ラッセル・M・ネルソンは末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒定員会で務めを果たしています。十二使徒として召される前に世界的な心臓外科医で,手術の際に心臓と肺に代わって機能を果たす機械を発明したチームの一員でした。このラッセル・M・ネルソンの伝記の中で,彼の若い頃のこと,心臓外科として奇跡を目撃したことについて学んでください。

ラッセル・M・ネルソンの経歴を紹介するチャート

提供はlds.net

若い

人体にする尊敬の念を育む

医学に進みたいと望む前から,ラッセルは人体に対する尊敬の念を大いに抱いていました。学生の頃,彼は帰宅して昼食をしたものですが,最低でも週に一度はお母さんが牛の肝臓を食べさせてくれました。その当時,肝臓が,コレストロールに悪いという事が知られていませんでした。その代わりに鉄分やビタミンに富んでいて、健康にいいと信じられていました。

しかし,ラッセルは肝臓の味や舌触りが好きではありませんでした。それが嫌いで,できる限りのことをして食べるのを避けようとしました。彼の最良の方法は,お母さんがよそ見をするのを待って,肝臓をポケットに詰め込みました。学校へ戻る道のりで,それを空き地に捨てました。「そうするのは,ポケットには難儀なことでしたが,とても成功しました」と振り返っています。(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

ラッセルは高校でフットボールをしましたが,よくゲームの最中ベンチで座っていました。彼の手を怪我したくなかったからです。自分の手を守ろうと非常な努力をしていて,だれかがスパイクシューズで自分の手を踏みつけるのを恐れていました。彼のコーチは,それに気分を悪くして,彼をベンチに居させました。40年後に,ラッセルはその手で彼のコーチの手術をすることになるのです。(エンサインの記事,「ラッセル・M・ネルソン:神聖な法則の応用」)

 

教会に入る

ラッセルの両親であるマリオンとエドナは,ラッセルの成長期に教会では活発ではありませんでした。しかし,彼らは息子を毎週日曜学校に通わせました。若いころのラッセルは特に日曜学校が好きというわけではなく,しばしばハイドパークで他の抜け出してきたような子供たちとフットボールをして日曜学校をさぼりました。

16歳になったとき彼は改心しました。ホームティーチャーから励まされたために,ラッセルと彼の兄弟たちはバプテスマを受けました。そして,教会での教師たちの影響についても話しています。彼は福音が如何に彼の人生にとって大切か気づき始め,もっと活発で忠実になりました。

ラッセルと兄弟たちは自分たちの両親が教会に不活発であることを心配しました。ラッセルは家の貯蔵庫にアルコールの入った瓶を見つけたことを思い出します。「義憤」を覚え,彼は瓶をコンクリートの床に叩き付けました。不活発でしたが,両親は子供たちを愛していました。何年も経って,彼らは再び活発な会員になりました。(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

 

ダンツェルとの出会い

ラッセルは沢山の時間を聖歌隊やミュージカルに参加して成長期に過ごしました。ですからユタ大学の教授が彼に“Hay foot, Straw foot”という喜劇の無声映画をミュージカルにしたものに加わらないかと尋ねたのも驚きではありません。しかし,彼は医学部進学のコースをとっていて、忙しかったので,丁寧に断りました。しかし,その教授はもう一度やって来て懇願したのです。説得されて渋々参加することにしました。(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

練習に行った時に,ラッセルは最高に美しい声を聞きました。主席ソプラノのダンツェル・ホワイトでした。彼が,気が進まなかった気持は一変しました。「彼女はそれまでに会っただれよりも美しい女性で,結婚したいと思うような人でした。」(エンサインの記事,「ラッセル・M・ネルソン:神聖な法則の応用」)

