ジェフリー・R・ホランドは、末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒定員会の使徒として奉仕しています。しかし若い時には4つのスポーツでレター表彰を獲得し、とても人懐こかったので、ガソリンスタンドの人気者でした。(リアホナ記事「十二使徒定員会―ジェフリー・R・ホランド長老」)ジェフリー・R・ホランドのこの経歴では、長老の経験や他の人の影響がどのように今日、彼を力強い信仰の模範に築いたのかについて読むことができます。
教えられた教訓と学んだ教訓
時間通りに帰宅する
母親はジェフリーが子供時代や十代の頃、どれほど素直な子供であったかを覚えています。「あの子は全く手のかからない子供でした。いつも教会に行って、神権の務めを果たしていました。」
ジェフリーはかつて母親が10時の門限でパーティーに行かせた時に従順であることを示しました。腕時計を見て9時45分ということが分かると、時間通りに帰宅できるようにセント・ジョージから反対方面の家まで走ったのです。(「ジェフリー・R・ホランド」)
祈りと分かれ道
ある日、ジェフリーは息子のマットと一緒にユタ州南部に日帰りの旅に行くことを決めました。ジェフリーは自分が子供の頃見た景色を息子にも見せたかったのです。パトリシアはお弁当を作り、軽トラックを運転して一日探索をしました。
太陽が沈み始めたので家路につきました。しかし行きには気づかなかった分かれ道に来ました。ジェフリーはどちらの道を行ったらいいか分からなかったので、息子と祈りました。二人とも右の道が家につながるという印象を受けました。
しかし、4キロ行ったところで行き止まりになってしまいました。この道路は明らかに正しい道ではなかったのです。彼らは分かれ道に戻り、左の道を行きました。息子のマットはジェフリーに左の道が正しい道なのに、なぜ二人とも右と感じたのか尋ねました。ジェフリーは次のように言いました。
「主がわたしたちに望まれたのは、わたしたちができるだけ早く安心して自分が正しい道を通っていて心配することはないと理解して行くことだと思うよ。」
最初は結果的には間違った道を行こうという印象を感じたので、「同じ確信と同じ確実性を持ってもう一方の道が正しい道だ」ということが分かりました。ジェフリー・R・ホランドは後に神は「うまく行かなそうなとき、わたしたちに祈り、信頼し、信じるように、そして諦めないように期待しておられます」と言いました。(モルモンメッセージ「間違った道」)
交際と結婚
パトリシアとの最初の出会い
高校では、ジェフはスポーツが大好きでした。彼はバスケットボール、フットボール、トラック競技、野球でレター表彰を受けました。しかし彼が受けた恩恵はスポーツをすることだけではありませんでした。さらなる恩恵はチアリーダーのそばに、特にパトリシア・テリーのそばにいなければならなかったからです。
パトリシアの家族は最近セント・ジョージに引っ越してきました。彼女は競技をしているジェフリーを見るのが好きでした。「ジェフはいつもすばらしい運動選手でした。わたしは特にバスケットボールをする彼を見るのが好きでした。彼の能力は素晴らしいと思いました。それに彼の足が格好良かったんです」と彼女は言っています。
しかし、ジェフに対するパトリシアの最初の反応はそれほど愛想の良いものではありませんでした。彼女はいとこに自分が「学校一のかっこいい男性だけど、ひどいいじめっ子に会った」と手紙を書いたことを覚えています。しかし彼女は「当時彼には我慢がならなかったけど、不思議なことに、そんな時でも自分が大きくなったら彼と結婚するという気がする」とも言いました。(Ensign、“Jeffrey R. Holland: A Style All His Own”)
パトリシアの影響
ジェフリーは教会では忠実に福音を愛していましたが、伝道に出るための影響はパトリシアのおかげであると言っています。これは伝道に出ることが義務と考えられる前のことで、彼とパトリシアは2年間交際していました。
家族の誰も伝道に出た人はいませんでした。でもわたしがパット(パトリシア)に会った時、そしてわたしたちがかなり真剣になった時、彼女はわたしが伝道に出るべきだと固く信じていたのが分かりました。ジェフリーは伝道に出るという自分の望みを育て始めました。彼はイギリスで2年間忠実に奉仕し、それが人生にあってどれほど大きな影響を与えたかを覚えています。(“Jeffrey R. Holland” Ensign、“Jeffrey R. Holland:A Style All His Own”)
パトリシアの元に戻る
