オリンピック会場での祈りから、徳と謙虚な思いを持って、モルモン教のオリンピック選手は、近代オリンピックの始まりから世界の舞台で才能と光を輝かしてきました。ここにほんの少し卓越した物語を記します。

 

バーを上げる

ユージン・L・ロバーツがアルマ・リチャーズに少し訓練すれば、オリンピックに出られると言った時、リチャーズは「何だって?」と言いました。

それは1912年の夏のゲームのちょっと前で、近代オリンピックはまだ20年しか歴史はありませんでした。ユタ州南部の農家の少年であったリチャーズはオリンピックについて聞いたこともなければ、そこで競技をするなど考えもしませんでした。

二人の預言者の名前、一つはモルモン書の預言者から、もう一つは近代の預言者からの名前をとったアルマ・ウィルフォード・リチャーズは、開拓者の両親の息子でした。1890年に10人の子供の9番目として生まれ、リチャーズは十代の時ほぼ4年近く学校を中退しました。マードックアカデミーで高校に入った時は、リチャーズはすでに18歳になっていました。その年に彼は初めて陸上競技を始め、ユタ州チームのチャンピオンになるほどの点数を取りました。

翌年、リチャーズはブリガム・ヤング高校に転入し、そこでコーチのユージン・ロバーツがリチャーズの力を見出し、オリンピックのハイジャンパーとしてトレーニングを始めました。

オリンピックはまだそれほど一般的ではなかったので、ロバーツコーチは旅の資金として150ドルをやっとの思いでかき集めました。シカゴでのオリンピックの予選に出るためにリチャーズの旅のスポンサーになる地元の企業はほとんどなかったのです。

高跳びでオリンピック金メダルを取ったリチャード

190センチを飛び、リチャーズは予選を通過しました。しかし彼が無名であったため、オリンピック選考委員会は最初は彼のジャンプをまぐれとして却下してしまいました。選考委員のメンバーであり、シカゴでリチャーズの競技を見ていたアモス・アロンゾ・スタッグが、リチャーズがオリンピック補欠チームに入れると委員会に請け合ったので、スウェーデンのストックホルムへの道を獲得しました。20か国からの56人の他の選手たちとの試合で、リチャーズのオリンピックへのデビューは前途が明るいものではありませんでした。最初の3ラウンドはリチャーズは最初の二回を失敗し、最後にバーをクリアすることができました。

しかしリチャーズは頑張り、バーが185センチに上がった時、クリアできた選手は3人しかいませんでした。毎回最初にバーをクリアしたドイツ人のハンス・リーシェ選手、当時世界記録を持っていたアメリカ人のジョージ・ホリン選手、そしてアルマ・リチャーズです。

それからバーが190センチに上がり、リーシェは最初のジャンプでクリアしました。ホリンは3回とも失敗しました。リチャーズはなんとか3回目のジャンプでクリアしました。

バーが2センチ上がり、リチャードは最初に飛びました。

信仰を示したリチャード

しかしジャンプする前にアルマ・リチャーズは思わぬことをしたのです。彼は二万四千人の観衆が見守るオリンピック競技場から外れ、農作業用の柔らかな帽子を取り、ひざまずいて次のように祈ったのです。「神様、私に力をください。そして勝つのが御心にかなうならば、自分の最善を尽くして生涯良い模範となれるように力をください。」

祈りを胸に、リチャードはバーの数センチ上を跳び越えました。そしてリーシェの番、この日はじめて、リーシェは最初のジャンプで失敗し、その後2度ともそのバーを飛び越えることはありませんでした。

アルマ・リチャーズはその日、金メダルを首にかけ、ガスタフ・V・ハング王さながらにオリンピックの表彰台に立ちました。リチャーズ家で初めての、そして唯一のオリンピックメダリストでした。

家に帰る途中、リチャーズはコーネル大学によりました。1913年、リチャーズは全米体育協会の高跳びチャンピオンとなり、1915年には十種競技チャンピオンとなりました。1916年には、リチャーズは最優良高跳び選手であり、アメリカ最高の十種競技選手でしたが、第一次世界大戦によって大会は中止され、その後リチャーズは二度と競技をするチャンスを得ませんでした。

代わりに、戦争後リチャーズはスタンフォード大学院に進学し、南カリフォルニア法律学校に進みました。博士号を法律学位を取得し、また違った意味でのバーをクリアしたにも関わらず、リチャーズは最終的に高校の理科教師になりました。

彼の高跳び人生は終わりましたが、リチャーズは1963年4月3日に亡くなるまで、彼の信仰と個人的な標準のバーをあげ続けました。

 

この記事はダニエル・B・ワグナーによって書かれ、ldsliving.comに掲載されたものです。