起こること,なすこと,考えることまでもが自由にならない人生とはどんなものか想像してみてください。これはサタンが心に描いた人生ですがこれは神のわたしたちへの計画とは正反対です。
選択の自由とは自分の人生で選択する権利があるということで,これは神の贈り物の中でもっとも大切なものの一つです。選択の自由があるので,わたしたちは永遠の生命について責任を持ち,表面的には不公平に見えることもある人生をたいらにするのです。わたしたちは自分の選択の結果なのです。
前世で神から与えられたもの
神がわたしたちを創造された瞬間から,わたしたちには選択の自由が与えられました。わたしたちは,最初に霊として創造され,生まれる前は神と共に住んでいました。その間に,どんな人になりたいか,どのような行動をするか,神の計画がわたしたちにとって重要か否か,選択の自由を使いました。ある程度わたしたちは自分らしくなりますが,もちろん地上でする選択は,わたしたちがどんな人間になるかに影響を及ぼすのです。
神がわたしたちに話したときには,地球が創造されるところで,わたしたちは神とその計画を知っていました。神の計画はわたしたちが地上に生まれ,家族を得て,その過程で肉体を得るということでした。天で学んだことはすべて忘れてしまいましたが,キリストの御霊はわたしたちと共にあり,「本能的に」知っていることがありました。進んで真理を受け入れ,御霊の促しに耳を傾ける人になるように選択していたなら,真理を聞いたとき,それが分かるでしょう。
選択の自由と、その目的
わたしたちがこの地上にいるのは選択をするためです。― 救い主を見出し,真の福音を見出す方法を学び,それに従うか,拒絶するかを選ぶのです。選択は自分たちでできますが,結果はそうではありません。行動を選ぶことはできますが,結果は選べません。自分の経験から,また選んだことから,わたしたちは学び,成長します。わたしたちは神の計画されたような人にも,またそうでない人にもなれるのです。選ぶのはわたしたちですが,選んだことには結果が伴います。
神は完全な生活,つまり天へ安全に戻るために正義が要求するような生活をわたしたちが送ることはできないことを御存じでした。ですから神はわたしたちを贖うために救い主を用意されました。この救い主イエス・キリストなしにわたしたちは天に戻ることはできません。なぜなら完全になることができないからです。イエスはそれを果たすことのできるただ一人の存在として,自ら何も見返りを求めず受け入れたのです。彼は栄光が神に帰すことを望んでいました。
これは神の計画でした。サタンはその当時はルシフェルと呼ばれていましたが,その計画が気に入りませんでした。彼はわたしたちにもっと良い方法があり,計画に変更を求めるべきだと説得しようとしました。そのかわり彼は自分を救い主として選んだらどうかと提案しました。わたしたちが間違いをおかすことのないように,彼がわたしたちのすべての行いや思いを支配するつもりでした。その代償としてわたしたちは彼だけを礼拝するのに同意させるのです。
サタンの計画は地上に来る目的を全く潰すことを知りながらも,残念なことにわたしたちのうち3分の1はサタンに従うことを選びました。そのような計画の中では成長はありません。彼らは地上に来る機会や,自分たちで拒んだイエス・キリストの贖いによる恩恵を否定されたのです。
残りの者は地上に来ました。選択の自由があるとわたしたちは間違いから学びます。神はわたしたちのためにすばらしい計画をお持ちですが,それには自分のではなく,神の道に従うことを選ぶ必要があります。御霊に導かれるとき,わたしたちは不必要な間違いを避け,必要なことから学ぶことができます。試練は人生にはつきものですが,自分の選択をする前に神に祈り,相談することを拒んで必要以上の試練を自分に与えてしまうことがよくあります。わたしたちはすべての試練から成長することができますが,すべての試練が成長のために必要というわけではありません。
選択や状況に対するわたしたちの態度によりわたしたちに何が起こるかが決まります。モルモンの預言者,トーマス・S・モンソンはしばしば決断が運命を決定し,小さな選択でさえも大きな影響を与えると述べています。賢明に使うとき,選択の自由はすばらしい贈り物になるのです。