「何か力になりたい。」

知人や近所の人、また同じ教会に集う人々が、病気や離婚、流産、失業、家族を亡くした、あるいは次々と試練が重なっていると耳にしたとき、多くの人がそう思うでしょう。

末日聖徒イエス・キリスト教会の教会員もそうです。

「重荷が軽くなるように、互いに重荷を負い合うことを望み、また、悲しむ者とともに悲しみ、慰めの要る者を慰めることを…望んでいる。」モーサヤ書 第18章8–9節

この聖句は末日聖徒にとって大切な指針で、実行できるように努めています。

しかしその一方で、深い悲しみを経験した人からは、このような声が聞かれることもあります。

「励ましてくれる気持ちは本当にありがたかった。でも、その時は何も話したくなかった。」

「悪気がないことは分かっている。でも、その言葉を受け止める余裕がなかった。」

どちらも愛から始まっています。

だからこそ、このテーマに正解はありません。

では、わたしたちはどのようにすれば、救い主のように寄り添うことができるのでしょうか。

悲しみに「正しい反応」はありません

教会の「悲しみと喪失」のリソースでは、悲しみは人によって現れ方も、癒やされていく過程も異なることが繰り返し教えられています。

ある人は話すことで気持ちが整理されます。

ある人は、誰とも話さず静かに過ごしたいと思います。

涙が止まらない人もいれば、涙がまったく出ない人もいます。

教会へ行くことで慰めを受ける人もいれば、今は教会へ足を運ぶことさえ難しい人もいます。

怒りを感じる人もいます。何も感じられなくなる人もいます。どれも、その人なりの悲しみの表れです。

また、悲しみに期限はありません。

周囲が日常に戻った後も、命日や誕生日、季節の移り変わりなどをきっかけに、再び深い悲しみが押し寄せることがあります。

だからこそ、わたしたちは「もう元気になったはず」と決めつけるのではなく、1人1人の歩みを尊重したいものです。

イエスは誰かが苦しんでいることを知り、まず涙を流しました

救い主は、まず涙を流されました

ラザロが亡くなったとき、イエス・キリストは彼をよみがえらせる力を持っていました。

それでも、マリアや周囲の人々の悲しみを見ると、

「イエスは涙を流された」ヨハネによる福音書 第11章35節

と聖書は記しています。

この短い一節は、救い主の愛の深さを伝えています。人々が悲しむ中、最初に教義を説明しませんでした。また、「心配しなくてもよい」と慰めの理屈を話しませんでした。

まず、人々の悲しみの中に入っていったのです。

パウロもまた、

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」ローマ人への手紙 第12章15節

と勧めています。

わたしたちは誰かを励まそうとするとき、つい「何を言えばよいだろう」と考えます。

しかし、救い主の模範は、「何を言うか」よりも、どのようにその人と共にいるかを教えています。

真理は大切だからこそ、伝えるタイミングも大切

福音は大きな希望を与えてくれます。復活があり、永遠の家族もあります。

神様は1人1人をよく知っていて、試練の中にも目的があります。これらは、わたしたちが心から信じている真理です。

しかし、深い悲しみのただ中では、その真理を受け止める力さえ残っていないことがあります。

悲しんでいる相手を励ますために、このようなことを伝えたいと思うでしょう。

「神様には計画があります。」

「また天で会えます。」

「信仰を持ってください。」

もちろん、それらは間違った言葉ではありません。

しかし、その瞬間の相手にとって必要なのは、説明ではなく、「分かろうとしてくれる人」の存在であることも少なくありません。真理が間違っているのではありません。

愛を届けるには、その人の心に寄り添うタイミングと方法も大切なのです。

負担になるからと、玄関にそっと置いてある優しさや気遣いが詰まったプレゼント

救い主に倣って寄り添うために

では、わたしたちはどのように愛を示せばよいのでしょうか。

教会の「悲しみと喪失」のリソースには、多くの実践的な助言が紹介されています。

相手のペースを尊重する

話したくない人に、無理に話をさせる必要はありません。「今は一人でいたい。」その気持ちも尊重したいものです。

