ユダヤ人をはじめ、ヒトラーが「劣」とみなしたり、彼の意に合わない集団(反体制派、同性愛者、障害者など)を残虐に殺害してきたナチ党ですが、そもそも反ユダヤ主義になった経由はドイツ人の一致を仰ぐためでした。ユダヤ人は金融や商業に長けている人が多く、成功をしていました。ドイツで「ユダヤ人」という敵をつくることによってドイツ人の一致をはかり、ドイツの経済の衰退や社会の混乱を「ユダヤ人のせい」にしたのです。こうしてナチ党はドイツの一般市民からも支援を得るようになります。そして「悪害」つまり「ユダヤ人」を断絶するという恐ろしい計画が決行されたのです。(北大法政ジャーナル No.26 2019)そんな時代背景の中では、ナチ党員とユダヤ人が仲良く会話をすることすら許されなかったでしょう。第二次世界大戦を、アグネス・ヴェロニカ・エルドスとグスタフ・パルムは全く異なる状況で経験しました。アグネスは強制収容所の囚人であり、ホロコーストの生存者でした。そして、グスタフはナチス親衛隊でした。彼らの感動の恋愛は、この最大の不幸の時代に始まったのです。


戦争の始まり、180度変わった生活

アグネス・エルドスはユダヤ人の両親から生まれた一人娘でしたが、9歳の時に家族でカトリック教会の洗礼を受けました。彼女は気ままな子供時代を過ごしましたが、ヒトラーがポーランドを侵攻した時に人生は180度変わりました。ユダヤ人の血が入っていたため、彼女と両親はユダヤ人として扱われ、ナチスに占領されたハンガリーのゲットー(強制的に住まわされる特定の地域)に送られました。

1944年にナチス親衛隊はアグネスと両親が住んでいたゲットーから全員を貨車に乗せ、ハンガリーのザラエゲルセグに送りました。それはアウシュヴィッツへ通じる最初の停車駅でした。

その頃遠いノルウェーでは、イギリスとドイツの戦争が始まったという知らせが届いていましたが、グスタフ・パルムはこれは遠い国のことだと感じ、ほとんど気にもとめませんでした。しかしドイツがノルウェー侵攻を始めると、グスタフは政治の知識がほとんどなく、助言してくれる人もいなかったので、国民社会主義(ナチ党)に入ることを決めました。そこには大胆な思想や志を持った党員がたくさんいたからです。

1941年、グスタフに市内の交通警察官の仕事が舞い込んできました。交通警察官の仕事なのに厳しい軍隊の訓練があり、グスタフは当惑してしまいました。そして、1942年に与えられたグスタフの最初の任務は交通警察官ではなく、新しくできたベルグ捕虜収容所の看守でした。そこで彼はすぐに悟りました。「厳密に言えば自由はあっても、自分たち看守も囚人でした。だまされて受けたこの任務を、自ら進んで遂行する人は誰もいませんでした。自分が接触したナチズムは、自分が想像したものとは全く異なっていました。わたしはただ単にとても未熟だったのです。わたしは今では自分が所属した組織は間違っていたということがはっきり分かります。」

囚人の看守としての生活から逃げ出すために、グスタフはノルウェー武装親衛隊スキーレンジャー大隊に加わりました。彼は「ナチ武装親衛隊の兵士の制服を着ることにより、共産主義体制に対するフィンランドの理念を支援できるようになる」と確信していました。


最初の頃の祝福

1944年7月6日、ハンガリー・ザラエゲルセグ

ザラエゲルセグに3週間留められたのち、アグネスと家族は残りのユダヤ人囚人らとともに別の貨車に押し込まれました。翌朝、アウシュヴィッツに入る数時間前に、父親はアグネスを起こし、娘への特別な祈りを彼女に授けました。

その内容についての記録はありませんが、祈りの祝福の言葉は彼女の心に刻まれました。「父は、わたしにはこれから多くの苦難があるが生き残ると言いました。わたしは若く、心が清いと。父の霊がわたしを守り、ついには『真理』を見出すと。そしていつか神とその御子イエス・キリストのもとで、父と再会するでしょうと断言しました。」その時、彼女は自覚していなかったのですが、父親の祈りはアグネスにとって命綱となりました。彼女は戦火の中で父の祈りの言葉を何度も思い返し、その約束から大いなる強さと慰めを受けたのです。

