この記事では、伝道活動に関するよくある誤解をご紹介しています。ここで取りあげる11の誤解は、わたしたちが自分たちに言い聞かせているか、または人から聞いたことによるものです。これらが誤解だと分かれば、伝道に対する恐れを克服することができますし、福音を分かち合うことで得られる祝福を受けることができます。また、一度わたしたちが本物の会員宣教師になれば、地獄を震え上がらせる軍勢を解放することができるのです。

1.「これはわたしではなく宣教師の仕事。」

これが一番よくある誤解です。「これはわたしの義務ではなく、宣教師の義務だ。」これは文化に強く根を張っており、「伝道は宣教師がするもの」という考えに起因します。しかし、宣教師はわたしたちが伝道活動するのを助けてくれる人たちというのが本当の教義です。わたしが宣教師だったある時、わたしは伝道主任と話をしていました。彼はわたしにこう聞きました。「ゴフ長老、あなたの目標はなんですか?」わたしは、「わたしたちは、会員たちの伝道の義務をお手伝いするためにここにいます。」と答えました。すると彼は、「それはいい主義ですね。」と言いましたが、わたしはこう答えました。「これは教義です。」彼はわたしに尋ねました。「どこにそんな教義が書かれているのですか?」わたしは彼にこう言いました。「2008年4月にべドナー長老がそう教えています。」この伝道主任は謙遜な心でべドナー長老の話を読み、次の断食証会でわたしとの会話について証をし、そして会員たちにこういいました。「これは主義ではありません、教義です。わたしは人生で今までの間ずっと間違って認識していました。みなさんもそうだと思います。わたしたちの義務を果たしましょう。」

彼が読んで改心するきっかけとなったのはこちらの文章です。

「わたしたちの祈りの中によく聞かれる事柄の一つは、宣教師がこの回復された福音のメッセージを受け取る準備のできた人々や家族のところに導かれるように、というリクエストです。しかし、最終的には、宣教師が教えるべき人々を見つけ出すのはわたしの責任であり、あなたの責任でもあるのです。宣教師は常勤の教え手です。そしてわたしは常勤の見つけ手なのです。一生の宣教師として、わたしもあなたも、専任宣教師がわたしたちの仕事をしてくれるようにと祈るべきではないのです。」(デビッド・A・べドナー長老 リアホナ2008年5月号)

福音を分かち合うのはすべての会員の義務です。

2.「伝道活動において宣教師を“助けている”。」

宣教師がレッスンの手助けを頼む時、どこかに送って欲しいと頼む時、わたしたちは「宣教師を助けている時間があるか?」と考えがちです。そして多くの場合その答えは、「いや、忙しい。」です。代わりにわたしたちはこう考えるべきです。「聖約を守る時間はあるか?救いの業を推し進める時間はあるか?」または「わたしには、家族に自分が主の弟子であることを示す時間があるか?」と。わたしたちが、聖約としての救いの業に携わる時、人生における他の試みにおいても聖霊の増し加えられる助けを感じることができます。

わたしは、結婚生活が改善され、子どもたちが福音を心から受け入れ、財政が立て直され、人々や家族がより大きな喜びと幸せを見出してきたのを目の当たりにしてきました。あなたは、これらのものがほしいと思いますか?それなら、救いの業に携わるべきです。

3.「福音を分かち合うためには完璧でなければならない。さもなければ偽善者だ。」

キリストの他に完璧な人などいません。福音を分かち合うためには完璧でなければならないという考えは、サタンからくるものです。サタンは、わたしたちがするかもしれない良い行いを恐れているので、それを食い止めようとするのです。健康になるまで病院に行くのを待とうという考えは、全く意味をなしません。福音を分かち合う鍵は、わたしたちが努力をしていることであり、ただこう言うことです。「わたしと一緒に、より良くなる努力をしよう。」わたしたちが努力をしていれば、聖霊がわたしたちの言葉を立証し、わたしたちは福音を分かち合う機会を見つけることができ、正直になれます。

