わたしたちはイエスが思いやりのある方だと思いますが,通常考えはそこで止まってしまいます。わたしたちも思いやりのある人になる必要があります。わたしたちが正式にそのような努力を始めるのはバプテスマに始まりますが,わたしたちの多くがバプテスマはもっと思いやりのある人になるための手段であると気づいていません。バプテスマの聖約を見て,わたしたちが実際何を約束したのかを見てみましょう。

 

バプテスマの話

わたしが聞いたバプテスマの話は,主に2つの点に注目しています。一つは戒めに従うことで,もう一つはキリストに対する信仰を行使することです。バプテスマという儀式は確かにこの2つのことに関わっているので,その点には異論がありません。しかし,バプテスマはそれ以上のものです。ヘンリー・B・アイリング管長は,2015年3月の女性の総大会で,モーサヤ書の18:8−9にあるバプテスマの聖約について簡単に触れました。

過去にわたしが何度もバプテスマの話を聞いたのですが,この度はモーサヤ書のこれらの聖句がそれらの話で通常触れられていない従順さと信仰について違った角度から考えるというすっかり異なる経験を与えてくれました。以下にこれらの聖句を引用しますと:

「そして,アルマは言った。『ここにモルモンの泉がある。(この泉はこのように呼ばれていた。)あなたがたは神の羊の群れに入って,神の民と呼ばれたいと願っており,重荷が軽くなるように,互いに重荷を負い合うことを望み,また,悲しむ者とともに悲しみ,慰めの要る者を慰めることを望み,また神に贖われ,第一の復活にあずかる人々とともに数えられて永遠の命を得られるように,いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも神の証人になることを望んでいる。まことに,わたしはあなたがたに言う。あなたがたが心からこれを望んでいるのであれば,主からますます豊かに御霊を注いでいただけるように,主に仕えて主の戒めを守るという聖約を主と交わした証拠として,主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。』」(モーサヤ18:8−10)

典型的なバプテスマ会でのお話では,これらの聖句にあげられている戒めにわたしたちが従うことに同意することについて含めて語るかもしれません。わたしたちが主の子供として,あるいは代理人として,すべてのことにおいて,またどこにいようと,イエスを覚えることを約束することにも言及するかもしれません。わたしがアイリング管長のお話を読んでいて学んだばかりのことは,これらのことはキリストがそうであるようにわたしたちが思いやりをもつことを本当は意味していることです。

 

思いやりが目標

アイリング管長はモーサヤからの聖句を引用して次のように述べています:

「その理由で,悲嘆や困難の重荷を背負っている人が前進しようと格闘しているのを助けたいという気持を感じるのです。あなたは主が彼らの重荷を軽くして,慰めを与えるのを助けると約束したのです。聖霊の賜物を受けるときにこれらの人々の重荷を軽くする助けをする力を与えられるのです。

そのような考え方は真実かもしれませんが,わたしはこれまで一度もこのように考えたことはありませんでした。ほかの人々に対する私の気持について振り返っていた時,自分にはいつも人々を引き上げ,彼らの重荷を軽くしたいという望みがあったことに気づきました。わたしはそれが聖霊の賜物として来ていることを一度も考えたことがありませんでした。

その引用について,それがわたしの心に深く入って行くように,何度も読み返す必要がありました。末日聖徒の社会は絶えずほかの人々の重荷を軽くしようと務めています。人々のために,彼らが怪我をしたり,病院にいる時に,屋根を直したり,子供の世話をしたりします。未亡人の庭を奇麗にし,家の修理をします。まわりの人々の生活を祝福しようと数え切れないくらいの小さなことをします。

それがほかの人の重荷を軽くし,悼む者とともに悼み,慰めの必要とする人を慰めることを意味します。それはほかの人々の生活に非常に個人的な方法で関わることを意味しています。このような行為でわたしたちが望んでいるのは,「最初に復活する人々の仲間として数えられ,永遠の命を受けること」です。しかし,ほかの人々のために生涯かけて奉仕した後起こることはこの世の生涯を始めた時のやり方とは異なっています。

 

変化

8歳の時か,改宗者として,「救われるためにすること」のチェックリストを心に留めることで始まり,やがてそれは生活の一部になります。わたしたちが最初は覚えているようにしなければならないことは,後になって何はさておいても行なうような習慣になります。若い時は,親から他の人に親切であるようにいわれなければならなかったかもしれませんが,ほかの人々に親切であるように務めてから,それが先ず考えることになり,わたしたちの衝動になります。

思いやりをもつことによって,その結果として喜びを感じます。それは善良で親切で思慮深く人を赦すことの自然な結果です。時間が経つにつれてそのような幸福のない生活は考えられないものとなります。人生は利己的な理由で善良になることを諦めるには良過ぎます。

このことが,アイリング管長がお話の中で意図したことが成就することです。わたしたちの生活において,聖霊の力のおかげで,わたしたちがまわりにいる人々の重荷を軽くするという願いを実行に移せるようになるのです。聖霊によって,わたしたちは支援する力となり愛のある方法で語ることを学びます。聖霊の力によって導かれ,他の人たちの助けの必要なところが示されます。時々,わたしたちは前に一度も会ったことがなかった人々を助けていることになります。そしてそれは朝起きたとき身体を伸ばすのと同じくらい自然な行為になります。

思いやりについて考える時に,救い主とその数多くの親切な業についてよく考えます。わたしたちがバプテスマの聖約をしたことはわたしたちをそのような人になるようにさせることが意図されています。わたしたちが他の人たちの生活を祝福しようと務める時に,わたしたちの努力によって,彼らの生活が変わり,より良くなることが真実です。しかし,それだけでなく,わたしたちの生活もそうなるのです。御霊の促しに従い,バプテスマの時に交わした聖約を守る努力によって,わたしたちの生活も変わり,改善されるのです。わたしたちの心は変わります。わたしたちは他の人たちの悲しみをもっと深く感じるようになります。ほかの人々の幸福をもっと喜ぶようになります。人生は生きる価値のあるものであると感じさせるようなことにはっきり意識を向けられるように生活のすべてが変わります。わたしたちはもっとキリストに似た者になるのです。

来週わたしはキリストの思いやりについて語ります。これはわたしがひどく主を過小評価していた領域のことです。わたしたちはイエスが良心的な人であると知っています。しかし,わたしたちは主がまわりの人々の悲しみ,重荷,そして喜びを完全に把握しておられたということを本当に理解しているでしょうか。この点が来週検討するポイントです。

 

 

この記事はケリー・P・メリルによって書かれ、ldsblogs.comに投稿されたものです。