1944年初頭、オーストリア・ハライン

ハラインにあるナチ武装親衛隊のブートキャンプに到着して一週間後、グスタフは猩紅熱(しょうこう)とジフテリアにかかり、そこから喉を傷め、病の床に臥せってしまいました。やっとキャンプに戻れるようになった時、士官は彼が訓練には耐えられないと判断し、半月ほどノルウェーのオンソイの家族の元にグスタフを返しました。グスタフはこの経験に感謝しました。「わたしは病気だったので、ロシア軍と戦うためにフィンランドに配備されなかったからです。後から自分が病気になったのは祝福だったことが分かりました。なぜならその隊のほとんどは戦死したからです。」


命拾い

1944年7月8日~9日、ポーランド・アウシュヴィッツ

アウシュヴィッツに着くと、アグネスと母親は死を待つ老人と病人の列に入れられました。他の囚人たちは健康な人の列に加わろうとして撃たれたのですが、母親の促しにより、アグネスはプラットフォームを無事に駆け抜けて、健康な人の列に加わることができ、周りの囚人達はアグネスの幸運にとても驚いていました。この時に見た両親の姿が最後でした。

健康な列に逃れて間もなく、もっと寝心地の良いバラックを求めて彼女はグループから離れました。朝になり、逃げだすように促しを感じました。「イスラエルの神は父の祝福の言葉をお聞きになったので、それが成就しました。わたしは再び慰めを得ました。わたしが最初の晩に寝たバラックに留まっていたら、ガス室送りで死んでいたでしょう。収容所にいる間、わたしは何度も平安な気持ちに圧倒される思いでした」と回想しています。

1944年9月、ラトビア・バルチック前線

グスタフが前線に送られた時、彼は落胆しました。「『ここで死ぬか生きるかだ』と絶望した思いで考えました。」彼は他の6人の兵士とともにロシア軍の前線に決死の攻撃をするために選ばれました。丘を降ると、自分のヘルメットが銃撃や大砲のさなかに吹っ飛んでしまったことを覚えています。何とか谷までたどりつきましたが、弾がほほをかすめ、別の弾はももを貫通しました。「確かにわたしも死んでいたかもしれません」と彼は述べています。「また、わたしが攻撃している間は誰かに右に歩を進めるように言われたように感じたことをはっきり覚えています。わたしはそれに従いました。そのために弾が顔に命中しなかったのだと思います。」


忠実な勇気

戦争中、アグネスもグスタフも自分が正しいと思うことをやってきました。それは最も危険な状況の時でも同じでした。

一例としてアグネスは、生きるために食べ物を泥棒した人のことを報告しませんでした。「報告しなかった」という彼女の勇気のせいで、アグネスはドイツ兵の秘書の仕事から焼け出された工場のトイレ掃除に格下げされました。グスタフも同じように、ある夫婦が肉を隠しておいたのを見過ごしました。本当は没収あるいは処分しなければならなかったのです。彼は次のように回想しています。「わたしのその時の選択はこれまでの人生で初めて決めた倫理規準の一つでした。」

戦争が終わる頃になると、グスタフの倫理観は別の難しい選択をするように強いられました。彼は同盟軍に出頭し、戦争捕虜として連行されました。


愛により乗り越える

捕虜としての恐怖に耐えながら、アグネスはついに解放されました。彼女は最終的にスウェーデンのラングシェイタンに行くことを決め、そこの工場の食堂で働きました。

「ラングシェイタンでの厨房の補助やウェイトレスの仕事は、自分が就いた最初のお金をもらえる仕事で、自分にとって新しい人生の始まりを意味しました」と彼女は言っています。それが新しい恋の始まりでもあったということは知る由もありませんでした。アグネスとグスタフはラングシェイタンで会う運命だったのです。

グスタフの戦争捕虜としてのスウェーデンへの道のりは困難で、不確かなものでした。解放された時のことをグスタフは次のように言っています。「彼らはわたしの牢の扉の鍵を開けました。自分にとってやっと戦争が終わりました。自由になった当初は、ぼう然としてしまいました。」グスタフの国籍はスウェーデンだったため、姉はノルウェーで政治裁判にかけられるよりもスウェーデンへの国外追放を交渉しました。いとこのヘルゲ・パルムは、ラングシェイタンに着いたグスタフのためにアパートと仕事を探しました。

