ほとんどのキリスト教徒にとって救いとは天国に行くことです。あらゆるキリスト教の信仰は、どのように救いが得られるのか異なりますが、キリストの計り知れない犠牲についてはすべてが賛同しています。人間の力では、ふさわしくない人と完全な神との大きな隔たりを越えるようなことはできませんが、主御自身の贖いが救いを可能にします。いくつかのキリスト教徒の信仰は行いについて、どのような言及をも避けていて、聖書からヤコブの手紙で行ないのない信仰は死んだものだと述べているのをほとんど無視しているかのようです。その他のキリスト教徒の信仰では、特に正統派的信仰では救いには儀式が必要不可欠だと少なくとも部分的な焦点を当てています。ほとんどのキリスト教徒の信仰ではバプテスマ(洗礼)は天国への門であると見ていますが、しかし、バプテスマ(洗礼)の様式がどのようなものかについては違いがあります。ほとんどのキリスト教徒の信仰は誰が救われるかについて偏狭的な見方があります。救われなかった人々は「地獄」の宣告を受けます。

主によって救われる

末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)はより多くの聖典や近代の預言者があり、天国とどうしたら天国に行くことができるかに対するわたしたちの見方を広げました。聖書からヨハネの黙示録で、モルモン書、そして近代の預言から、わたしたちは自分たちの行いのみで天国に行くことはできないと知りました。神はわたしたちの働きを、信仰の現れによって裁かれます(ヨハネの黙示録20:12、13;教義と聖約121:24、25;教義と聖約63:11、15、48;アルマ5:16、17、35、36、41、42、54;1ニーファイ15:32、33;アルマ41:3、4参照)。
モルモンの教義ではわたしたちは恵みによって救われますが、信仰が善い働きへ導いて、神の恵みを受ける資格を得ることができます。
したがって、悔い改めて、主なる神の声に聞き従おうとする者は幸いである。救われるのはこれらの者だからである。神が御自分の大いなる完全さに照らして、人々を悔い改めと善行に導き、それぞれの行いに応じた恵みに回復してくださるように。(ヒラマン12:23、24)

モルモンの観点から見た御業に対する焦点

モルモン教には素人の聖職者がいます。ということは誰ひとり訓練を受けた祭司や牧師を雇うことはありません。お金をもらう聖職者を持たないことでモルモン教はお金をもらって説教することが定義である「偽善売教」、から守ることができます。それは宗教が事業にならないように守ってくれます。しかし、一般の人で世間の職業を持つ人は、モルモン教の教会を運営するため奉仕するように召されます。教会の「召し(責任)」は個人の成長のために必須であり、神に助けを祈り求めることが必要不可欠です。モルモンは多くの場合、自分は準備ができていないと感じるようなことを教会(伝道などが主要な例です)で行うように召されることがあります。神の召しは僕が謙遜になる助けとなり、その人の能力を高めます。為すべきことは沢山あります。個人的なことに加え、教会に来る人や隣人に一対一でする慈善の奉仕があります。モルモンの集まりは地理的に組織されており、会衆全体や運営上のグループがあります。

モルモン教の精神はユダヤ教の精神のようであり、加えて、道徳的な態度や清潔感のある生活に焦点を充てています。二つのそれぞれの宗教には食物に関する律法がそれに従う人たちと世間とを隔てています。これらの食物に関する律法を守ることは心を向けることと勇気が伴います。またモルモンは世界的な人道支援に携わる教会に所属し、精力的な福祉システムを持っています。両方はボランティア精神を必要とします。アメリカでは、モルモンはどのような組織や団体よりも多くを与え多く奉仕しています。それゆえ、たびたびモルモンだけで天国へ行こうとしているように見えたり感じたりします。モルモンで神の真実の教義をまったく理解していない人は時に彼らには「チェックリスト」があるように感じて、この方法で生きることが重いと感じたりします。

モルモン教の天国についての考え

教義と聖約の中の現代の啓示を集めた中に、2つの章で累代から地上で知らされている以上天国についてわたしたちに教えています。76章はコリント人への第一の手紙15章でパウロが述べた天の3つの王国、日の栄え(太陽の栄光)、月の栄え(月の栄光)と星の栄え(星の栄光)に関する啓示の記録です。この啓示はジョセフ・スミス及びシドニー・リグドンが同時に他の人々がいる中で体験しました。この二人は地上でどのような行いを為したかでそれぞれの王国に入る資格を得ることを見、また彼らは神が最も高い王国に住まわれているのを見ました。キリストは月の栄えの王国にいる人々に教えますが、月の栄えの王国に住む人々は星の栄えの王国の人々に教えます。キリストの栄光が偉大なためキリストご自身は行くことありません。この2人は星の栄えの王国は罪人、地上でキリストを拒んだ者や復活の前に霊界にいた人たちがいますが、それでも星の栄えの栄光は言葉にすることができないほどのものでした。これらの人々は自分の罪を霊(「地獄」)の状態で苦しまなければならず、最後に復活する者が復活するまで待たなければならず、彼らの苦しみは持続するのです。しかし彼らは天のひとつの王国を受け継ぐことができます。

