宗教的な運動とは、宗教改革をもたらすための運動です。たとえば、プロテスタントの改革は、ローマ・カトリック教会の誤りを改革しようと起こった、16世紀の宗教的なものでした。その結果、改革されたプロテスタントの教会が設立されました。今日、およそ4万1千のキリスト教の教派(キリスト教の中で、共通の名前と構造と教義を持つ、他と区別可能な宗教団体)が世界中にあります。
マーチン・ルター、プロテスタントの改革、さらには変革
プロテスタントの改革は、公には1517年10月31日の土曜日に始まりました。それはドイツ人の僧侶でありカトリック祭司、神学の教授であったマーチン・ルターが、95か条の論文(免罪符の権能と効力について)をドイツのウィッテンベルクのキャストゥル教会の扉に釘で貼付けたことによります。その前文の中で、彼は自分の考えに対して議論したい人は、口頭でも筆記ででも公に応じることを書いていました。
「真理に対する愛と、それを明るみに出したいという情熱を持って、以下の論点がウィッテンベルクの施設の中で議論されますが、そこでは神父マーチン・ルターが、修士と聖なる神学の学位を持ち、その施設の中では有罪を宣告された囚人に、死の準備をさせるために任命された聖職者の役割を果たしていますが、そのルターが議論をリードします。それゆえ、彼は、出席し、わたしたちと議論出来ない方は、書面をもって参加くださるようにお招きします。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。」 [1]
教会から破門されることが保留になっているとはいえ、マーチン・ルターは、教会に対する苦情を述べ続きました。彼が頑として撤回しないことで、異端者として断定され、レオ10世教皇により、1521年1月3日木曜日づけで、教会から破門されました。
キリスト教に対する変革に関しての最も大きな変化の一つが1522年に起こりました。それは聖書がラテン語からドイツ語に翻訳されたことです。人々が初めて、聖なる書物を所有出来るようになったのです。この展開に伴って、人々は自分で聖典を読み、祈りによって聖典の意味することを理解出来るという考えが起こりました。それは革命的なことでした。その時まで、一般人は宗教に関してはすべてプロの聖職者に頼らなければならなかったからです。1526年に聖書が英語に翻訳され、かくして改革がさらに進み、世界中に教会が生まれ、その中には1530年代に創立した英国国教会もありました。
それでも改革はドイツを一掃し、スイスや英国やそのほかの欧州諸国を巻き込み、戦争まで引き起こしました。ドイツの農民戦争(1524−1526)や30年戦争(1618−1648)は宗教改革がもたらした態度や社会の変化から、直接的にも間接的にも影響を受けています。[2]
改革のもう一つの副産物は、「聖餐」についてです。改革派の教会では、「聖餐」に使われるパンやぶどう酒は、イエス・キリストの身体と血の象徴として捉えられ、カトリック教会のように主の文字通りの身体と血とは考えられなくなりました。
結婚についても再検討されました。カトリックでは聖職者が妻をめとることを認められませんでしたが、ルターはカトリーナ・フォン・ボラ(彼が41で、彼女は26)と結婚してその慣習を変えました。彼らには6人の子供が生まれ、互いに献身し合い、神に仕えました。マーチン・ルターが行ったことは、ある人々にとっては大したことではないと思われるかもしれませんが、それは文字通り世界を改革したのです。
プロテスタントの改革とモルモニズム
モルモン教のプロテスタント改革に対する立場は、それがジョセフ・スミスによって進められる福音の完全な回復に対する準備であったという見方です。ですから、プロテスタントの改革は純粋なキリスト教への回帰を先導しました。しかし、その業は天からの啓示と回復無しでは完成出来ませんでした。改革の指導者は、啓発された人々で大事な進歩を促しましたが、直接的な啓示無しには真実の福音や神の御名によって行動する神権の権能を回復することはできませんでした。
ジョセフ・スミスによる福音の回復は、宗教改革後の世界という文脈の中で起きました。ジョセフは彼らの教えに基づいて建設するという意味で、改革者の後継者に当たるとは考えられません。彼が主張するのは、彼の得た知識や神権の権威は直接啓示によったものであって、ほかの著者のものを研究した結果ではなかったのです。かくしてジョセフ・スミスは、改革を継続したのではなく、福音の新たな神権時代を始めたのでした。 [3]
たぶん、改革の結果として最も目立ったことは、個人の自由に対する注目が増したことでしょう。一つの「普遍的な」教会が終わり、多くのほかの教派が成立したことで、政治的な世界に大いなるかく乱が起こり、とりわけアメリカ合衆国の独立にも関係しました。合衆国が設立されるためには多くの重要な要素が要りました。その中にはプロテスタント改革者の政治的宗教的な伝統がありました。
19世紀初期の宗教的な環境は主にプロテスタントでしたが、異なった教派の間で非常な混乱と騒動が起こっていました。大きな数の宗教的なリバイバルがその当時起こりました。そして、様々な教派の牧師たちは、16世紀の人道主義者や改革者が行っていたように、聖書を読むことを強調しました。しかし、聖書の同じ箇所に書かれているメッセージを同じように解釈することは誰にもできませんでした。
ジョセフ・スミスたちがその当時使っていたのは、1611年版の欽定訳聖書の英語版でした。実際、聖書の中に答えを捜そうとしたのは、ジョセフの知識や真理を求める探究心でした。ヤコブ1:5−6を読んで、若いジョセフは、自分の質問に対して熱心な祈りを通して捜そうとしました。そして神にお会いする最初の個人的な経験をしたのです。彼が読んだ聖句は以下のようです。
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰を持って願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」
改革はまた、集会の自由を与え、会衆として集まり、自分たちの礼拝行事を行い、自分たちのことを自分たちで管理する宗教が始まるように門戸を開きました。そこで強調されたのは、宗教は個人的なもので、一人一人の崇拝者と神との間の一対一の関係であるということです。
主流のプロテスタントと共通する特別な教義はそれ程多くはありませんが、末日聖徒にはイエス・キリストに対する献身的な信仰があります。主を世の贖い主として、また個人の救い主として見なしていることで共通しています。このような信仰はマーチン・ルターやほかの書記の改革者を動機づけたものですし、預言者ジョセフ・スミスの生涯と業において中心的な位置を占めるものでした。 [3]
この記事はキース・L・ブラウンによって書かれました。