「わたしは23歳で、服もろくになく、お金もなく、社会から完全に追放されたように感じました」と彼は述べています。「ドイツが恐怖の支配をしていたことを聞けば聞くほど、自分にとって信じがたいことでした。しかし今はそれが真実であることが分かっており、このすべてにわたしも参加していたのです。わたしはナチ武装親衛隊に心から仕えていましたが、誰も今はそのように思う人はいません。」

しかし彼に気づいた人が少なくとも一人いました。それはアグネスでした。「3月の初めにわたしは若い男の人を気に留めました。彼は非常に惨めな様子で、やせこけ、青白く顔はほとんど緑色のようで、食堂の列に並んでいました。美しい悲し気な優しい目をしていました。」ある日アグネスは、いつもグスタフが座っている椅子が空席なのを見て、近くの彼のアパートまで食事を届けました。

それが始まりでした。

グスタフは最初アグネスを映画に誘いました。「わたしたちはもっと頻繁に会うようになりました。二人ともほとんどお金はありませんでしたが、何か本当に欲しい物があったわけではありませんでした。長い時間ともに歩いたり、話したりするだけで十分でした。アグネスの存在は自分にとってどんどん大きくなりました。」

グスタフが自分がナチ武装親衛隊にいたという過去を話しても、彼女は素直な赦しの心で耳を傾けました。「わたしたちの関係はより強くなりました。」

「ほどなくしてわたしたちの間には絆ができ、そう簡単には切れないものとなりました」とグスタフは言っています。

「グスタフは24歳で、わたしは27歳で、わたしたちは本当に愛し合ってました」とアグネスは回想します。「わたしたちは互いを必要としました。彼もわたしも一人でしたが、一緒にいれば相手がいました。」

戦争のトラウマでさえ、いかなるものも二人を離れさせることはできませんでした。二人は1947年3月2日に結婚しました。


ともに福音を見出す

1950年、スウェーデン・ボーレンゲ

幸せに年月が過ぎ去り、二人とも戦争に苦しめられた過去をしまっておきました。それでもアグネスとグスタフは心を満たしてくれる教会に行くことを待ち望んでいました。末日聖徒イエス・キリスト教会の二人のアメリカ人宣教師を泊めている隣人がモルモン書を彼らに貸して、パルム家族を長老たちに紹介した時に彼らはそれを見出したのです。

二人はモルモン書を学び、宣教師に会いました。アグネスは次のように述べています。「グスタフはその書物に書いていることをやってみました。神にその書物が真実かどうか誠心誠意祈って尋ねました。そしてその祈りの確かな答えを得ました。」

10か月後、彼らは小さな川でバプテスマを受けました。「まるでヨルダン川でバプテスマを受けたように感じました。静かな平安が広がり、心の中に大きな喜びを感じました」とアグネスは言っています。

グスタフとアグネスは二人とも現在90代になっており、長年貧しい環境にありましたが、現在では125人以上にもなる愛情深い家族となりました。彼らの模範は永遠に覚えられるものの一つです。それは家族だけではありません。

1995年にトーマス・S・モンソン大管長は、当時のステークを分割するためにストックホルムを訪問しました。1,500人のスウェーデンの聖徒たちとの集会で、モンソン大管長はユダヤ人大虐殺の生存者であるアグネスとその愛する元ナチ武装親衛隊のグスタフについての、あまり知られていない物語を話しました。ついにグスタフの過去について守っていた静寂が壊されたのです。

それでもなお、そのことについて意地悪なことを言われることは決してありません。彼らの仲間の聖徒たちは、二人のともに歩む人生は勇気、赦し、主への忠実さの驚くべき模範であることを知っています。パルム家の紋章に刻まれたモットーは「愛により乗り越える」です。「愛と信仰はすべてに打ち勝つ」この言葉以上にアグネスとグスタフのレガシーを表す言葉はないでしょう。

この記事はもともとはホーカン・パルムによりwww.ldsliving.comに書かれ、How a Nazi SS Soldier and a Holocaust Survivor Fell in Love and Found the Churchの題名で投稿されました。
日本語©2017 LDS Living, A Division of Deseret Book Company | Englsih ©2017 LDS Living, A Division of Deseret Book Company