ショーン・ヒートン

 

ジョセフ・スミスがかわいがっていた7歳のいとこにあげたモルモン書がどうなったかは、ジェシー・N・スミスの家族の誰もが知ってから60年になります。そのモルモン書は家宝であり、ジェシーおじいちゃん(著者の曽祖父だが、皆から「おじいちゃん」と呼ばれていた)の回復された福音への愛として大切にされていました。その本は一度失くなったのでしょうか、盗まれたのでしょうか、それとも置き忘れられたのでしょうか?

ここに信じられないお話があります。

 

1839年におじいちゃんはジョセフ・スミス・シニアの兄弟である父親のサイラス・スミス・ジュニアと6歳の兄弟ジョンをミズーリの迫害により亡くしました。ジョセフとハイラムとおじのジョン・スミスは幼いサイラス・ジュニアとジェシーの母親のメアリー・エイキンの小さな家族の面倒を見ることを引き受けました。大人になってから、サイラス・ジュニアはエラスタス・スノーより聖徒たちをサンフアンに導くように召されたことで覚えられています。これについてはジェラルド・ランドの本『Undaunted』に詳細が述べられています。

1905年4月のタバナクルで開かれた総大会の説教で、ジェシー・N・スミス会長はスノーフレークステークの最初の指導者でしたが、ノーブーで経験したこの衝撃的でおもしろい経験について話しました。

 

わたしが学校に行けるようになると、その頃は無料の学校はなく、両親と契約が結ばれました。わたしは本はほとんど持っていませんでした。わたしは学校でモルモン書を使うと聞いて、父のモルモン書を持って行きました。それは初版でした。わたしたちの尊敬する祝福師はそのクラスに自分のモルモン書を持ってきました。若いジョセフ・スミス3世、シドニー・リグドンの息子、ウィリアム・マークスの息子、ピーター・ホーズの息子もクラスにいました。わたしは良い仲間に恵まれたのです。でも彼らは皆第二版を持っていて、それは新しく美しい装丁で、わたしは少し気おくれがしていました。ある朝、学校に行こうとして預言者の家の前を通ると、彼は庭を歩いていて、わたしの挨拶に答えてくれました。彼は大人としてどんな子供の挨拶にも答えると思います。預言者は垣根の所に来てわたしにとても優しく声をかけてくれました。「学校に行くの?」と聞くので「はい」と答えました。「本は何を読んでいるの?」と聞くので「モルモン書を読んでいます。」と答えました。すると「こっちにおいで。」と言われました。

わたしは門を通って行くと、彼は新しい版の美しい装丁のモルモン書をプレゼントしてくれ、このようなことを言いました。「学校でも家でも読みなさい。」わたしはそうしてきました。わたしはモルモン書を信じています。

 

預言者は内側に「わたしの友であり、親類であるジェシー・ナサニエル・スミスに贈る。1842年3月、ジョセフ・スミス」と書いてくれました。

 

ジェシーおじいちゃんはパロワンと東アリゾナで教会を確立した偉大な指導者となり、54年間奉仕しました。預言者ブリガム・ヤング、ウィルフォード・ウッドラフ、ジョン・テーラー、ロレンゾ・スノー、ジョセフ・F・スミスのもとでそれぞれの場所で同じ期間奉仕しました。

9歳のとき、彼はいとこのジョセフとハイラムの殉教した遺体を見て、心に悲しい思いをしたのを覚えていました。

1846年、彼はウィンター・クウォーターズで飢えた聖徒たちのために食糧を得るという使命を与えられた一人でした。11歳の彼とトーマス・カリスターはとうもろこしを買うためにミズーリ州へ行きました。帰り道で馬車が転倒し、壊れた馬車の棒が突き刺さり100ブッシェル(約140リットル)のとうもろこしで窒息して死ぬところでした。彼はカリスター兄弟に祝福の儀式をしてもらい命を取り留めました。彼はユタ議会の一員であるパロワンの市長、遺言検認判事となりました。またアリゾナの地域の議会でも務めました。2度ほど伝道部会長として北欧で忠実に奉仕し、3000人以上の聖徒たちがアメリカ合衆国のユタ州まで移民する支援をしました。聖徒たちがアリゾナ州のスノーフレークとウッドラフに定住すると、土地を購入し、穀物を育てました。何年もたってから後にアズテックランドとキャトル会社が結局そこを所有していたのが分かりました。ロレンゾ・スノー大管長はニューヨーク市での大切な話し合いをジェシー・スミスとブリガム・ヤング・ジュニアにまかせ、彼らはその土地を信仰の祈りとたくみな交渉術で再度取得しました。