妻のダンツェルとラッセル・M・ネルソン

ラッセル・M・ネルソンとダンツェル・ホワイト,提供はLDS.org

大学での医学についての勉強はもっと忙しくなりましたが,彼はダンツェルと過ごす時間をつくることがなんとかできました。彼は長い解剖学のラボの朝の後で,彼女や他の友だちと昼ご飯を食べました。彼にはフォルムアルデヒドという実験に使う薬品の臭いがしっかりついていたので,彼女はいつも彼の風上に座ることにしていました。ダンツェルが卒業してユタ州のペリー(50マイルも離れていた)に戻った時にも,ラッセルはしばしばバンバーガー線の電車に乗って彼女に会うために旅しました。

そのような旅のある時,ラッセルはプロポーズをしました。彼女のお母さんが彼らに夕食のためにエンドウ豆をとってきてくれるように頼み,彼らは庭に出ました。美しい日で,そのエンドウ豆畑のまん中でプロポーズすることになりました。最もロマンチックな状況ではありませんでしたが,彼女は承諾しました。(BYUのファイアサイドでのお話「振り返りと決意」;ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

ラッセルとダンツェル

ラッセルとダンツェル・ネルソン,提供はLDS.org

59年

1945年8月31日にラッセルとダンツェルはソルトレイク神殿で結婚しました。ラッセルは医学の仕事と教会の責任で非常に忙しかったですが,彼らが9人の娘と1人の息子を育てている時に,ダンツェルはいつも彼を支持していました。(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

2005年2月12日,ダンツェルは予期せず亡くなりました。(デゼレトニュースの記事,「ネルソン長老の妻ダンツェルは78歳で亡くなる」)ラッセル・M・ネルソンは彼女に感謝して,総大会の話「今こそ用意をする時期である」の中で次のように述べています。

ダンツェルはいとしい,愛にあふれた伴侶というだけでなく,教師でもありました。その高潔な模範からは,信仰や徳,従順,憐れみを学ぶことができました。また,耳を傾け,愛することを教えてくれました。彼女のおかげで,わたしは夫,父親,祖父が受けることのできるあらゆる祝福を味わうことができました。

 

新しい

多くの子供,孫,ひ孫が居たにもかかわらず,ラッセルは永遠の伴侶が居ないという孤独を感じていました。しかし,彼は再びデートを始め,ブリガム・ヤング大学の結婚と家族の教授である,ウェンディー・ワトソンと2006年4月6日に結婚しました。(デゼレトニュースの記事,「ネルソン長老,BYUの教授と結婚する」)

ラッセルは結婚の幸せを再び見出して感謝していることを表明しました。彼が語ったのは,「わたしは2度目に結婚して,天の父によって再び祝福されたことの意味を知りました。しかも,それは思いやりと寛容な精神をもった女性とであり,彼女によってわたしの家族としてのサークルが再び完成しました。何も,絶対に他の何も,夫と妻の夫婦のつながりに匹敵するものがありません。」(教会のニュースの記事,「ラッセル・M・ネルソン:家族:国家の将来に対する希望」)

ウェンディとラッセル・M・ネルソン

ラッセルとウエンディー・ネルソン,提供はLDS.org

 

国における福音

M.A.S.Hの1つのユニットにおける信仰の模

ラッセルは第二次世界大戦の間海軍の予備員に加わり,医学を学び,その働きに対して学費を受けました。朝鮮戦争の時,ラッセルは軍に再入隊し,M.A.S.H.の1つのユニットで大尉として務めました。

韓国にいた時,ラッセルはアイダホ出身のLDS兵士の若者に会いました。その若者の脊髄は銃弾を受けたためにひどく損傷していて,対麻ひを煩っていました。

ラッセルはその若者に慰めの言葉も思い当たりませんでしたが,その若者はラッセルに慰めを与える存在になりました。彼はラッセルに,「僕のことは心配しなくて大丈夫だ,ネルソン兄弟,自分は地上に送られてきた目的を知っているから,つまり,経験を得て,自分の救いのために努力することだから。僕は自分の救いを心を使って行うんだ。両足ではなくね。だから大丈夫!」

