戦後間もない1940年代後半、名古屋に住んでいた29歳の柳田聡子さんは、医療の限界がある中で腫瘍の手術を受ける必要があり、極めて困難な状況に直面していました。彼女は流産を経験した体を癒やす間もなく、医療技術が不足する日本で命の岐路に立たされたのです。

そんな時、聡子さんが最も心配していたのは、まだ幼い3歳と5歳の二人の息子たちの未来でした。深い信仰を持っていたわけではありませんでしたが、聡子さんは自分たちを見守ってくれる特別な存在と力を、なんとなく感じていたのです。

幼少期にはプロテスタント系学校で学び、神道や仏教にも触れました。父親である高木冨五郎さんが、1915年に末日聖徒イエス・キリスト教会に入会した縁から、子どもの頃にこの教会の集会には一度だけ行ったことがありました。父親は信仰について多くを語らず、1924年に日本伝道部が閉鎖されてからは、ほかの会員と接することも極めて少なくなりました。

しかし、手術が無事成功し体力を取り戻した聡子さんは、実家で父親と宗教について話し合うなかで「教会へ行ってみようかしら」と思い立ちました。父親の助言もあり、鳴海で奉仕していた宣教師テッド・プライス長老を通じて、ゆっくりと教会への扉が開かれていきました。プライス長老から末日聖徒の教えを聞くことで、聡子さんの心には希望が芽生えました。

その後、聡子さんは毎週日曜日の礼拝への出席、日曜学校、聖餐会、さらには相互発達協会(MIA)の集会にも参加するようになり、精神面・社会的にも自分が回復していくのを感じたのです。しかし、夫である藤吉さんは、外出が増えた聡子さんを快く思わず、家庭か信仰か、どちらかを選ぶことを迫られることもありました。

そんな中でも、教会での体験による変化を示すために、息子さんの誕生日会にはプライス長老やネルソン長老を招待しました。そして長老たちが家族としての信仰のあり方を説きました。

1949年8月、聡子さんはついにバプテスマによって正式に教会の一員となり、父親も深く感動しました。その後まもなく、夫の藤吉さんも東京に出張中に心を動かされ、バプテスマを受け、夫妻そろって教会の会員となったのです。この時の聡子さんの喜びはとても大きなものでした。

柳田夫妻が参加した米軍基地内での集会は英語での礼拝でしたが、日本語での集会開催を望み、伝道部会長バイナル・マース宛に手紙を送りました。

その願いが実を結び、1950年1月には名古屋で最初の日本語の日曜学校が行われました。地元紙に折込チラシを入れたことで、約150名の参加者が集まりましたが、

日本経済が安定するにつれ、徐々に参加者が減っていくという課題にも直面しました。その一方で、収入の限られる中での什分の一の献金について非常に悩みました。柳田夫妻には自分たちの家を持つという夢もありました。

ほかの教会員や宣教師たちに励まされました。また姉妹宣教師の、什分の一を納めることで家を持つ夢を叶える助けになる、という証も心に響きました。そして献金を始め、やがて信仰が生活の中心となってていくプロセスが、聡子さんと藤吉さんの中に生まれていきました。

画像:BYU Scholar Archive 前列左から3人目が扶助協会会長に召された柳田聡子姉妹 

さらに、姉妹宣教師のアパートで非公式に行われていた扶助協会で、姉妹たちは福音だけではなく節約料理や効率的な掃除を学んだり、バザーを開催して資金調達をしました。その後、扶助協会が正式に組織され、聡子さんはその会長に召されました。

このように教会に活発に通いながら、ついに、自分たちの家のために土地を購入しました。しかし、消防隊が進入できないという指摘で、建設がいったん停止するという思いがけない障害に直面しました。

そこで、宣教師6名とともに2日間の断食と祈りによる支援を受け、再審査に来た建築の審査官が「隣家の塀を損壊すれば緊急時には進入できる」という解決策を示したことで、念願の家を建てることが可能となりました。

その審査官は「お2人はよほど善いことをされたのでしょう」と柳田夫婦に伝えました。普段はそのような案を提示することはないような人だったからです。

画像:末日聖徒イエス・キリスト教会

自分たちの家を持つことが実現し、かつて姉妹宣教師が証した、什分の一の戒めに従った祝福も実感しました。そして、聡子さんは祈りと献身が祝福をもたらすと確信したのです。

聡子さんと藤吉さんの歩みは、戦後の日本で末日聖徒イエス・キリスト教会がどのように再興の一歩を踏み出したかを象徴する物語です。1人の女性が直面した困難を、信仰と組織の支えによって乗り越え、教会の成長を率いていったその姿こそ、教会史に刻まれる一章として、多くの教会員の励みとなっています。

参考:「聖徒たち第3巻