その使命を果たした後、ジェシーは綿をセントジョージからソルトレーク・シティーまでブリガム・ヤングのために輸送しているときに鉄砲水にあい、荷物と馬車と個人的な物も流されてしまいました。このことについて自分には責任がないと思っていましたが、ヤング大管長は反対の思いを持っていることが分かると、ジェシーは荷物の代金を忠実に支払いました。それには数年かかり、パロワン生活協同組合の株を売ることまでしました。

後にスノーフレークのステーク会長となったときに、ギラバレーには将来神殿が建つと預言しました。ジェシーの最も大きな業績は彼の子孫です。彼には5人の愛らしい忠実な妻がおり、30人の娘と14人の息子がいました。妻はエマ・ウェスト、マーガレット・ウェスト、ジャネット・モーレッタ・ジョンソン、オーガスタ・アウツェンとエマ・ラーソンでした。2001年にはジェシーには27,000人以上の子孫がいたので、現在はもっと増えていることでしょう。教会と公共に対する奉仕や指導の貢献は計り知れません。

ジェシーおじいさんは1905年6月5日に亡くなりました。預言者ジョセフ・スミスにもらった大切なモルモン書は7番目の息子のアシャエル・スミスに受け継がれ、それから現在ユタ州オレム在住のアシャエルの7番目の息子リチャード・スミスに受け継がれました。それからエマ・ラーソンの勧めによりアリゾナ州メサ神殿に寄贈されました。それからどこかに消えてしまったのです。家族には何が起こったのか全くわかりません。最初に寄贈したリチャード・スミスはいたずらかと思いました。ジェシー・スミスの家族は聖典がどこに行ったか皆目見当がつかず、失くなったことでとても悲しみました。何年もの間、リチャードはいつか見つかるという希望を持ってそのことについて人々に話していました。

ジェシー・Nとその妻ジャネット・モーレッタ・ジョンソンの孫であるおばのジャン・ファーがいます。彼女はわたしの愛するおじであるリー・シャムウェイと結婚し、おじは2005年に亡くなりました。彼女はオーガスタ・アウツェンの子孫でいとこのラマール・ファーに会って再婚しました。彼は最近妻をがんで亡くしたのです。彼女はそれからこの物語を次のように記しています。

 

「ラマールとわたしがソルトレーク・シティーで宣教師をしていたとき、わたしたちはおじいちゃんの聖典のことを何回か話しました。そしてそれが教会歴史図書館にあるのではと思いました。ラマールはそれについて祈り、ある日わたしたちは歩きながらそこで止まってその聖典について尋ねてみようと決心しました。わたしたちは秘書のマリー・エリクソンにその物語について話しました。その後、彼女はコンピューターの記録を調べましたが、それについては何も見つけることができませんでした。しかしいくつか電話を入れてまた知らせてくれるとのことでした。彼女は一応当時その部署の長であったグレン・ローにそのことを話しておきました。ある日、彼が預言者の金庫で探し物をしていたとき、「わたしの友であり、親類であるジェシー・ナサニエル・スミスに贈る。1842年3月、ジョセフ・スミス」と書かれたモルモン書を見つけました。そのときにはジェシーは7歳になっていたはずなので日付が一致しました。調べていくとその聖典はおじのアシャエル・スミスに、のちにスミスオーガニゼーションのリチャード・スミスに引き継がれていました。リチャードはその聖典をほかにも工芸品が展示されているメサ神殿の所有物とするように決意しました。ある日グレン・ローから連絡があり、預言者の金庫で見つけた聖典を見に来るように招いてくれました。わたしたちが部屋に入るとテーブルの上に聖典が置かれていました。ロー兄弟はわたしたちに見るように言ったので、わたしがそれに触れると、その聖典は預言者ジョセフ・スミスとおじいちゃんが触れたものであることが分かり、体に電流が走りました。そして言うまでもなくとても感動してしまいました。」

 

10×15センチのカードがモルモン書の中にはさまれておりそこには次のように書いてありました。

 

「1948年9月30日、このモルモン書はアリゾナ神殿にジェシー・N・スミスの家族から寄贈される。アリゾナ神殿のハリー・L・ペイン会長が今朝ジョージ・アルバート・スミス大管長のところに持ち込み、これは大管長が持っておくべきではないかと思う、とのことであった。スミス大管長は歴史家の事務所に移すべきだと感じた。」

 

知る限りでは、この聖典は教会の特別な金庫室に60年以上も保管されていたのです。ミステリーは解決しましたが、話は続きます。一つは最初の63ページが失くなっていることです。