寄り添うことは、必ず近づくことではありません。その人が必要としている距離を大切にすることも、愛の表し方です。

気持ちを否定せず、耳を傾ける

悲しみを急いで終わらせようとする必要はありません。

「そんなふうに感じるのも無理はありません。」「話してくれてありがとう。」

そのように気持ちを受け止めてもらえることが、大きな安心につながることがあります。

沈黙を恐れない

何か励ましの言葉を探そうといろいろ考えることがありますが、時には沈黙も愛です。

隣に座ること。手紙を書くこと。祈っていることを伝えること。

そのような静かな行いが、言葉以上の慰めになることがあります。

メッセージに思いやりを込める

励ましのメッセージが、「返事をしなければ」という負担になることがあります。

返信は気にしないでください。」と、一言添えるだけで、相手の心を軽くすることがあります。

メッセージの負担を軽くしたいなら、長い文章も避けた方がいいことがあります。長文を読むことが難しい状況かもしれません。

短く、端的に愛を伝え、返信をしなくてもいいと添えられたメッセージが、実は愛を感じることもあります。

こんな思いやりの込め方もあるんです。

重荷を担いでいる時も、主は側に寄り添っていてくれる

「そっとしておくこと」と「一人にしておくこと」は違います

一方で、「話したくないなら連絡しないほうがいい」と考え、完全に距離を置いてしまうこともあります。

けれども、距離を尊重することと、孤立させてしまうことは同じではありません。

「あなたのことを思って祈っています。」

そんな短いメッセージ。玄関先にそっと置かれた食事。教会で交わす静かな笑顔。

相手が望む距離を尊重しながら、「あなたを忘れていません」と伝え続けることも、救い主の愛を表す方法です。

普段通り接することが、相手がありがたいと感じることもあります。

その繊細なバランスを見極めるためにも、助けの手を差し伸べる方にも聖霊の助けが必要なのです。

真の慰め主は聖霊です

ヘンリー・B・アイリング管長は、このように話しています。

聖霊が来られ、皆慰められました。両親は強さを得ました。悲しみの重荷は消えませんでしたが、悲しみを背負うことを可能にしていただきました。彼らの信仰は増しました。彼らが強さを求め、それにふさわしく生活するなら、強さは増し続けるでしょう 。

…神だけが人の思いを御存じであり、神だけが本当の意味で「あなたの気持ちが分かる」とおっしゃることができるのです 。「慰め主

わたしたちは誰かの悲しみを取り除くことはできません。どんなに愛していても、その痛みを代わりに背負うことはできません

聖霊こそが慰めを与えてくれます。そして、傷を癒すのは主の贖いなのです。

しかし、救い主のように愛することはできます。その愛を通して、聖霊が働かれる場をつくることはできます。

また、誰かの苦しんでいる話を聞いて、自分がショックを受けることもあります。そんな気持ちから何か行動をしたいと思うことも、自然なことです。

苦しんでいる本人だけでなく、それを知った人にも慰めが必要なことがあるんです。

聖霊の働きを求めることは、悲しんでいる相手にも、どんな助けができるか悩んでいる自分にも必要不可欠なのです。

誰かに寄り添うにも、主の助けを忘れない

おわりに

「悲しむ者と共に悲しみ、慰めを必要とする者を慰める」。

これは正しい言葉や行いを見つけることへの招きだけではなく、救い主のような心を育てることへの招きなのかもしれません。

ある人には、話を聞くことが必要でしょう。ある人は、しばらく静かに見守ることが必要です。またある人には、「返信は不要です。祈っています。」という短い言葉が、神様の愛を感じるきっかけになるかもしれません。

わたしたちにできることは限られています。しかし、救い主は1人1人を完全に知っています。主はいつも同じ方法で人と接していませんでした。

だからこそ、「何をすればよいでしょうか」ではなく、「この人は今、何を必要としているでしょうか。どうかわたしが、あなたの愛を届ける器となれますように」と祈るなら、聖霊は導いてくれるでしょう。

そして、わたしたちの小さな思いやりを通して、神様は今日も、悲しみの中にいる誰かへ静かに愛を届けてくれるのです。