わたしが知っている中で一番のワード宣教師は、ルースという名前の女性です。彼女は喫煙と飲酒をやめることに苦しんでいて、教会にほとんど来ませんでした。わたしたちは彼女を教え始め、彼女は戒めを守るよう努力し始めましたが、それでも喫煙と飲酒は続けていて、ほとんどまともに教会に来たことはありませんでした。それでも彼女は努力をしていました。彼女は一人で福音に生きるのは難しいと気が付きました。わたしは冗談半分に、それなら友達にも一緒にやってもらったら、と勧めました。そして彼女はそうしたのです。彼女はすべての友達を招き、彼女と一緒に取り組むように勧めたのです。あまり活発に教会にきていなかったこの女性は15人の友人を宣教師に紹介し、そのうち4人がバプテスマを受けました。

 「神の完全な御子を除けば、神は不完全な人間を通してその業を行ってこられました。それは神にとって大変な忍耐を要することでしょうが、それでも神はそのようにしておられ ます。わたしたちもそうするべきです。」(ジェフリー・R・ホランド長老)

4.「福音についてすべてを知らなければならない。」

聖典を勉強する必要があるのはもちろんですが、福音を分かち合うためにすべてを知っている必要はありません。誰かが聖典について聞くとき、彼らが求めているのはあなたが何を信じるか、そしてなぜそれを信じるかという個人的な証です。あなたが知るべきなのは、「なぜ」それを信じているかという理由なのです。「なに」を信じるかという話になれば、福音の教義というのは途方もなく多く、その表面だけを学ぶのにさえ一生かかるかもしれません。 質問されたことに対して「わからない、調べさせて。宣教師と話してみてからまた連絡する。」ということは、全く悪いことではありません。こうすることで彼らに、宣教師は「心の疑問」に答える助けができる、と示すことができます。多くの信仰、宗教で、疑問を持つことはあまり推奨されません。しかし、末日聖徒イエス・キリスト教会では、疑問を持つことが推奨されています。福音はとても包括的なので、その大きさゆえにあなたがまだ福音について勉強している最中であるということは、なにも間違ったことではありません。皆そうなのです!どんどん学び、学んだことを分かち合ってください。

「また、あなたがたは何を言おうかと、前もって思い煩ってはならない。ただ絶えず命の言葉をあなたがたの心の中に大切に蓄えるようにしなさい。そうすれば、それぞれの者に必要な部分が、必要なそのときに授けられるであろう。」(教義と聖約84章85節)

5.「何も話す必要はない、わたしの模範で十分だから。」

伝道中、ある週のディストリクトミーティングの前に、わたしたちは扶助協会の部屋にいました。黒板には、有名な引用句が書いてありました。「いつどこでも福音を述べ伝えなさい、必要であれば、言葉を使って。」それはその前の週の扶助協会でのレッスンで使われたものでした。わたしは頭を振って、書き直しました。いつどこでも福音を述べ伝えなさい、言葉を使うのは不可欠です。」特に深く考えてしたわけではありませんでしたが、そのときそのワードでは会員からの紹介があまり多くなく、わたしのしたことは小さな不満の発散だったのです。

わたしは自分が書き換えた黒板の言葉を消すのを忘れていました。日曜日が来て、ワード会議が始まろうとする10分前、扶助協会の会長が黒板の言葉が変えられていることに気が付き、こういいました。「誰かがわたしの書いた引用句を変えてるわ。」わたしのトレーナーはわたしを見ました。ビショップがその言葉を声に出して読む間、わたしはドキドキしていました。そして、「福音を述べ伝えるには言葉が必要か」というディベートが始まりました。その会議のはじめ20分の間、話題はそのことでした。彼らは、行いで示すのもいいが、行いと言葉そして招待が一緒に用いられる必要があると話しました。それは小さな奇跡でした。この教義はこの聖句で決定づけられます。

「あなたがたが口を開いて、わたしの望むままに与られる御霊と力によって、わたしの福音、すなわち王国にかかわる事柄を宣言し、聖文からその奥義を説明かすことが、必要かつ望まれる時がやって来た。」(教義と聖約71章1節)

このワードでの伝道は変わり、わたしたちは会員からの紹介と奇跡を見始めました。バプテスマや神殿参入が続きました。わたしたちは福音に生きる必要がありますが、それを分かち合うためには言葉を使う必要があるのです。