モルモニズムはキリスト教界でどのような位置を占めるのか

モルモニズムは新約聖書の信仰が回復されたものです。それは新旧約聖書のオリジナルな教えと生ける預言者の言葉に基礎をおいています。預言者に関しては、神はその子供たちにその指示に従うように戒められます。モルモニズムは聖書のもともとの教義ではなく、後にキャンペーンや投票を通して構成される様々な評議会によって創り出された教義は拒否しています。背教(完全な真理からの堕落)を経験した教会をまとめるために、善意の努力がなされましたが、その結果できた教義は預言者が啓示を受けて定めたものではなく、その評議会の中には預言者としての権威を授かった人は誰もいませんでした。末日聖徒(「モルモン」)は、政策は変わることはあれ、教義は神から来るものであり、永遠の真理に基づいており、生ける預言者を通してのみ啓示されると信じています。

 

モルモニズムとは何か?

「モルモン」は時々はからずも人々が末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に対して使うニックネームです。モルモニズムはカトリックでもなければプロテスタントでもありません。というのは、それはキリスト御自身が地上におられた時に組織されて以来ずっと教会としての役割を果たしていると主張もしませんし(カトリックのように)、現存の宗教団体にプロテスト(抗議)するものでもありません。そうではなく、それは回復主義の宗教に属しています。モルモニズムが教えているのは、イエス・キリストと十二使徒がいなくなると、教会は長い背教の時代に突入し、その間権威が失われ、その結果もともとの教義に忠実に従うことをしなくなってしまいました。この背教のプロセスはイエスの使徒たちが教会を管理している時にも起こり始めていました。彼らは多くの時間を使って、各地を回っては、湧き起こる偽りの教義を正そうとしていました。そのような偽りの教義の中には復活を否定するものもありました。彼らの報告によるとアジア全体が背教に陥ってしまったと言われています。一度、すべての使徒たちが亡くなると、直接の権威が失われ、多くの指導者は、良い意図をもっていたものの、自分自身の意見を持ち出し、教義を議論しました。

今日、多くの教派が出来たことがこの背教がいかに広範囲に広がっているのかを示しています。似たような教派の中でも、例えばプロテスタントですが、本質的な救いに関する教義において非常に異なったことが教えられています。何が本当に真実なのかを探し出すのはとてつもなく難しいことになるでしょう。

モルモニズムは他の宗派のグループ分けに当てはまりませんが、キリスト教です。それは伝統的なキリスト教のどこに当てはまるのでしょうか。どんな点でそれは聖書の教えに戻っているのでしょうか。

 

モルモンは主イエス・キリストについて何を信じているのか?

モルモンはイエス・キリストが神の文字通りの息子であると信じています。キリストは御父の指導の元で世界を創造しました。この御方は、自由意志で地球に来て、私たちをその贖いの浄化力で、私たちの罪から救って下さいました。モルモン書は次のように述べています。

「わたしたちはキリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、キリストのことを預言し、また、どこに罪の赦しを求めればよいかを、わたしたちの子孫に知らせるために、自分たちの預言したことを書き記すのである。」(2ニーファイ25:26)

モルモンは贖いがこの世の中に数々の効力のある賜物をもたらしたと信じています。そのあるものは地上に来るあらゆる人々に与えられます。無神論者にでも与えられます。例えば、すべての人が死から復活して、永遠に生きます。自分の罪に対して責任を負えるようになる前に若くして亡くなったすべての子供たちは、自動的に神と住める永遠の命を授かります。モルモンは神が愛ある方で、公正な方であると信じています。ですから、幼児が自分の力の及ばないところで起こしたような過ちに対して罰せられることはありません。神は、責任の取れる年齢を8歳であると啓示なさいました。ですから、末日聖徒イエス・キリスト教会では、だれもその年齢の前にバプテスマを受けることは出来ません。その前に亡くなる子供たちは自動的に贖いの力によって償われます。

モルモンは、贖いのある部分は、実行力を発揮できるように働きかけなければなりません。多くの人々は、モルモンは行いによって救われると信じていると誤解していますが、そういう意味ではありません。一人の人が教会堂に入ってきて、自分は救われたいと言ったとします。その宗派の指導者が、この救いに必要なステップについて一つ一つこの人に説明します。(イエス・キリストを受け入れること、たぶんバプテスマについても)そして、その人は教会堂を後にします。それから、彼はある銀行に入って行き、強盗を働き、そこに居る人たちを殺します。その人が本当に数分前にイエス・キリストをその救い主として受け入れたと信じる人がいるでしょうか。もちろん信じないでしょう。彼の行動は、ただ機械的にそのような手続きを踏んだだけだということを示しています。

ですから、行いにも目的があります。イエスは、もし私たちが主を愛するならば、その戒めを守らなければならないと言われました。だれも完全ではありませんが、より良い人間になるために絶えず努力する必要があります。モルモン書は、聖書の対になる聖典ですが、キリスト教に改宗したら、救われるためには進んで自分のすべての罪を捨てると神に告げた人のことが書かれています。

イエス・キリストは多くの時間を使って私たちにどのように振る舞うべきかを教えられました。どの時代にも、神はたくさんの戒めを与えられました。それらの戒めは、神の子供たちがしつけられ、神とイエス・キリストを愛し、従うには犠牲を払う必要があることを教え、自分の信仰に献身していることを表す機会を与えてくれます。キリスト教は、私たちがささげるべきまさに最大のものを要求し、自分たちが可能な限りよい人間になるように求めますが、そのレベルは通常自分が出来ると思ったよりもっと高い所です。戒めは私たちが、神が私たちに必ず出来るとご存知であるような人になるのを助けるように組まれています。一見束縛されるように見えるかもしれませんが、戒めは愛の行為として与えられており、結果的に、私たちを世の危険から守ってくれます。

モルモンは、キリスト教は、私たちが互いに愛し合うように求め、その愛を奉仕や親切によって示すように求めと信じています。そのことは私たちが世の教えより、神の教えを優先することを求めます。そのことは私たちが自分の信仰を眼に見える形で表すように求めます。例えば、喜んで聖典を読み、祈り、聖書やその他の聖典が教えることを尊重することです。それは救い主が御自分に課したと同じことを私たちに求めます。つまり、神を他の何ものよりも優先することです。それが、モルモニズがどのようにキリスト教の中に位置づけられるかを物語っています。この世の生活で、イエスにもっとも高い優先順位を与えることです。

それで、自分自身で救いをなんとかするということは絶対出来ないのですが、イエス・キリストは私たちが全力を尽くして努力することを私たちがその贖いの償う力と清めの力に頼るための必要条件になさっているのです。モルモニズムはイエス・キリストを私たちが天の父のもとに戻る道筋となる存在として、その中心においているのです。

まとめ

記事のタイトル:モルモニズムはキリスト教界でどのような位置を占めるのか

著者:テリー・リン・ビッター

要旨:モルモニズムは新約を元にしたキリスト教です。