言するようにした。これはすべて、預言者たちによって書き記されたことが成就するためである。すなわち、世の弱い者たちが出て来て、力ある強い者たちを打ち破る。それは、人がその同胞に忠告することや、肉の腕に頼ることのないようにするためであり、すべての人が主なる神、すなわち世の救い主の名によって語るため、信仰もまた地に増すため、私の永遠の聖約が確立されるため、わたしの完全な福音が弱い者や純朴な者によって世界の果てまで、また王や統治者の前に宣べられるためである。見よ、わたしは神であり、わたしがこれを語った。これらの戒めはわたしから出ており、わたしの僕たちに、彼らの弱さのあるままに、彼らの言葉に倣って与えられた。それ​は、彼らが理解できるようにするためである。(教義と聖約1:17~24)

わたしたちがこれらのことについて思いにふけっていたときに、主はわたしたちの理解の目に御手を触れてくださり、わたしたちの理解の目が開かれた。そして、主の栄光が周りを照らした。そして、わたしたちは御父の右に御子の栄光を見、その完全を受けた。また、神と小羊を拝しており、またとこしえにいつまでも神と小羊を拝する、聖なる天使たちと聖められている者たちを御父の御座の前に見た。そして今、小羊についてなされてきた多くの証の後、わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち、「小羊は生きておられる。」わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである。また、わたしたちは証する声を聞いた。すなわち、「彼は御父の独り子であり、彼によって、彼を通じて、彼から、もろもろの世界が現在創造され、また過去に創造された。そして、それらに住む者は神のもとに生まれた息子や娘となる」と。(教義と聖約76:19~24)