モルモンはいろいろな方面の源から真理を発見することの喜びを見いだし、真理はモルモニズムの中にのみにあるとは信じていません。ある真理は多くの宗教の教えの中に見いだされます。私はモルモンですが、今日はモルモンの教えと共通する点について、儒教の教えにある幾つかのポイントに注目します。私自身がモルモンであるために、私が他の信仰について語ることは他の人に確認してもらう必要があります。同じことが、モルモンでない人が、モルモンについて学ぶことも同様にチェックしてもらうことが必要です。モルモンとは、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に時々使われるニックネームです。モルモン教会という名前は、正式名称を知らない人々によって誤って使われている名称です。

Patheosで儒教についての次のような記事を読みました。

この意味では、私たち自身の願望を無視するような道徳的に良い決断をすることには助けになりません。少なくとも、意味のあり、生産的で、幸せな生活へと本当に導く助けにはなりません。むしろ、私たちはそのような願いを他の人たちと共有することをどの程度行うべきかについて考察すべきで、その考察の結果が、自分たちの行為を他の人たちに向けるための手引きにするのです。このようにすることで、「内省」が本当に「他の人を思いやること」につながり、結果として自分自身と他の人の両方が繁栄するようになるのです。それは道徳に見ても、それ以外の面から見ても当てはまります。

この著者は清時代の戴震(たいしん、学者)の「孟子字義疏証」から次の引用について考察したのです。

「もし人が純粋に自省して、弱者、少数民族、知的に劣っているもの、臆病な者、病気の者、年寄り、若年者、孤児、孤独な人について真剣に考えるならば、これらの人々の感情は実に自分自身の感情と何ら変わりがないことに気づくでしょう。」

モルモニズムと儒教との共通する信条

モルモンも他の人に尊敬の気持で接するように教えています。上の文章で述べられている信条はイエス・キリストの最も大切な戒めの2番目のものに似ています。「」(マタイ22:39)

Bible-Book-of-Mormon-Mormonモルモンは聖書モルモン書の両方を聖典として使っていて、しばしば両方からの引用をします。聖書には、イエスによって語られた1つの話が記されています。ある人が盗賊に襲われ道ばたに倒れ、ひどく傷ついていたために助けを求めることさえできずにいました。祭司もレビ人もこの人のことを目にしましたが、気づいていない振りをして通り過ぎました。すると、サマリヤびとが通りかかりました。イエスが語りかけている人たちはサマリヤ人が好きではなく、イエスがサマリヤの者をその話の英雄として選ばれたことに驚きました。そのサマリヤ人は、立ち止まって、その傷ついた人を助け、介抱しました。さらに宿屋に連れて行き、宿泊代を払い、帰り道で立ち寄り、自分がその人のために払ったお金が十分であったかを確認すると約束しました。

主はサマリヤびとがその地域の者ではなくとも、けが人の側を通り過ぎて行って助けなかった人々よりよい隣人であり、主に従う人々にだれに対してでも親切であり、自分が知っていたり、尊敬している人だけに対してそうあるだけではだめだと励ましました。

この話で鍵になるのは、怪我をした人の立場に立って考えることです。もし自分が地に倒れているとしたら、誰かが、いえ、だれでもいいから来て助けてくれることを願い、祈ることでしょう。自分を最も幸せにするような状況を考え始めると、他の人は私たちから何をしてもらうのが必要なのかをもっと容易に理解するようになります。

モルモン書の中では、ベニヤミンという名前の王が教えました。「あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務めるのである」(モーサヤ2:17

一人のモルモンの指導者は語っています。

「しかし、本当の宗教は、弱点、欠点、誤りに主たる注意を向けることをせず、むしろ、相手を強める精神を育むものであり、自分の欠点を見過ごしにしてもらうことを望むように、相手の欠点を見過ごしてあげることを教えています。私たちの注意力のすべてを傾けて正しいことよりは誤りに目を向けるならば、私たちは主の麗しい福音の崇高な美と本質を見失ってしまいます。(ジェームズ・E・ファウスト、「法のより重要な要素:裁き、憐れみ、信仰」、総大会、1997年10月)

想像してみてください。もし私たちがみな、自分たちがそうして欲しいと思っているように他の人たちを見るならば、世界はどれほどよいところになっているでしょうか。これが、モルモニズムが注目していることです。というのは、宗教は単に神やイエスについての知識を増すより以上のものだからです。モルモンは学んだことを自分の生活や他の人との関係の中で実践する必要があると教えています。

モルモンの預言者トーマス・S・モンソン

mormon-Monson現在のモルモンの預言者であり大管長であるトーマス・S・モンソンはこの点については専門家です。彼の生涯は他の人に愛ある親切と尊敬の念で接することに献身してきました。2009年10月に行われたモルモンの総大会で、「今日私は誰かのために何をしたか?」という題で話しました。

「私が確信しているのは、教会の会員一人一人は、必要としている人々のために奉仕し、助けることを意図していることです。バプテスマの時に、私たちは「神の羊の群れに入って、神の民と呼ばれたいと願っており、重荷が軽くなるように、互いに重荷を負い合うことを望」(モーサヤ18:8)むということを聖約しました。他の人の必要に気づいて心を動かされたことがどれほどありましたか。どれほど頻繁に助ける人の側になろうと努めていますか。その代わりに、どれほど日々の忙しいことがあるために、「ああ、きっと誰かが助けるだろう」と考えて、助ける機会を他の人に任せているでしょうか。

私たちは忙しい生活に追われています。しかし、一歩退いて、自分たちがやっていることをじっくり観察すれば、「薄いものの中の濃いもの」に自分自身を没頭させることができるかもしれません。表現を代えれば、あまりにも頻繁に、大局的に見て大して重要でもないことをなんとかしようと大部分の時間を費やしていて、もっと大事なことをないがしろにしているのです。

モンソン大管長は、毎日時間を見つけて他の人のために何かするように勧めています。そのような親切が積もりに積もってすべての人にとってのよりよい世界を造ることになるのです。