彼が伝道中、パットはジェフのことを待っていました。彼女は次のように述べています。「彼が帰還した時、わたしたちはすぐにすべてが整ったことが分かり、2週間後に婚約しました。」しかし、彼らの人生には多くのチャレンジがありました。一つはパットが音楽を学ぶために1年間ニューヨークに行くことでした。「わたしたちは自分たちのロマンスが2年間もってまだ大丈夫なら、わたしが音楽の勉強をしている間、さらにもう1年耐えられると確かに思ったのです。」
しかしニューヨークでのパットの教授たちはプロの音楽家になるために留まって練習するように何度もプレッシャーを与えました。ジェフリー・R・ホランドは次のように述べています。「あの時は大切な決断を出す時でした。一方で彼女はブロードウェーやカーネギーホールでの魅惑的なドラマがあり、他方ではちっぽけなジェフリー・ホランドがユタ州セント・ジョージにいました。幸いわたしが勝ちました。」
しかしニューヨークでのパットの音楽だけが二人にとっての変化ではありませんでした。ジェフリーが伝道に出発する前、彼は医者になる勉強を計画していました。しかし伝道の終わり頃、彼は教師というかなり低い収入のキャリアの道を追求することを決めました。
ジェフはパットがこの変化にどんな反応をするか心配でした。しかし安心したことに彼女はとても支えてくれました。彼女は言いました。「あなたが教えたいなら、それはわたしがあなたにしてほしいことよ。」彼が自分たちはお金持ちになれないかもしれないと話した時、彼女は「かまわないわ」と言いました。ジェフとパットはユタ州セント・ジョージ神殿で結婚しました。(Ensign、“Jeffry R. Holland: A Style All His Own”:Church News、“Faith is the new general authority’s gift”)
新婚夫婦、世の荒波に直面する
ジェフとパットが結婚した後、彼らは学業のためにブリガム・ヤング大学まで旅をしました。二人は授業料がどれだけかかるか、仕事、不確かな未来に直面した時どれほど恐ろしく思ったかを認めています。ジェフは次のように言っています。「本当に危機に瀕しているようでした。わたしたちは無名で、顔も知られていない、日の当たる場所を探しているちっぽけな学生でした。」
ある時、ジェフリーは将来についてとても圧倒される思いで、パットに向かってこう言いました。「僕達できると思う?この人達と伍して行けると思う?…僕達は間違ったことをしてしまったのだろうか?僕達はここを引き上げて田舎に帰った方がいいのかな?」パットも恐れの気持ちはありましたがこのように言いました。「もちろんわたしたちは頑張れるわ。」二人は共に恐れに立ち向かい、前へと進んだのです。(道がどれほど長く険しくとも)
奉仕の務めに召される
「自分が持っていたものを自覚するようになる」
人生の展望を永遠に変えることとなった経験をしたのは、ジェフがイギリスに伝道に出てたった2週間のときでした。そこには80歳でいつも宣教師の自転車を無料で修理する教会員がいました。ある晩、この男性は大雨の中、宣教師のところまでやって来て病気の妻の癒しの儀式をしてくれないかと頼みました。
その女性は重篤で、死にかけていました。彼女は非常な痛みのため2日間眠ることができませんでした。長老たちは彼女に癒しの祝福をしました。彼らが帰ろうとすると、その年老いた会員は二階から降りてきて、目に涙をためて彼女が眠っていることを伝えました。ジェフリー・R・ホランドは後に次のように述べています。
「わたしは霊的な啓示、つまり自分が持っているものを認識するようになったと感じながら雨の中を泣きながら出て行ったことを鮮明に覚えています。伝道中にはこれよりもほかにかなり奇跡的なことが起こりましたが、この最初の顕れほど、平凡な、教会育ちの、セミナリーに出席していた、自分の価値や持っている神権、自らの信仰を本当に吟味するためにどこかに行ったこともない南ユタ出身の少年に深く触れたことはおそらくなかったでしょう。」
ジェフリーは伝道は「自分の生涯で霊的に大きなターニングポイント」であり、これはただの始まりにすぎなかったと言っています。(「ジェフリー・R・ホランド」)
両親の犠牲
ジェフリーは自分の持ち物を売り払い、充分な資金が準備できたと思いました。当時伝道に召されたとき,宣教師の費用を均等にする制度はまだありませんでした。宣教師は赴任先の伝道部で費用を全額負担していました。イギリスの伝道部はお金のかかる伝道部の一つであり、ジェフリーは伝道の最後の数か月までもつかどうかは分かりませんでしたが、信仰を持って前進しました。