ラッセル・M・ネルソンは後に語っている。「その時以来,その若者の信仰はわたしを動機づけ続けています。彼は二度と歩けないという事実をチャレンジとして捉え,それが自分の信仰をさらに強めるものと捉えていたのです。」(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

軍隊在籍時代のラッセル・M・ネルソン

韓国で従軍するラッセル・M・ネルソン,提供はChurch News

 

モルモンについてえる

ラッセルの韓国における医療チームの同僚の二人,夫婦が,教会に興味を持っていると言いました。ラッセルは福音の原則のいくつかについて話し,彼らにモルモン書を渡し,読むように勧めました。1週間して,彼はその本を返して,丁寧にいいました。「ありがとうございました。」そこで次のような大胆な返答をしました。

『ありがとうございました』とはどういうことでしょうか。この本を読んだとはとても思えない感想ですね。きちんと読まなかったのでしょう。どうぞもう一度持ち帰って,読んでください。それから返していただきたいと思います。

その夫婦は自分たちがモルモン書にざっと目を通しただけであったことを認め,当惑しました。3週間後,彼らはラッセルのところに戻って来ました。その時には彼らは目に涙を浮かべていました。彼らはラッセルにモルモン書を読んで,それが真実であると知ったと話しました。彼らはもっと学びたいと思いました。ラッセルは後になって,その同僚たちにバプテスマを施しました。(総大会の話,「信者の模範になりなさい」:『ラッセル・M・ネルソン』)

韓国で少年と写真を撮るラッセル・M・ネルソン

ラッセル・M・ネルソンと韓国人の少年,提供は Church News

 

人生の教

筏に掴まる

ラッセルとダンツェルは子供たちを連れて,コロラド河を筏で下りながらグランドキャニオンの美しい景観を眺めることにしました。最初の日は順調に行きましたが,2日目に彼らはホーンクリークの急流にさしかかりました。ラッセルが前方に恐ろしい急勾配を見た時,一方の腕をダンツェルの,もう一方の腕を一番下の娘の周りに伸ばして,彼らを守ろうとしました。

その代わりに,その急流のせいで筏から投げ出されてしまったのは彼の方でした。ラッセルは水の下でもがき,彼が水面に出ようと思う時はいつも,筏の底にぶつかってしまいました。とうとう,何とか水面に出ることができ,心配している家族によって筏の上に引っ張り上げてもらえました。

その旅の後半で,ネルソン家族は危険なラーバの滝にさしかかろうとしていました。その時、ラッセルは筏を岸につけて,家族に語りました。何が起こっても,「ゴムの筏は水の上にとどまっている。筏についているロープにありったけの力で掴まっていれば,大丈夫だ。もし筏が転覆しても,そのロープにしっかり掴まっている限りは大丈夫だ」と語りかけました。それから彼は一番下の娘に,自分が筏のロープにつかまっている間に,自分の身体に掴まるようにいいました。彼らはそのようにして,その急流を安全に過ぎることができました。

ホーンクリークの急流ですんでのところで死ぬところでしたが,そこから学んだことは:

人生を歩んでいくときに、困難なときにおいてさえ、父親が反射的に妻や子どもたちを抱き締めることは必ずしも目的を達成する最善の手段とはなりません。しかし、もし父親が救い主と福音の鉄の棒に忠実につかまっているならば、家族は救い主と父親につかまりたいと思うでしょう。

ラッセルは人生の荒波の中で自分たちを安全に運んでくださるのは救い主であることを,それで主こそ,わたしたちがしっかり掴まらなければならない御方です。(総大会のお話,「あなたの家を整えなさい」)

子供たちとネルソン夫婦

ラッセルとダンツェルとその子供たち,提供はLDS.org

それは何とかなる

心臓外科であり,日曜学校の中央会長として務めることは難しいことでしたが,ラッセルはそれをどうにかなし遂げました。それは,英国のマンチェスターの地域大会に参加するようにいわれるまででした。後になってかれはロシアのモスクワで科学上の論文を発表する予定の時期と大体同じころであることに気づきました。

