成功は雪だるま式です。うまくいくと気分がよくなり自信が他のことにも及び、態度、選択、そして他の領域での成功にも影響します。同様に恐れ、心配、そして失敗も考え方に影響し、問題や失敗を繰り返しがちになり、結局は自己認識、失望、絶望へと続いていきます。これらの悪影響を防ぐには、自分のすることをあまり気にしないようにすることです。しかし無感動であることは、目標の定まらない砂漠を彷徨うことです。それも嫌です。わたしがしばしば疑問に思うことは、どうすれば大切なことは気にしながら、同時にあることは気にしないでいられるかということです。どのようにして、こだわりを捨てることができるでしょうか?
考え過ぎたり心配し過ぎたりしているとき、ある意味では無頓着になっているわけではありません。むしろ気にし過ぎているために、私の幸せや成功を知らぬ間に損なっているのです。例えば、わたしが初めて成人の日曜学校(日曜日に行われる聖典を学ぶクラス。経歴・年齢に関係なく、教師として割り当てを受けた人が教える。)を教えた時、とても緊張して立っているのがやっとでした。堅固な土台についてデモンストレーションをするとき、震えがひどくておもちゃのブロックが次から次へと崩れていくので、テーブルの上にしっかりと固定する必要がありました。幸い、わたしのクラスの参加者は聖書のことをよく理解していて、わたしにも忍耐してくれました。彼らは大事な教えを見過ごさないように配慮し、わたしを励ましてくれました。
こだわりをなくす
ある週の日曜学校で、クラスの人たちに読んでもらうために聖句が書かれた小さくて細長い紙を配っていました。彼らの浮かぬ顔を見て、彼らが今日もわたしのつたないレッスンに我慢しなければならないので申し訳ないと感じました。わたしはそのような気持ちを克服しようと決意していましたが、どうすればいいのか分かりませんでした。ただ、一つのことは確かでした。わたしは杖を放してうつ伏せに倒れる危険を冒さなければならないということでした。つまり、こだわっている気持ちを解放する必要があったのです。
次のクラスで、それを実行に移しました。その週はわたしの家族に関する問題が起こり、特に大変な週でした。そのため、いつもより準備に時間を取ることができませんでした。わたしは天の父と相談しました。わたしは家族のことを第一にし、できる限り自分の時間を準備にあてていたので自信がありました。どんなことが起ころうと心配しないと心に決め、十分に力を尽くしたので神が助けてくださると信じました。
結果はどうだったでしょうか?クラスが終わった時、わたしはがっかりしませんでした。それは驚きでした。がっかりどころか、とても祝福されたのです。クラスではすばらしい話し合いができました。一人一人の愛を感じ、メッセージに希望を感じることができたのです。今では、どんなに準備ができていないと感じても決してパニックにならないよう努力しています。集中して、今やっていることを一生懸命行ない、自分を信頼することができます。そうすることで、自分ではコントロールできない様々なことに「こだわること」から解放されます。
今では自分の肉体的そして精神的なバランスを取ることができ、結果が自分の思い描いていたものと違っても戸惑ったりしません。頻繁に自分を振り返ってこだわることをやめると、ストレスいっぱいでやっていた時よりはるかに良い結果を出すことが出来ます。今していることに情熱を持って取り組み、想像していないかった結果に終わっても、自分ではコントロールできないことだから気に病む必要はない、と割り切ることにしています。
そう割り切ることによって、自分の行動が力強いものになります。何も躊躇することがないからです。わたしは全力をつくし、活き活きと元気でいることが好きです。ありのままの自分でいることができるし、誰もそれを妨げることはできません。
重力と戦う
時々、自分には成功するための努力をさぼる傾向があることに気づきます。子供たちが幼児退行したように振る舞うことがあり、わたしは何かおかしいのではないかと心配していました。しかしわたしが最近学んだことは、学び成長したいという願いがある一方で、今のままでいたい、人にやってもらいたい、責任は引き受けたくない、怠惰でいたいという願望があることが極めて正常だということです。
重力と同じように、今のままでいることや快適に過ごしたいという方向に働く力は、生き残りのためにはいいことですが、可能な限り成長するためには邪魔になります。時にはリラックスし、後ずさりし、今のままでいるという願望がごく普通の考えであると理解することで、後退が起こったときにも忍耐できるようになりました。そうなったところで世界が終わってしまうわけではないですから。
気にしていないとか、もっと悪い場合には無感情になるという考えから、心配やストレスを避けようとする必要はありません。それは普通のことで、そういう状態になっても前進し続けることができるのです。
時には気を使い、また別の時には気を抜くことができると思っています。ただ、いつも容易にできるとは限りません。時には自分の行動がもたらす結果や報いに執着して、横道にそれてしまいます。わたしは賞を得たいです!きっとこれからもひどく失望したり、自己憐憫に陥ったりすることもあるでしょう。しかしそれは長く続かないはずです。なぜなら、わたしは人生で忘れてはならない教訓を知っているからです。「結果は様々ある。」どのような結果が出てくるのか、保証はありません。将来にわたってもそれは変わらないでしょう。ですからわたしたちは十分に気を配り、成功するために準備する必要があるのです。
ベストを尽くすだけで十分だと理解した上で、最善の努力ができますように。
この記事は元々、ダレル・S・ホスキソン によって書かれ、ldsblogs.comで投稿されたものを有泉芳彦が翻訳しました。