彼の伝道中、両親も家を出て伝道に出ました。それはジェフリーが奉仕していたイギリスの伝道部でした。彼はジョークで伝道に出る前と伝道を終わる時に両親にさよならを言わなければならなかったただ一人の宣教師だったと言いました。しかし両親が伝道に出た後、彼はこれからどうやって大学の学費、部屋代、結婚資金を払ったら良いか分かりませんでした。
彼は地元の銀行に行き, 家族ぐるみの友人である支店長に自分の口座の残高を尋ねました。彼は驚いた様子で言いました。「ジェフ,君のお金は全部そのままだよ。ご両親から聞いていないのかい。君が伝道から戻ったときのためにと,ご両親は君の口座から1セントも引き出さなかったんだよ。知っていると思っていたよ。」
ジェフリーは後に父親は2年間、新しい背広やシャツ、靴も買わず、ジェフの伝道の費用を賄うため母親はデパートで仕事をしていたということを知りました。ジェフリー・R・ホランドは後にこう述べています。「この教会で,どれほど多くの父親がわたしの父とまったく同じことをしてきたことでしょう。この厳しい経済情勢の中,どれほど多くの母親がわたしの母と同じことをしているでしょう。」(総大会「あなたがたは信仰があるので」;リアホナ「十二使徒定員会ジェフリー・R・ホランド」)
過ちを犯す
父親になるという栄誉
ジェフリーがエール大学に行っていた間、彼は仕事、学業、召しで非常にストレスを感じていました。そのため、ある日帰宅したとき、5歳の息子のマットが母親に口答えをしたことを知ると、癇癪を起しました。彼は小さなマットに対して怒り、泣いている息子を一人でお祈りするように子供部屋に追いやってしまいました。パットはその時起こったことについて何も言いませんでしたが、ジェフは次のように言っています。「彼女は言う必要がありませんでした。わたしはひどい気持ちがしました!」
その晩ジェフはなかなか寝付けませんでした。眠っている間とても不思議な夢を見ました。夢の中で彼とマットは引っ越しのために2台の車に荷物を詰め込んでいました。彼はマットにそのうちの1台を運転するように言いましたが、マットは泣き叫びました。「パパ、置いてかないで。僕運転の仕方がわからないもの。僕はまだ小さすぎるから。」しかしジェフはもう1台の車で行ってしまいました。
その夢の中でジェフは自分がしたことを理解しました。彼は車を降りて、道を走って戻りました。道の途中で彼がマットに運転するように言った車を見ました。それは道路わきに寄せてあり、年取った男性がマットを見守っていました。マットは遊んでいてもう自分の父親のことを赦していました。ジェフはその年老いた男性に感謝しながらもとても恥ずかしくなりました。その男性は「君はこんな難しいことをするために息子を一人にしてはいけないよ。そんなことを言ってはだめだ。」
ジェフは夢から覚め、息子の部屋に急ぎ、眠っている息子を抱きかかえました。彼は涙を流しながら、息子に謝り、パパも時には間違いを犯すけれども息子を愛していると話しかけました。「わたしは息子に自分が彼の父親になったことを誇りに思い、そのような偉大な責任にふさわしくあるように心を尽くして務めると話しました。」(天国のように地上でも)
山野を横断して旅をする
ジェフリーはエール大学の大学院に行こうとしていました。そのため彼と家族は持ち物を車と引っ越し用トラックに詰め、コネチケット州への長旅のためにセント・ジョージを出発しました。55キロほど行ったところで、エンジンが過熱しました。ジェフは家族と車を置いて、水をもらいにカナリービルの小さな町まで5キロ近く歩きました。またエンジンを起動させ、セント・ジョージにゆっくりと戻りました。
車を検査しても、何も悪い所は見当たりませんでした。そのためホランド家族はもう一度コネチケットに向けて旅をしました。ハイウェーのほとんど同じ所で、また車のエンジンが過熱しジェフは歩いてカナリービルまで行きました。
二度目だったのでジェフは気まずい思いをしました。水をくれた男性が「あんた、あるいはあんたにそっくりな人はあの車のラジエーターを新しいのにした方がいいよ」と言った時は特にそうでした。ジェフは車まで乗せてもらいましたが、その男性は「どれくらい今まで運転して来たの?」と尋ねました。
ジェフは「55キロです」と言いました。
「あとどのくらい行かないといけないの?」
「4,200キロです。」
「その旅行が君と、奥さんと、子供たちでできるだろうけど、その車じゃあ誰も目的地には行けないよ。」その男性は自分が正しかったことを証明しました。
(General Conference talk “An High Priest of Good Things To Come”).
