この記事の前半その1は、こちらから読むことができます。
アメリカからチェコのモルモン教伝道部を管理する
いったん伝道部が閉鎖されると、トロント会長は家からできることを行いました。今回も彼は伝道部会長の召しから解任されませんでした。彼は、9回ビザを申請しましたが、9回とも拒否されました。チェコの政府からスパイとして思われていたため、観光者としての入国も拒否されました。可能な限り、会長は勧告や人道的援助を教会員に送りました。約14年間、チェコスロバキアのモルモン教の会員は耐え難い状況の下で、彼らの信仰を持ち続けました。彼らは、アメリカの教会指導者とほどんど連絡をとれませんでした。彼らは、国家承認の要請を政府から拒否されたため、公に礼拝をすることを許されていませんでした。そのため、彼らの家庭で静かに密かに、信仰が守られてきました。
1960年代にようやく、スイス伝道部会長は、チェコスロバキアで初期の宣教師として奉仕したことがある人を伴って、国に入国することを許可されました。彼は、教会員を探し出し、個人の家で目立たないように教会の集会を行いました。
そしてチェコ伝道部の会員数人が、めったにないことである、アメリカを訪問した際に、希望を残してくれました。彼らは、チェコの政府はアメリカドル獲得に必死になっていることを知りました。モルモン教の預言者の励ましにより、彼らは再びビザを申請しました。そのときでもまだ、希望を実際に持てずにいましたが、驚いたことに、トロント家族は、15日間のビザが与えられました。彼らはスパイと見なされていたので、これは危険な旅行になることを理解していました。そして、逮捕または殺されるかもしれない危険性に備えました。しかしながら、預言者が感じたように、教会員は忘れられているのではないことを知る必要があると、彼らも強く感じました。人々が国外に逃げられらないように国境に張られた有刺鉄線の塀を見て、彼らの心は痛みましたが、入国の最終決断を下す国境の当局者と面会したときには、ただの観光客であるかのように振舞うよう徹しました。彼らは言語を話せることを明かしませんでした。
ウァラスの写真は、政府によって指名手配を受けているスパイとして、国中の郵便局やその他の建物に貼られていました。彼は、好ましくない人物の要注意人物リストに載っていました。どういうわけか、だれもこのリストを確認したり、彼の名前を認識する人がいませんでした。教会は、チェコの政府が、大金を国内で使いそうな観光客には、入国を許可する可能性が高いのを知っていたので、多額のお金を用意してくれていました。彼らは、渡航に必要以上のお金を与えられていましたが、それは、教会員に人道援助を提供するために使われる目的がありました。トロント家族は、教会関連の文献や教会員のリストなど、彼らが誰であるかわかるようなものは一切持っていませんでした。
彼らは、尾行されているのを知っていました。そしてトロント姉妹は、尾行されるのは予想していたことでしたが、それに慣れることはできませんでした。彼らは注意深く、最初の教会員を訪問する前に、ただの普通の観光客であることを証明しました。教会員はトロント家族が来ることを知っていました。ビザが認可されたときに、トロント家族にチェコ政府がアメリカドルを必要としていることを伝えた、チェコからの観光客はまだアメリカにいました。彼女は、暗記したメッセージを持ち帰り、チェコスロバキアの教会にそれを伝えました。トロント家族は、5人以上の集会は禁じられているにもかかわらず、10人の会員が集まっているのを見つけました。
会員たちは、聖餐会(正餐)と教会の教えを受けることにとても熱心でした。禁止にもかかわらず、入念な計画をたて聖餐と教えを受けられるよう、苦労して実施していました。毎週日曜日に、神権者たちは二人組みで、一日中会員の各家庭を訪問しました。たびたび彼らは、気づかれないように、パートナーを交換し、ルートを変えました。彼らが各家庭に到着すると、主婦は最高の陶器を用意し、聖餐が執り行われました。次に男性が20分ほど教えました。時間は注意深く計画され、社交目的の訪問を装いました。教会の資料はありませんでしたので、彼らは心から教えました。
ウァラス・トロント:最後の訪問と逮捕
1965年に、ウァラス・トロントは今度は正式なモルモン教の代表として、彼が愛した国へ最後の訪問をしました。預言者は、世界中から人々を魅了する大きなフェスティバルの間に、訪問するよう承認しました。トロント会長は御霊の促しで、妻を家に残すべきだと感じたと言いました。
