カトリック教徒の祖父と、バプテスト派の祖母、そしてルター派の母のもとに生まれたダスティー・スミスは、彼らの影響から神様への信仰を育みました。しかし、異なる教えを持つ三つの教会へ通いながら成長した彼は、神様は一体どんな御方なのか困惑していました。スミスはそれでも自身の信仰を培い、祈り、聖典を勉強し、教会へ通いました。1980年のある日、彼のもとに一本の電話がかかってきました。それは、彼と仲の良い友人からで、とてもスミスのよく知っている優しい13歳の少女が学校から帰宅したとき、ガラス製のドアがしまっていることに気づかずに走り込んでしまい、割れたガラスの一部が首に刺さり命を落としたことを知らせる電話でした。「どれだけ神様に怒りを抱いたか言葉にできません。」とスミスは言います。「神様を信じるのはやめませんでしたが、わたしは神様に腹を立てていました。あれから37年経った今でも、この事故のことを思い出すと涙が浮かびます。あのかわいらしい少女のことを鮮明に覚えているのです。」
『美しくて賢い少女がまだまだこれからという時に』亡くなったわけがスミスには理解できませんでした。それを機に、スミスは祈ることをやめました。聖典を読むことも、教会へ行くこともやめました。しかし、信じることはやめませんでした。
福音との出会い
それから三年後、スミスは神様への希望をよみがえらせるものに出会いました。両親の家を訪れていたスミスは、暇つぶしになるものを探していました。そんなとき、彼の部屋の本棚から、見たことのない本が落ちてきました。それがモルモン書でした。それはスミスの母親がソルトレクに旅行へ行った時にもらったもので、手つかずのままスミスの部屋に置かれていたものだと後にわかりました。
「たまたま開いたページは第三ニーファイで、イエス・キリストがアメリカ大陸を訪れる様子について書いてありました。それを読んだわたしは『わー、イエス様がアメリカ大陸に来たということ?つじつまが合うな。』と思いました」とスミスは言います。
スミスはそのことにとても感銘を受け、すぐに電話帳で末日聖徒イエス・キリスト教会の連絡先を探しました。「ワードとかステークとか書いてありました。よく意味が分かりませんでしたが、お昼時だったのでステークのほうに電話をかけてみました」とスミスは笑います。忘れ物を取りに偶然オフィスに立ち寄ったステーク会長がスミスからの電話に対応し、彼を宣教師に紹介しました。それからすぐに、福音の教えはスミスに共鳴し、彼は幼少期から抱いていた質問の答えを見いだしました。突然、神様がどんな御方か、救いの計画、この世での目的などすべてについての理解を得たのです。
バプテスマを受けてから信仰を失うまで
1983年4月、スミスは宣教師によってバプテスマを受けましたが、彼の人生における新たな生活には犠牲が伴いました。
「教会員になるためにたくさんの犠牲を払いました。それまで2年間付き合っていた彼女にもふられました」とスミスは言います。「家族にも勘当されました。彼らとの関係は悪くなりました」しかしスミスは福音への強い証があったので、彼の決断は正しいものであったと知っていました。既に二十代半ばだったスミスは、伝道に出る予定も、資金もなく、かわりに婚約者と弁護士になるという目標がありました。しかし1984年のある日、聖餐会に出席していたスミスは「『あなたは伝道に行く必要があります』という気持ちに襲われた」と言います。「だから仕事を辞め、婚約者と別れ、伝道に出ました。」
しかしスミスは伝道が始まる前から挫折しそうになりました。「MTCにいたときに、家族から反対を受けました。婚約者も反対でした。とても孤独でした。公衆電話から教会本部へ電話をしました。電話応答の女性に『だれもわたしに宣教師になって欲しくないのなら、いっそのこと家へ帰ろうと思います。わたしがMTCにいることなど皆、無関心です』と言いました。彼女は『少々お待ちください』と言い、数分後他の人が電話にでました。低い声の持ち主はこう言いました。『長老、わたしはL・トム・ペリーという者です。もし皆、無関心ということなら、わたしがあなたのことを気にかけます。わたしと文通をしましょう』」そして伝道をした2年間にわたってペリー長老から送られた手紙がスミスの支えとなりました。
ホンデュラスで専任宣教師として奉仕をしているあいだに、スミスの婚約者は他の男性と結婚し、スミスの両親は離婚しました。
スミスはそれらの試練にも負けず、伝道を全うしました。帰還すると、物事は良い方向へ向かい始めました。スミスは女性と交際するようになり、結婚しました。ロースクール(法科大学院)へ通い始め、学費を払うために仕事も始めました。