ラッセルがタナー管長にその件について相談しました。彼はラッセルに,「両方できるでしょう。心配しないように。うまくいきます。」しかし,ラッセルがそれを行なう唯一の方法は,モスクワからマンチェスターに行き,それからまたモスクワに戻ってくる方法でした。その時,ロシアのビザは一度しか出入国ができないものでした。ラッセルは自分とダンテェルのためにもう一つのビザを得る必要がありました。

ラッセルは長い時間をかけてロシアの担当者と話し,自分にもう一つのビザを発行してくれるように説得しようと試みました。役所の職員の一人が唯一の望みは,直接外務大臣のアンドレイ・グロムイコに申請してみることですと伝えました。

ラッセルは申請をして待ちました。マンチェスターへの飛行機が出発する数時間前になって,やっと彼はグロムイコの事務所からのビザを手に入れました。それによって彼とダンツェルがロシアに再入国できるようになりました。タナー管長は正しかったのです。何もかも結局うまくいきました。(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

 

とともに行なう外科手

試練の後にける

心臓外科医であることは容易ではありません。というのは手術の際,どの患者も命がけであるからです。ラッセルはある夫婦との難しい経験をしました。彼らの最初の子供は,外科手術がまだ発達していなかったため命を失ってしまいました。彼らは,ラッセルのところに心臓に問題のある2人目の子供を連れてきましたが,この子供も亡くなりました。最後に,心臓疾患のある3人目の子供をラッセルのところに連れてきました。しかし,彼が最善を尽くしたのにもかかわらず,その子供も死を逃れられませんでした。

彼は絶望して帰宅しました。彼はダンツェルに2度と心臓の手術をしないと言って,その一晩中嘆いていました。しかし,次の朝,彼女は彼に次のように語りかけました。「あなたが学んできたことを,他の人たちが嘆きながら再び学ぶよりは,あなたが今止めるよりは,やり続けた方かいいのではない?」

ラッセル・M・ネルソンは後になって次のように語っています。「彼女の思いやりある知恵は,わたしだけでなく,わたしがもう少し熱心に働き,もう少し余計に学び,もっと完成に向かって努力することによって,安定して成功する手術をわたしがすることによって,わたしの執刀する患者のみなさんにとっても助けとなったのです。」(エンサインの記事「ラッセル・M・ネルソン:従順に学ぶ」;ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

外科医時代のラッセル・M・ネルソン

ラッセル・M・ネルソン博士,提供はLDS.org

 

召しと大動脈弁にするの祝福

ラッセル・M・ネルソンが医師として働いた時代は、心臓に関して新しいことを学んでいる過程にあった医学の時代でした。そして,その医学は心臓外科については成功することに苦闘していました。大動脈弁の手術を受けた人の生存率は,特に低く,ラッセルとどこの心臓外科医の心にも重くのしかかっていました。

そんな時に,ラッセルはスペンサー・W・キンボールによってステーク会長に召されました。キンボール長老は冗談混じりに,ラッセルに「わたしがここで面接した人は皆,あなたが大丈夫だと言っていますが,あなたには時間がありませんね。ありますか?」

ラッセルはそれに応えて,「わたしは,それについては分かりませんが,わたしには信仰があります!」そうして,彼はキンボール長老にどうしてそんなに忙しいのか,大動脈弁の手術についての心配を打ち明けました。長老がラッセルをその召しに聖別した時に,彼に大動脈弁の手術後の死亡率が減り,手術をしても疲れないように,彼に祝福しました。そのとおりに実現して,召しと職業において成功したのです。(エンサインの記事「十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老」)

 

室における

ラッセルは一度三尖弁への手術を辞退したことがあります。そのような手術はなされたことがそれまでなかったからで,彼には方法が分からなかったからです。しかし,患者は彼のところに戻って来て,もし手術しなければ死ぬので,やってほしいと懇願したのです。

手術の最中に,ラッセルは啓示を受けて,その手術を完了することができました。どこを切開し,どこを縫うかということが明らかにされました。その手術は成功しました。ラッセルはそのことについて次のように語っています。

