ブリガム・ヤング大学ハワイ校の生徒の半分以上は、アメリカ合衆国以外から来ている。合衆国で(大学院を除き)最も多様性のある大学である。学生数は2700人に過ぎないが、学生たちは70の国を代表している。学校における学習体験の重要な部分である多様性のために、国外の学生が優先されている。

 

BYUハワイのはじまり

モルモンの大学、BYUハワイ校の夢は、1950年代、教会の指導者デビィッド・O・マッケイが、今学校があるライエを訪れた時に始まった。彼は民族的に多様な子供たちのグループが、旗の掲揚式に参加しているのを見て、世界中から来た人々が共にお互いについて学べる環境を、心に思い描き始めた。それらの人々はその後、ビジネスや政府、教会の活動の経験により得た知恵を使うために故郷へ戻ることができるのだ。

彼が教会の大管長になった時、夢を具体的な考えにし始め、1995年に学校の起工をした。その時は、チャーチ・カレッジ・オブ・ハワイと呼ばれ、唯一のコミュニティ・カレッジ(地域短期大学)だった。1974年に4年制大学になった。デビィッド・O・マッケイは言った。「この学校から、国際的な平和を確立するために良い影響を与える男性と女性が輩出されるでしょう。」

 

BYUハワイでの生活

授業は英語で行われるため、学生は英語を十分に話せることを求められるが、英語を母国語とする学生たちが、クラスメートが英語力を向上できるように助ける。学生たちはまた、ポリネシアン・カルチャー・センターと呼ばれる人気の観光客向けの呼び物を運営することにより、仕事とリーダーシップの技術を学ぶ。センターはその地域に少なかった雇用を提供しているが、学生に故郷に持ち帰ることのできる、並外れた範囲の技術を与えることもしている。

多様性は、しまい込まれたり、無視されたりはしていない。代わりに、文化的お祝いと、授業や個人的ディスカッションを通して、祝われ、探求される。ほとんどの学生はモルモン(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員を表すために時々使われるニックネーム)なので、大きな多様性のある環境であっても、一体感を感じさせる信仰を通じた一致の要素を見つけられる。多様性は時々学生を圧倒し、彼らはその後同じ文化を分かち合える人と共にいることによって癒されるが、学校は彼らが分離されたままにならないようにしている。

彼らが故郷に戻る時、他の人々について学んだことを持ち帰り、それぞれの国で平和と理解をもたらすために使うことができる。教会の指導者、マリオン・G・ロムニーは1973年にこう述べた。「このカレッジは、生きている実験室です。そこで教師である救い主の教えを分かち合う個々が、感謝と寛容とお互いに対する尊敬の念を生じさせる機会を持ちます。ここで異文化間でできる小さな事柄は、もし地上に真の兄弟愛をもたらすつもりがあるならば、大きな規模でされなければなりません。」(チャーチ・ニュース 1973年2月10日、p15)

ほとんどの学生がモルモンだが、すべての学生がそうだということではない。2012年に、学生会長として史上初の非モルモンであるイスラム教徒を選び、大きく報じられた。ムスタファ・EI・アッカリはレバノンで育った、戦争の子供である。彼の家族は安全なところに彼を行かせたいと思い、彼はテキサスにあるミッション系カレッジでバスケットボールをするために合衆国に来た。最初のミッション系カレッジは、イスラム教徒が学校にいると他の生徒が気まずく感じるので、クリスチャンの振りをするよう求めた。彼は同意したが、彼自身はそのごまかしが気詰まりだった。彼は後に、同じくミッション系学校のBYUハワイ校に転入した。そこでは、彼はモルモンまたはクリスチャンの振りをするようには求められなかった。この多様性のある大学の歓迎する群れに、ただ一人のイスラム教徒は受け入れられた。

人種差別や衝突の話題でニュース・メディアを満たすキャンパスはたくさんあるが、BYUハワイ校は、そのように運営される必要のない学校、そして世界の模範として存在する。共通のゴールで結ばれた人々は、違いからではなく、分かち合うものから一致を見つけ、共に働くことができる。違いは彼らを強めるものとなり、世界が是が非でも必要としている善を実行する能力を高める。

情報源

メルセデス・ホワイト、「イスラム教徒移民、非LDS初のBYUハワイ校学生会長」、デセレト・ニュース 2012年5月8日

メーガン・マースデン、「一つのカレッジのキャンパスに70カ国以上が表されている」、デセレト・ニュース 2013年3月21日

ベンジャミン・ボウド、「卒業生がBYUハワイ校での経験を分かち合う」、ユニバーシティ・アドバンスメント 20007年1月15日