そしてその頃スミスはニューヨーク州パルマイラで行われたクモラの丘のページェント(野外劇のようなイベント)に出席しました。「教会を嫌い、講義をする人がたくさんいました」とスミスは振り返ります。「そしてわたしは彼らとディベートをしました。法科大学院三年目のことでした。彼らがどれだけ間違っているかを思い知らせるために、史上最も賢いモルモン教徒になりたいと感じました。」
次第にスミスは反モルモン教の文学や幻滅の罠にはまっていきました。彼は、自身の家族、彼女、人生の2年間を犠牲にしてまで加わった教会に怒りを抱き始めました。スミスは心痛にその日を振り返ります。1989年11月11日にスミスは教会への証を失いました。
しかし、スミスの教会との関係は一切絶たれたわけではありませんでした。スミスはディベートの場でマイクと名乗るモルモン教徒に出会いました。お互いに激しく言い争いをしていたにも関わらず、二人は友人になりました。マイクはスミスのことを見捨てませんでした。「1999年から、マイクは神殿での祈りのリストにわたしの名前を書いていたのです」とスミスは思い返します。
2009年に、スミスは豚インフルエンザにかかり非常に苦しんでいました。その時にスミスの息子はあるふたりの訪問者をスミスの部屋に招き入れました。その訪問者とは、たまたま玄関先に現れた教会の宣教師でした。スミスは彼らに招かれざる客だということを伝えましたが、宣教師たちはスミスに神権の祝福を施すことを提案しました。「宣教師は祝福をしてくれました。そしてわたしはその場で回復したのです」とスミスは言います。「わたしはベッドから起き上がり、宣教師たちを下の階の玄関まで行って見送りました。」祝福の後、スミスはまた教会に集う努力をし、ステーク会長との面接までしました。しかし再びバプテスマを受けるために教会に事情を話し許可を得る必要があるとわかると、諦めてしまいました。
「それでも教会へ惹かれる思いがなくなることはありませんでした」とスミスは言います。
再び証を取り戻すまで
その数年間、スミスと彼の最初の妻は離婚をしました。そして2014年までにはスミスはカトリック教徒として、再婚し幸せな生活を送っていました。しかし、彼の生活にまた変化が起ころうとしていました。妻のスーザンに仕事の昇格でメリーランド州のボルティモア市へ行くオファーがきていたのです。テキサス州で弁護士として活躍するスミスにとって、妻が遠くへ異動してしまうことは嬉しいことではありませんでした。スミスは良い友人のマイクに電話をして、スミス夫妻のために祈ってくれるように、またスーザンの名前を神殿の祈りのリストに入れてくれるようにお願いしました。そして、スミスは冗談で「けどね、マイク、もし神様がわたしにまたモルモン教徒になってほしいと望んでいらっしゃるなら、彼はスーザンをソルトレイクに異動させると思うよ」と言いました。
スミスはそのときのことをこう語ります。「ソルトレイクには空きがなかったので、何も考えずにそんな冗談を言うことができました。でもその翌日にソルトレイクの社員が退職し、妻の書類はボルティモアからソルトレイクに送られ、妻はほぼ無条件でその職に昇格することが決まりました。わたしはマイクに電話をし、『信じられないことが起きたよ。スーザンはソルトレイクに行くことになった!』と言うとマイクは『君は自分が神様に言ったこと覚えてるよね』と言いました。」スミスがマイクにあれはただの冗談だったと説明すると、マイクは「神様にとっては冗談じゃないよ」と言ったそうです。
スミスは2009年に面接をしたステーク会長ともう一度会い、もう一度バプテスマを受けたいと伝えました。「その時と2009年の違いは、わたしにはまた証があったということです。その証のおかげで、わたしは必要なことはなんでもする覚悟ができていました」とスミスは言います。「教会の指導者に自分の罪を打ち明けなければいけないけれど、指導者たちはみんな自分を支えるためにいるのだと知るのは安心感を与えました。」
指導者たちとの集会から一週間もたたないうちに、スミスはもう一度教会の会員としてバプテスマを受けました。
ウークトドルフ管長との出会い
2016年にスミスはディーター・F・ウークトドルフ管長から電話で実際に会いたいと言われました。そしてその面会中にウークトドルフ管長はスミスに、2016年10月の総大会の神権会で彼の話をしてもいいかと聞きました。