「その経験が,信仰と祈りなどの力という要素が働いていることを説明しています。人々が自分のために祈っている時,そして自分でも祈っている時,断食の力も受けて,自分を謙遜にさせ,教えられ易くして,学ぶことができ,時には啓示によって導かれます。」

祈りと断食によって,ラッセルは人の命を救う知識を得たのです。(ラッセル・M・ネルソン:父,外科の医師,十二使徒)

 

本当のしの力

ラッセルはメキシコのマンザニヨの小さな漁村での医学会に出席していました。そこで,同僚のひとりが病気になり,訳もなく内出血し始めました。彼らは医学の専門家が居る部屋に居ましたが,手術の用具もなく,病院は近くになく,病院まで病人を連れて行く手段もありませんでした。

その同僚は出血し続け,急速に弱っていました。その時彼は祝福を願ったのです。ラッセルは彼の知人たちの助けを受けて祝福を与え,その病気の人に出血が止まると約束したのです。出血は確かに止まり,家に無事に帰りました。ラッセル・M・ネルソンは後に語っています:

「人々は病んでいる身体や,骨折している身体を自分でどうかすることはほとんど何もできません。しかし,癒す本当の力は神の賜物として与えられます。神はそのような癒しの力の一部が神権の権能に伴って与えられるように計画なさり,自分では十分に治すことができない時に,人類を祝福なさいます。」

医学の領域では有名な心臓外科医でしたが,ラッセル・M・ネルソンは主が本当の癒し手であることを,また頼りにできる方であることを認識していました。

心臓の模型を手にしているラッセル・M・ネルソン

人間の心臓の模型を手にするネルソン博士,提供はLDS.org

将来の言者の手

ラッセルの最も有名な手術の一つはやがて預言者になる人に行なわれました。スペンサー・W・キンボールの心臓は大動脈弁の病気で過労状態になっていました。大動脈弁を取り替える必要がありました。それはまさに,何年も前にキンボール長老が,ラッセルが成功できるように祝福した手術でした。

手術の前に,ラッセルは大管長会から祝福を受けました。その中で,ラッセルは「手術は失敗なく行なわれ,すべてのことが順調で,わたしのふさわしくないことには恐れる必要がなく,わたしが主によってこの手術を行なうべく養われてきた」ことを告げられました。

最初の切開をした時,驚くべきことに出血がありませんでした。手術は一分の狂いなく行なわれました。失敗は全くありませんでした。その後で,ラッセルは御霊によって印象づけられたのは,スペンサー・W・キンボールがいつか教会の預言者になるということでした。(エンサインの記事「十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老」)

 

十二使徒に召された後

ラッセル・M・ネルソンは心臓外科医として働き続けますが,その間にはまた日曜学校の中央会長や地区代表の召しも務めました。1984年の4月7日,彼は十二使徒として召されました。

カンファレンスセンターの説教台に立つラッセル・M・ネルソン

ラッセル・M・ネルソンの近影,提供はLDS.org

医者としての経験を通じて,彼はいつも自分の人生に神の御手があることを認識していました。そして神が人間の肉体を創られたことを尊敬の目をもって捉えていました。「ラッセル・M・ネルソン長老:神聖な律法を応用する」というエンサインの記事で,彼は次のように語っています。

40年間、神によって創られた身体を扱う仕事をしてきて,神の律法に関わることを100%やって来ました。これらの律法は,争うことのできないものであり永遠のものです。そして,それは使徒としての召しにも当てはまります。それは外科医師の働きに当てはまるのとまさに同じように働きます。

ラッセル・M・ネルソンの生涯は,彼が信仰の人であるばかりでなく,職業や教会での責任を通して愛の人であることを示してきました。

ラッセル・M・ネルソンについてもっと学ぶためには,彼の Facebookページ を訪れるか次のリンクをクリックしてください。

 

この記事はAbbie Thorneによって書かれ、lds.netに投稿されました。