モルモン教のカウボーイ、コットン・ロッサー全米でも何十回とロデオで優勝を果たしているモルモン教でカウボーイの王者、ホートン・A・コットン・ロッサーをご存知でしょうか?ロッサーは、数年前にモルモン教に改宗し、生活の中に福音があって幸せを感じているとのことです。彼と妻カリンは、モルモン教の神殿で神との神聖な約束を交わし、永遠の家族として結び固められました。そんな彼の人生も、やはり山あり谷あり。彼の成功と幸せの裏には諦めない信念と努力が隠れていたのです。これは、彼が今日のカウボーイの王者になるまでの道のりを綴ったものです。

少年コットン、カウボーイへのあこがれ

コットン・ロッサーは1928年にカリフォルニア州のロング・ビーチで生まれました。少年の頃、彼は「コットン」と呼ばれました。それは彼の金髪がコットン(綿花)の色に似ていたからです。彼の年少のあこがれはカウボーイになることでした。十代になってあらゆるロデオの大会に出始めました。サン・ルイス・オビスポにあるカリフォルニア州立工科大学(カル・ポリ)で学びながら、彼はロデオチームのキャプテンを務めました。1950年にはニューヨークのマディソン・スクウエアー・ガーデンの競技に出場しました。「彼はプロとして、留め金、サドル、トロフィーを獲得しました。多くの優勝経験の中でもっとも顕著なものは、サン・フランシスコで行われた1951年の全米グラ・ンドロデオ大会で総合競技のタイトルを得たことです。」

コットンはその並外れたロデオの演出で長い間名声を博していました。その中には、ほんの数例あげるだけでも、全米ロデオの決勝、ヒューストン家畜ショー、サン・フランシスコでの全米グランド・ロデオ大会での華麗な開会行事があげられます。コットンによると、「ショーは自分の方から演出するものであって、ショーがあるから何かをさせられるという姿勢ではだめです。もし観衆を喜ばせなければ、彼らはどこか別のところに行ってしまうでしょう。」

カウボーイの夢が実現する

コットン・ロッサーがカル・ポリで教育を受けたのには2つの理由がありました。動物科学を学び、ロデオのチームの一員として競技に出るためでした。1949年に第1回目の学生ロデオで総合種目の準優勝を達成しました。次の年にその総合種目で優勝を果たし、全米サドル・ブロンコのロデオでも優勝しました。彼はロデオチームのキャプテンを務め、パイロットのライセンスを取得し、チームを全国のロデオの大会に飛行機で連れて行きました。カル・ポリーでの在籍中、彼の率いるチームは41の全国大会で優勝しました。

彼は1952年に卒業し、ロデオの競技で報いの多いプロへの道を進むように思われていました。1954年、彼はフライング・U・ロデオ社を買収し、ロデオのショーを始め、ロデオ業界の歴史に残る業績をなし遂げました。会社は毎年70を越えるショーを創り出しました。その会社は馬の育種プログラムでも成功しました。

1956年には残念ながら、ロッサーのロデオ業界の競争で勝利するという夢は挫折してしまいました。フェンスの支柱の穴を掘るための木工きりに絡まるという事故に合い、両足を骨折してしまいました。それでロデオの競争に出場することは不可能になってしまいますが、ロデオに関する熱情は薄れませんでした。

永遠のカウボーイ

モルモン教で永遠のカウボーイ、コットン・ロッサー

コットン・ロッサー

コットン・ロッサーはその事故によって自分の進む道が一部閉ざされたからといって、自分の最愛の物、つまりロデオに積極的に関与するという生き方を断念することはありませんでした。その事件のあった年に、友だちのディック・パスコウの助けを得て、彼自身が立ち上げた最初のロデオの会社であるコットン・カウボーイ・コラールを立ち上げます。1960年にマリリン・モンローとクラーク・ゲイブル出演の最後の映画「荒馬と女」の撮影に彼の会社の牧場が使われました。1966年にロッサーは、ゴールデン・ステイト・ロデオ社の設立に関与しました。この会社はサンディエゴからバンクーバーに至る西海岸一帯のロデオ用の馬を供給しました。後にロッサーはこの会社のオーナーとなり、1970年代の半ばに名前をフライング・U・ロデオ社と改めました。

今日フライング・U・ロデオ社は、カリフォルニア州のメアリースヴィルに本部があります。奥さんのカリンの助けを受けて、社長兼最高経営責任者としての務めを果たしています。彼は献身的にこの会社の家畜の飼育と、ロデオの娯楽面を色彩豊かで新鮮なものにしようと努力を続けています。彼の開会行事の演出は、愛国精神を表す国旗の掲揚、花火、最新の機械技術を使った舞台装置などで知られています。彼は高校生のロデオをカリフォルニアに導入するために顕著な貢献をし、長い間カル・ポリーロデオの推進やカル・ポリーの卒業生の同窓会を支援しています。

コットンはジーン・オートリーを彼のショーマンシップにもっとも影響を与えた人物として認めています。30年代から50年代を通じて、家畜飼育業者は多くのショーマンのためのクラス、シルヴァー・サドル、馬合わせ、市などに参加しました。カウボーイはだれでもニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンやボストンなどの場所で、最盛期には華々しい入場行列に乗馬して登場したものでした。コットンはいつもそのような壮観と特色をロデオに生かそうと努力し続けてきました。

1995年にコットンは、コロラド州のコロラド・スプリングにあるロデオ推進のための栄誉殿堂に名前を加えられました。2007年には、フライング・U・ロデオ社は「百万ドルの思い出:ロッサーの職歴を記念しての50年」という題名の本を出版しました。そして彼は2009年に、オクラホマ州オクラホマ市の殿堂ナショナル・カウボーイ&ウェスタン・ヘリテージ・ミュージアムロデオ館に就任しました。

ある会社の共同創設者は「ロッサーはロデオのショーマンシップを勧め、以前に行われていなかったことをすることを恐れませんでした。彼は西洋とその生活ぶりを忘れたことがありませんでした」と語りました。

カウボーイのレガシー

カウボーイについて語るモルモン教のロッサー

ロッサーは、現在、プロのロデオにおいてもっとも成功している競走馬の育成牧場を経営しています。その会社はフライング・U・ロデオ社という名前で、世界で一番古く、合衆国の競走馬を供給する大手です。ロッサー氏の奥さんの親戚であるジョン・バスコンによると、この会社は、アイダホ州セント・アンソニー市のソレンソン先生(医師)のおかげで創業に至ったとのことです。

ロッサーと妻カリンには3人の息子と2人の娘、そして6人の孫がいます。フライングUに加えて、ロッサーと奥さんは、洋服店を所有し、運営しています。2人とも、パイロットのライセンスを持っています。彼はカウボーイ・ロデオ協会の取締役理事も務めています。

ロッサーの子孫はこの家族のビジネスに携わっています。4人の子供は、カル・ポリ卒業生として、父親の足跡をたどっています。また、彼の2人の孫もカル・ポリ卒業生です。

コットン・ロッサーの熱意は高く評価され、カリフォルニア州立大学等から認められ、ロッサーは理学博士の名誉学位を受け取るにいたりました。ロッサー家族は、2004年にロデオ生産から50年を迎えました。ですので、2014年にロッサーは60年記念を祝ったところです。

この記事はキース・L・ブラウンによって書かれ、aboutmormons.orgに投稿されたものです。