会長は、フェスティバルにおもむき、目立たないようにしていました。しかし、カメラマンが彼がアメリカ人であることに気がつき、彼にカメラを向け、行事について印象を語るようたずねました。いつの日か、国民に証をするであろうと、かつて預言的メッセージの中で語られたトロント会長は、立ち上がり、完全なチェコスロバキア語で、彼の何年も前からのこの国との長年の関わりについて説明をし、この国とフェスティバルを愛していることを語りました。もちろん、これにより、教会員に会長がチェコに戻っていることが知れわたり、会員たちは会長に会いに訪れました。会長が官庁へ行くと、職員は彼が誰であるか認識していました。内政省の宗務大臣に会うための移動中に、会長は逮捕されました。スパイであり、国に宣教師を連れ込み、不法に教会を再設立しようとしていると、責任を問われました。会長は、合法的に設立しようとし、官僚に会う予定であったことを指摘しました。また以前にもチェコを訪問をした際に、教会員たちに、彼らは教会を再設立することはできないことを伝えたと説明しました。するとチェコ政府は、トロント家族の前回の訪問も把握していると言いました。
トロント会長が面会を望んでいたまさにその人が、招き入れられました。彼は、テーブルを握りこぶしで強くたたき、この国は宗教の自由を許さないと説明しました。彼は、伝道部会長を怖がらせようとしましたが、トロント会長はおじけづくような人ではありませんでした。会長は、彼らの国での教会の歴史について話し、この国のかつての一番の親友を追放したと言いました。ただ一つ、会長が望むことは、この国の市民の指示の元で、合法的に教会員が集会に出席できるようになることだと説明しました。政府は、教会員たちが誰であるかすでに把握していると認めました。しかし、マーサ・トロントは彼女の自伝に、「チェコ政府は、教会員が誰であるか知っていても、これらの男性が保持しているのは神権の力であることを、政府は知りませんでした」と書いています。伝道部会長は、教会員たちのために、状況を改善するため再度試みると言いました。すると政府関係者は、会長が行くつもりもなく、ビザも所有していない国、ドイツへ歩いて渡らせるため、国境に彼を放置しました。会長は、真夜中に国境を歩いて渡ろうとする人がいることに驚いている守衛に、流暢なドイツ語で話しをし、彼の宗教について少し教えました。守衛は、会長に数時間眠れるよう、ベンチを用意してくれました。次の朝、会長はミュンヘンの伝道本部までたどり着くことができましたが、到着したときには、ホームレスの難民のような姿をしていました。
ウァラス・トロント会長の死とチェコスロバキアの今日
1967年、ウァラス・トロント会長は癌のために亡くなりました。アメリカに住んでいましたが、会長は伝道部会長としての責任から解任されていませんでした。彼の妻は、伝道部がスイス伝道部に結合されるまで、会長の責任を続けさせてほしいと頼みました。教会の歴史の中で、彼女が唯一の女性伝道部会長であると、彼女は冗談を言いましたが、それはほんの短い期間であり、実のところ公式の責任では決してありませんでした。
その後、教会は年に一度、訪問のためにチェコスロバキアに人を送ることができるようになり、1972年には、ついに教会員は、公然と集会を開くことができるようになりました。教会は、次第に教会員同士が交流を持てるようになり、モルモン書はチェコ語に再版され、国に持ち込めるようになりました。伝道の業は向上し、バプテスマを受けた若い女性、オルガ・コヴァロヴァ姉妹は、会員宣教師として、たった8年で49人を教会へと導きました。
1990年に、政府は宗教的自由を再制定しました。そしてその一ヶ月後、教会は正式に承認されました。同年、伝道部は再開し、モルモンタバナクル合唱団は、全国テレビ放送で上演するため、国に招待されました。
情報源:
カーリル・メール、チェコの聖徒:さらに明るい日、エンサイン、1994年8月号(英語)
ウァラス・トロントについて(英語)
第四十章:第二次世界大戦中の聖徒、時満ちる時代の教会歴史(2003年)522-534(英語)
鉄のカーテンの背後にある桜の木:マーサ・トロント・アンダーソン自伝(英語)
この記事はテリー・リン・ビットナーによって書かれ、ldsblogs.comに投稿されたものです。スミス寿子さんによって翻訳されました。
ウァラス・トロント長老について知る機会があり、感謝します。
御業のためには、諦めずに最善を尽くそうとする姿に感動しました。
コメントありがとうございます。トロント長老の諦めない姿には、励ましをもらいますよね。私も彼の努力と信仰の強さに感動しました!