選択と変化
職業の選択
ジェフリーはBYUで宗教教育の修士号を取りました。彼は勉学を続けると決心する前に、カリフォルニア州ヘイワードとワシントン州シアトルでインスティテュートを教えました。彼はステーク会長会で奉仕し、インスティテュートのクラスを教えながらエール大学のアメリカ研究学科でさらに修士号と博士号を取るために懸命に勉学に励みました。
卒業後、ジェフリーは職業選択に関してエール大学で教える、BYUで教える、あるいはインスティテュートで教える、という3つの道がありました。3つの選択のうちインスティテュートで教えるのは一番あり得ないことだと思っていましたが、ジェフとパットが祈った時、そうすべきだと感じました。「わたしのエール大学の教授は気が狂ったのではないかと思いました」とジェフは言っています。「彼らはそのようなことは想像だにできなかったのです。」
しかしソルトレーク・シティーでインスティテュートを教え始めてから間もなく、彼の決断の理由がはっきりしました。彼はメルキゼデク神権MIAのディレクターの召しを受け、その後BYUの宗教教育学部長になり、教会教育部の理事になったのです。(Ensign「ジェフリー・R・ホランド―その人となり」)
新しいBYUの学長
ジェフリーが教会教育部の理事として奉仕していた時、大管長会は話をしたいと言ってきました。大管長会はジェフに次期のBYU学長になって欲しいと言いました。非常に衝撃を受けたジェフは声をあげました。「キンボール大管長、冗談でしょう!」スペンサー・W・キンボールが言った答えは「ホランド兄弟、この部屋では冗談はあまり言わないのですよ」ということでした。
しかし、最初の反応にもかかわらず、ジェフリーはBYUの学長として素晴らしい時間を過ごしました。彼によればBYUは「自分にとって大好きな場所」であり、彼はそこで学長として9年間務めました。(リアホナ記事「ジェフリー・R・ホランド長老―十二使徒定員会」)
使徒に召された後で
勉学に励み、また教えながらもジェフとパットは3人の子供を育てました。七十人第一定員会で奉仕している時、ジェフリー・R・ホランドは1989年4月1日に十二使徒定員会の使徒に召されました。(「ジェフリー・R・ホランド」)
総大会の「すでに現われた祝福の大祭司」の話の中で、ジェフリー・R・ホランドは教会の会員たちに最後まで堪え忍ぶように励ましました。
「あきらめるな。やめちゃいけない。歩くんだ。頑張って。助けも得られるし幸せにもなれる。顔を上げて。必ず良くなる。神を信頼して祝福が来ることを信じるんだ。」
ジェフリー・R・ホランドは福音にあって強く、神の言葉を信じ、信仰において力強い模範となっています。
ジェフリー・R・ホランドについてさらに学ぶには、長老のフェイスブックを読むか以下のリンクにアクセスしてください。
- LDS.orgの記事「預言者や使徒とはどういう人たちでしょうか ジェフリー・R・ホランド長老」
- LDS.orgの記事「中央幹部ならびに中央役員 ジェフリー・R・ホランド長老」
この記事はAbbie Thorneによって書かれ、lds.netに投稿されました。
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