教義と聖約138章はジョセフ・スミスの甥である預言者ジョセフ・F・スミスが体験した啓示の記録です。この章ではキリストが墓にいた3日間に霊界にいる霊たちへの教導の業が詳細に描写されています。数十億もの神の子供たちが地上に住んでいた時に、キリストを受け入れることも拒む機会もなかった人々がいます。喜ぶべきことは、その人々も霊界で福音を聞いて信じる機会があるのです。地上にいた時にキリストを拒んだ人も、もう一度機会が与えられ、そして悔い改めることも幾分か可能です。この度合いはすべての神の子供たちにとって「公平な土壌」です。

モルモン教は地獄(キリストを拒んだ人々が霊界で受ける苦しみに加えて)について信じていて、彼らはそれをよく「外の暗闇」と呼んでいます。ほんのわずかな人々が復活し裁きを受けた後にこの地獄へ行くでしょう。これらの人々は「聖霊に対する罪」を犯した人々で、それはキリストを実際に目にし、したがってすべての疑いを取り除き、それでもキリストを否定するのは「改めてキリストを十字架にかける」かのようなものです。サタンやその使いたちは主が御自身の御業を終え後に外の暗闇に投げ入れられます。
その結果、聖霊に対して罪を犯していない人は天の王国を受け継ぐことができる可能性があります。これはどのキリスト教徒の信仰よりも最も救いの原則を含めたものであり、そしてこれは真実です。

モルモン書に述べられているように…

…それは御霊が昨日も、今日も、またとこしえに変わらない御方だからである。人の堕落以来、方法が用意されており、救いは無料である(2ニーファイ2:4)。

昇栄は救いと異なっている

もし福音主義のキリスト教徒がモルモンに救われるのか聞くと、答える前にためらうかもしれません。しかし私は、いつもすぐに「はい」と答えるべきだと思っています。それは彼らが主に対してそのような信仰を持っているからです。しかしこれはモルモンのたわごと、または誰かが救われるかどうか聞く態度の一部ではなく、いずれにしても彼らは救いの先にあるものを見ています。彼らはある人が星の栄えの王国へ行くのはキリストの哀れみを通してだと知り、ジョセフ・スミスは啓示の中でこれらの人々は…偽りを言う者、魔術を使う者、姦淫を行う者、みだらな行いをする者、また偽りを好んで行う者である。これらは、地上で神の激しい怒りを受けるものである。これらは、永遠の火の刑罰を受ける者である。これらは、キリストがすべての敵をその足の下に従わせて、その業を完成される時の満ちるまで、地獄に投げ落とされて、全能の神の激しい怒りを受ける者である(教義と聖約76:103−106)。
従って、モルモンは救いについて時間をかけて考えたりしません。彼らは昇栄について心配しているのです。

昇栄、日の栄えの王国に救われることは、永遠に存在する父なる神とイエス・キリストのところへ行くことです。信仰深く彼らの家族とモルモンの神聖な神殿で結び固められた人は、最も高いところにある日の栄えの王国を受け継ぐことができ、そこでは続けて互いや神とともに結び固められることができます。
これは、無数の天使の集まりと、エノクの教会の総集いと、長子の教会の総集いに加わった者である。これは、神とキリストが万民の審判者として住まわれる、天にその名が記されている者である。これは、自らの血を流すことによってこの完全な贖罪を成し遂げられた、新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされた正しい人である。これは、その体が日の栄の状態にある者である。その栄光は太陽の栄光、すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であり、その栄光は大空の太陽によって象徴されると記されている(教義と聖約76:67−70)。

モルモンはすべての人に昇栄、神のみもとで永遠に住むことに目を向けるよう勧めていています。地上で愛する人と永遠の結婚、又、家族の結び固めの儀式によって結び固められるように勧めています。彼らはイエスがキリストであり、イエスの愛はすべてを包み込んでくださることについて証を述べました。イエスはすべての人々に御自身のもとへ来るよう招いておられます。
そして、わたしたちは御父の右に御子の栄光を見、その完全を受けた。また、神と子羊を拝しており、またとこしえにいつまでも神と子羊を拝する、聖なる天使たちと聖められている者たちを御父の御座の前に見た。そして今、子羊についてなされてきた多くの証の後、わたしが最後に子羊についてなす証はこれである。すなわち、「子羊は生きておられる。」わたしたちはまことに神の右に子羊を見たからである。また、わたしたちは証する声を聞いた。すなわち、「彼は御父の独り子であり、彼によって、彼を通じて、彼ら、もろもろの世界が現在創造され、また過去に創造された。そして、それらに住む者は神のもとに生まれた息子や娘となる」と(教義と聖約76:20−24)。