この素晴らしい話を分かち合ってからすぐに、ウークトドルフ管長はスミス夫妻ふたり一緒に話ができるか尋ねました。使徒ならではの指示を期待していたスミスは、教会員ではない妻のスーザンと30分ほど小話をするウークトドルフ管長に驚きました。「ウークトドルフ管長は妻に『あなたが知っていることに、教会の教えからなにか得られるものがあるか見てみましょう。そして旦那さんはあなたと結び固められたいと望んでいると思います。神殿にはふたりの為にいつでも場所がありますよ』と言いました」とスミスは思い起こします。「その次の夜、妻は『宣教師のレッスンを受ける準備ができたわ』と言いました。」そして2017年9月23日に、スーザンは教会の会員としてバプテスマを受け、ウークトドルフ管長からは個人的にお祝いの手紙が届きました。
他の人へ感銘を与える
スミスは再び活発に教会へ集い、ワードで福音の教義クラスの教師として奉仕しています。彼はあらゆる機会を利用して他の人々に自身の変化と自分が起こした損傷を修復することについて話し、そしてイエス・キリストの教会と福音の証をしています。スミスの物語は彼を個人的に知る人たちに励ましを与えるだけではなく、世界中の何千もの人たちにも感銘を与えました。
この記事はもともとDanielle B. Wagnerによって書かれ、ldsliving.comに”How an Anti-Mormon Attorney Became a Member of the Church He Hated“の題名で投稿されました。
日本語©2018 LDS Living, A Division of Deseret Book Company | Englsih ©2018 LDS Living, A Division of Deseret Book Company
今現在活発に教会に集っている人達が、過去から現在に至るまで何の試練や苦悩無く、平穏な信仰生活を送っているのだと思いがちですが、本当はみなさん、自分と戦っているんだと思いました。
自分だけが弱く、いつも試練に負けそうになりながら踏ん張り、時にはあっさり負けてしまうこともあると感じていました。でも、みんな同じなんだと思えて、少し救われる思いです。
大木姉妹、コメントありがとうございます。みんなそれぞれに弱さがあり、試練がありますね。でも、1人で成し遂げることはできないので、祈り合ったり、手を差し伸べてもらったり、主に導かれたり。教会の友人の助けや聖霊の慰めにわたしも本当に感謝しています。
私は1988以来教会員ですが、途中不活発になったり、あまり熱心な会員ではなかったです。今では神殿結婚して、20歳になる伝道中の娘もいますが、ここまでの道のりは険しかったです。離婚も考えました。ですが信仰のおかげで今は順調です。教会に入ったからというだけで私達の生活が完璧になるわけではないです。毎日の努力が必要です。ですが福音に従って生活しているとより幸せを感じるので、私はこの先ずっと教会員として努力し続けます。みんなそれぞれ試練はあるので、諦めず教会で学び続けて下さい。
コメントありがとうございます。不活発の経験をしたり、離婚も考えていたくらげさんが神殿結婚し、伝道中の娘さんがいる事、今、福音生活から喜びを受けていることは試練の最中にいる兄弟姉妹の大きな希望となりますね。分かち合ってくださってありがとうございます!!
葵さん、貴重なメッセージを翻訳してくださり、ありがとうございます。愛するかたがたのことを諦めない気持ちを強めることができ、とても感謝しています。念のため、彼の動画を見つけましたので、貼り付けさせて頂きます。https://www.facebook.com/HiFiveLive/videos/2126995217521671/
今井兄弟、コメントありがとうございます。お役に立ててなによりです。兄弟のおっしゃるとおりですね。すべては主のタイミングで起こることですが、このような話は希望を与えてくれます。また、わたしたちがどんな選択をしようと、主はわたしたちを愛してくださることを感じることができます。動画も分かち合ってくださり、ありがとうございます。
大好きな友人がこの話を分かち合ってくれました。特に弁護士志望の10才をはじめ孫たちは驚いて聞いてました。悲しい苦しい経験がこれからも沢山の方を助け励ますでしょう❗彼と彼に繋がる皆さんと神様と訳してくださった葵さんに感謝します
コメントありがとうございます。このお話は苦しい経験ですが、読む人には希望と元気を与えてくれますよね。お孫さんにも届いて嬉しいです!翻訳者葵にも感謝のメッセージを伝えたところ、喜んでいました。ありがとうございます!