私の近所では、食料雑貨店、郵便局、あるいは他の公共の場で別の宗派の牧師と時々会います。私はいつも挨拶したり、時々彼らの特有な信条について質問さえすることにしています。

そのような機会で、あるとき私はカトリックの祭司であるウォールト神父に会いました。私が彼に会うとき、いつもサンダルを履いているのです。それで、私は彼にあって、「ウォールト兄弟、どうしていつもサンダルを履いているのですか。」と尋ねたのです。私は宗教的な理由があるのかと期待していました。

それまで、ウォールト兄弟は時々、私が期待しなかったようなものの見方を与えてくれる説明をして、話に花を咲かせてくれていたからです。彼は満面に笑みを浮かべて、私に知らせてくれました。「単純ですよ。足が痛いんですよ。」それで、私たちは大笑いしました。

別れを告げてから、自分に言ったのは、それはそんなに単純なことだったのかということです。私はもっと複雑な答えを期待していました。彼がサンダルを履いているのには宗教的な理由があると思ったのです。

 

単純さは美徳

他の時に、私はたまたまモルモンの使徒で神学者であるブルース・R・マッコンキー長老に会いました。私は自分が深いと思っていた質問を彼にしました。彼の答えは驚くべきものでした。彼は私に、「私は知りません、そして、私がそう答えたと他の人に言ってもいいですよ」と答えたのです。今日、私はその質問が何だったのか覚えていませんが、彼の答えは私の頭に刻み込まれています。

私たちが聖霊の助けなしに福音についてのことを推測する時に、ある意味で、私たちは新約聖書のパリサイ人が日常のユダヤ人を儀式的に純粋なものにすることを追求していたときの類推と同じことをしているのです。

聖書の時代に、パリサイ人は、祭司ではないユダヤ人の日常の状況で、彼らの生活における清めの儀式を司ることに従事していた聖職者ではない、ラビに関する改革運動の担い手でした。

パリサイ人は、その時代には敬虔さの典型だと見なされていました。そして、たいていの人たちは彼らを師と仰ぎ、モーセの律法を解釈し、遵守するために案内してもらおうと思っていました。紀元後1世紀には、大半の人たちは文盲だったので、口述の伝統がとりわけ大切でした。

パリサイ人は人々が家で行えるように、儀式を適合させました。例えば食事の前に手を洗うなどの形式があげられます。聖典にある1つの特筆すべきことは、キリストが非難の的になったのは、弟子たちが儀礼的に、食事の前に手を洗わなかったことです。(マルコ7:1−4参照)

キリストはパリサイ人に、使徒たちは、専門的な立場からは、ユダヤ人の律法を破ってはないことを思い出させました。というのは、彼らが強く主張してはいるものの、彼らが法と言っているのは自分たちの改革運動に基づいて口述的に解釈されたものであり、実際の聖典に基づくものではなかったからです。

聖典の記録によると、パリサイ人はモーセの律法を複雑にし、自分の解釈で、そういわれていたと考えることを自分の解釈として読み込んでいたのです。それはまさに、私が、ウォールト兄弟がサンダルを履くのは宗教的な理由だと推測したり、マッコンキー兄弟には私の深い質問に対する答えがあるはずだと推測したりしたのと同じです。

1829年の4月に、ペンシルベニア州ハーモニーで預言者ジョセフ・スミスとオリヴァー・カウドリーに与えられた啓示の中で、主は私たちにこの件について教義と聖約9:8の中である程度指示を与えておられます。

「しかし見よ、わたしはあなたに言う。あなたは心の中でそれをよく思い計り、その後、それが正しいかどうかわたしに尋ねなければならない。もしそれが正しければ、わたしはあなたの胸を内から燃やそう。それゆえ、あなたはそれが正しいと感じるであろう。」

不幸なことに、しばしば私たちは物事を複雑にしようとしてしまいます。さらに、パリサイ人を含む神学者や学者であったクリスチャンの先祖の多くは、聡明で、卓越していて、学識のある人たちでしたが、彼らには考え理屈を練り上げる能力があったために、彼らもまたその理論や神学を複雑なものにしてしまいました。そのことの多くが今日のユダヤ教やキリスト教に影響しています。この伝統は、複雑になった神学で、それはしばしば神学と学問の領域の両方で、最高のレベルに達しています。

時には、考え過ぎて、私たちの理解や誤解が複雑になってしまいます。まさに私が誤ってウォールト兄弟がサンダルを履くのには宗教的な理由があると考えたように、また、マッコンキー兄弟は私の質問に対する答えを知っていると考えたように、事態を複雑に考えてしまうのです。

単純さは美徳であって、解釈のし過ぎ(学問的な追究も含め)はそうではないという考え方は、私たちの信仰を築くためには、しばしばよい方針となります。聖霊に導かれるのが最良であって、その導きのもとで解釈し、私たちの弟子としてのあり方や、理解の仕方を複雑にし過ぎないことが最善です。

私たちは神の戒めを守ることに実直に注意を向けるように呼びかけられています。福音の教えの重要性が十分理解できないかもしれませんが、救いにあまり関係のないことにこだわって身動きができなくなってしまうことのないようにすることが重要です。

回復された福音。末日聖徒イエス・キリスト教会、しばしば誤ってモルモン教会と呼ばれる、にはその福音がありますが、それは私たちが天の父のもとに戻る助けになる道路地図で、何をしなければならないかをはっきりと示してくれます。キリストは私たちの神のもとに戻ることを贖いによって可能にしてくださいました。

それに加えて、現代にも生きている預言者もいます。預言者トーマス・S・モンソンや十二使徒やその他の教会の指導者です。

 

フェイスブックで私たちを見つける

Christ.org をフェイスブックを通して見る

MormonWiki.com をフェイスブックで見る

LDS App/LDS.net をフェイスブックで見る