昨年の夏に曽祖父の日記を読もうと決意したときから曽祖父について個人的に関心を持つようになりました。たくさんの子孫が多くの時間を使って月刊紙「キンズマン」を書いており、これはこの偉大な先祖と家族の受け継ぎを生きたものにしています。すでに沢山のことが書きこまれて発行されています。電気、技術、自動車のない時代の彼の信仰と奉仕の物語はわたしを魅了しました。もっと探求してみたい、という強い望みが増しました。

母のエスター・ルース・ヒートンはおばの許可を得たコピーの文書を持っており、わたしがそれを研究することを許してくれました。おばを訪ね、その特別な物語について聞き、わたしは自分でモルモン書を見てみようと決意しました。わたしはジェシー・Nの子孫で活発な役員であるメンロ・スミス、スコット・バーカー、ジェフ・アダムズがテンプルスクウェアの西にある家族歴史図書館で担当者たちと会合を持ち、ジェシー・Nの記録によれば今では何千人にも及ぶ存命中の子孫をどのようにして集めるかについて話し合っているということが分かりました。

わたしは彼らと少し会って、モルモン書についての話をしましたが、教会歴史図書館でさらに調べるため中座しました。教会歴史図書館は初めてでしたが、皆が親切に手伝ってくれました。タイソンという男性はモルモン書の話に興味を持ったようで、すぐに教会歴史図書館の膨大なデータベースを調べてくれましたが、そこには何の記録も見つかりませんでした。わたしは心の中で「やれやれ、また失くなってしまった」と苦笑いしました。彼はジェシー・Nのほかの文書を見つけ、それが何であったかあまり明瞭で正確ではありませんでしたが、彼の日記のコピーのようでした。なぜかわかりませんが、もとの日記の日記があるかもしれないという可能性は心から抜けていました。

申込書に記入すると、別の部屋に案内されました。そこは重要な文書を閲覧するための厳重な保管室でした。わたしはファイルを渡されました。ファイルを開けてみると、30ページほどの手書きの文書が出てきました。それは彼自身の手により書かれた自伝の要約であることが明らかになりました。わたしは胸がいっぱいになりました。曽祖父の生涯について6か月間、夢中で研究した後、わたしは曽祖父の手書きの原本を読んでいたのです。あの世を隔てるベールは薄くなっていました。曽祖父が書いた日記を持ってきてもらってから少しすると涙がこみ上げてきました。わたしは曽祖父の人生の後半の50年をここまで保存することがどれほど大きく重いものであるか、どれほど驚くべきことだったのかと思ったのを覚えています。わたしは曽祖父のペンで書かれた同じ文句が出版された形でその日まさに読んだということに驚きを覚えました。図書館は閉館間際で、職員たちはあと数分しかないと優しく促してくれました。わたしは急いで荷物をまとめて都合のつく限り早くジェシーの孫である母や他の親族のところへ持ち帰ると決意しました。

わたしはマリー・エリクソンに連絡をとり、1週間の間に原本を閲覧するという約束を作りました。この特別な機会に参加してもらえるようにフェイスブックとメールで家族や子孫を招きました。

 

元の寄贈者リチャード・スミスはわたしと同じ建物を使うワード内に丁度住んでいました。これは彼にとってどれほど重要なことかを分かっていたので、わたしは次の日曜日彼を探し出し、聖餐会の後玄関ホールで彼に会いました。そこで自分の見つけた聖典が教会の保管庫に長い間保管されていたことを話しました。年を取り、背中も丸くなっていましたがこの知らせを聞いて、彼は背をまっすぐにして喜びました。

その日がやってきて、わたしたちは興奮しながら妻、両親、リチャードとその妻とともにオレムからソルトレーク・シティーに車を走らせました。わたしたちはほかの親族もそこで落ち合うことになっていましたが、どれくらいの人数になるかは知りませんでした。最初はエリクソン姉妹に10から15人くらいが来ると思うと伝えましたが、実際は30人くらいいて、その多くは初めて会う人ばかりでした。同じ部屋に入りきるのはちょっと大変でした。通常は探求は個人がするので、職員や宣教師はこんなにたくさんの集団でやってくるのは初めてということでした。彼らは喜んで応対してくれました。

 

ジェシーが子供時代にどのようにしてモルモン書を手に入れたかについて話した後、わたしたちはその聖典に触れてその御霊を感じる機会がありました。わたしたちは特にリチャードが寄贈にまつわる逸話を話したとき、とても感動しました。それから彼はモルモン書を渡され、畏敬の思いでそれをただ抱えて彼にとって大きな意味を持つ表紙の裏に書かれた言葉を見つめていました。

 

Dwhiteについて

ドリス・ホワイトはオレゴン州出身で、英語学を専攻,編集学を副専攻としてブリガム・ヤング大学を卒業しました。イエス・キリストの福音について人々と語り合うのを喜びとしています。