頭を上げて喜びましょう!わたしたちが恐れずに幸せでいることを、イエス・キリストは奨励しています。物事について、恐れたり心配し過ぎたりする必要はないのです。ピリピ4:6-7には、こう書かれています。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

聖句から学んだこと

脚注が、この聖句に更なる洞察を与えてくれます。ジョセフ・スミス訳は、英語の聖書のcareful(気を付ける)と言う言葉をafflicted(思い悩む)に置き換えています。「何事も思い悩むな」と。もう一つの脚注は、「どんなことについても過度に心配するな」というギリシャ語の訳を紹介して、さらなる洞察を与えています。これは、わたしが初めて読んだ時に霊感を与えてくれました。それはわたしの祈りと心配事に対する答えでした。わたしはよく心配し過ぎる傾向があるので、それはわたしにとって必要なものでした。この聖句は、人生には心配したり不安になったりする必要が全くない物事がたくさんあると、気づかせてくれました。イエス・キリストはわたしたちに、「Peace, be still (平安であるように)」、そして「安らかにしていて、わたしが神であることを知りなさい」と言われました。

好きな聖典の話

わたしを助けてくれた、聖書からの力強い他の例は、嵐の時にガラリヤの海で船に乗っていたキリストの十二使徒についての話です。キリストは舟の後部で眠っていました。怖くなった使徒たちがやって来て、主を起こして言いました。「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか。」(マルコ4:38)キリストは起きあがって、風をしかり、「静まれ、黙れ。」と言われ、主の十二使徒へは「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコ4:39)と言われました。

また別の時に、使徒ペテロは荒れる海の上を歩く救い主を見ました。ペテロは救い主のもとに行きたいと望みました。救い主は来るように言いました。主を信頼して、ペテロは水の上に踏み出し、水の上を主に向かって歩き始めました。歩き始めると、彼は救い主から注意をそらし、「風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助け下さい』と言いました。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』。」(マタイ14:30-31)ここで鍵となるのは、ペテロがキリストから注意をそらし、恐れ始めたということです。わたしは、目に見える風と波に対する恐れと不安に集中し過ぎる時に、さらに不安定になり、沈むように感じ始めます。イエス・キリストに集中の中心を戻して信頼する時、キリストの助けをより受けることができます。だから、嵐を恐れる必要はありません。主は、わたし個人の内なる嵐を静めて下さることを知っています。

キリストにあって人生の嵐を静め、恐怖を克服する

時々、わたしはペテロと同じように感じます。イエス・キリストに集中して希望を持つ時、物事はより解決しやすくなります。しかし、自分自身の中や周りにある恐れ、または心配事、将来、過去などに注意を払い過ぎると、恐怖や不安が増します。贖いの恵みと主が「過去導いて下さったように未来へと導く力」もあることを覚えていることは、内なる平安の為にとても重要です。

主の御言葉や力、平安、強さ、わたしの幸せを望んでおられるという事に思いを落ち着かせるとき、嵐は静まります。わたしの注意と信頼をキリストに置いているからです。キリストが、わたしとあなたを支援するためにそばにおられることを知っています。「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:13)という聖句は真実です。大好きな賛美歌のひとつが、主がいかなる嵐も沈めてくださることを歌っています。

「荒海や悪魔の 怒りはいかにあるとも この船は沈め得ず 天地の主がいますを

海は『静まれ』との仰せを守れ 海は『静まれ』との仰せ聞け」(末日聖徒賛美歌59番「主よ、嵐すさび」)