十字架を背負ったイエス・キリスト

ユダヤ人の暴徒がせき立てたので、ピラトはイエス・キリストの十字架上での死刑を決定する判決を下しました。イエスはむち打ちの刑を堪え忍び、それから「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。」(ヨハネ19:17)そこはエルサレムの城壁の外側であった。「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには『ユダヤ人の王、ナザレのイエス』と書いてあった。」(ヨハネ19:19)

「また、イエスと共に二人の強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。〔こうして『彼は罪人たちのひとりに数えられた』と書いてある言葉が成就したのである。〕そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、『ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え。』祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう。』また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」(マルコ15:27−32)

十字架は、イエスの処刑の意味だけでなく、批判、皮肉などの象徴としても使われます。皮肉にも、イエスは世界の重荷を負いました。主はユダヤ人の王であり、ご自分で不正な十字架から逃れることもできました。主は御父の御心を成就するために、命をお捨てになったのです。そうすることによって、復活することで、死と地獄の鎖を断ち切ることがおできになったのです。


十字架の象

多くのキリスト教派にとって、このイメージはキリストの十字架での死と贖いを象徴し、大聖堂、教会、また個人の装身具としても広範囲に飾られていて、最も高いレベルの献身を表しています。

モルモン教では十字架を建築に使ったり、アクセサリーとして着用しません。それは十字架を救い主の贖いの御業の一部として扱っているからです。救い主が制定された聖餐を通して、その贖いの業に敬意を表しています。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。」また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしをえさせるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ26:26−28)

建物の中に十字架が飾られてはいませんが、救い主の贖いがモルモン教の中心的な教義であり、その事実は儀式(聖なる礼典)と聖約(聖なる神に対する約束)の中に現れています。神の御元に人類を戻れるようにする方法は、キリストを除いて存在しません。

「もし十字架を使わないのであれば、あなたの宗教は何を象徴にしているのですか?」と尋ねられて、ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう答えました。

「十字架とは主を拷問にかけた道具です。人の平安を破壊するように考案されたひどい道具です。主の奇跡の癒し、目の不自由な人の目を開け、死者を蘇らせた奇跡の業に対する邪悪な報いです。この十字架に主はかけられ、ゴルゴタのわびしい頂上で命を落とされました。しかし、墓から復活した生けるキリストとして出現されました。十字架はユダの裏切りの苦い果実であり、ペテロの否定の総決算でした。空の墓は、今や主の神聖な使命の証、永遠の生命の確信、ヨブのまだ答えられなかった疑問への解答でした。すなわち、『人がもし死ねば、また生きるでしょうか。』(ヨブ14:14)ですから、わたしたちの救い主は生きておられ、その死を象徴するものをわたしたちの信仰の象徴には使いません。しかし、わたしたちは何を使うでしょうか?いかなるしるし、いかなる芸術、いかなる形も、生けるキリストの栄光と驚異を適切に表すことができません。主は次のような時に、どのような象徴を使うべきかをわたしたちに示されました。『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。』(ヨハネ14:15)キリストに従う者として、わたしたちは下品で、安物の、優雅でないものを使って、主のイメージの輝きを失わせるわけにはいきません。わたしたちが身に負っている主の名前の象徴をより輝かせるために、善良で、優雅で、寛大な行為をすること以上にふさわしいことはありません。ですから、わたしたちの行為そのものが、生けるキリスト、永遠の生ける神の御子に対する証を宣言する表現であり、象徴となるべきです。」


的な十字架

カルバリに至る救い主の生涯を知って、イエスは人類にご自分が道であるとお教えになりました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。そして、自分の十字架を負うものは、すべての不信心とあらゆる世の欲とを捨て、わたしの戒めを守らなければならない。自分の命を救うために、わたしの戒めを破ってはならない。だれでも、この世で自分の命を救うものは、来る世においてそれを失うからである。そして、だれでもこの世で自分の命をわたしのために失う者は、来る世においてそれを見いだすであろう。それゆえ、この世を捨て、自分の命を救いなさい。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。あるいは、自分の命のために何を交換しようというのか。」(ジョセフ・スミス訳のマタイ16:25−29)

ある意味で、十字架は比喩的に人がこの邪悪な世界を克服しようとする中での試練や、迫害を描いています。「自分の十字架を負ってわたしに従おうとせず、またわたしの戒めを守ろうとしない者は、救われないであろう。」(教義と聖約56:2)

十字架はまた、弟子としてキリストが準備なさった道に従う際の、従順さと奉献を象徴しています。