神の永遠の救いの計画において最も重要な要素の一つは「選択の自由」であり、わたしたちすべてが善と悪を選ぶことが保証されています。主が行われるすべてのことはこの権利が常に敬われていることが確かであることを意味しています。神はイエス・キリストの贖いによってどのような不公平さが人の死すべき状態(地上での人生)で生じても正すことができることをご存知です。それゆえに神はわたしたちが選択の自由を使って、時には一時的にひどいことを起こしたとしても、使うことを許されました。
神の計画
末日聖徒イエス・キリスト教会(度々間違って「モルモン教会」と呼ばれる)はわたしたちが永遠の存在であるという真理を教えています。わたしたちは自然に誕生して存在しているのではなく、前世においてわたしたちの愛する天の御父の霊の子供でした。この真理についてのヒントは聖書にあり、創世記では主は彼らが地上に存在する以前にすべてのものを創造されたと述べています。高価な真珠(当教会の四大聖典の一つ)はこのことについて、丹念にそして明確にすべてのものは地上に物質的に創造される前にそれらは霊的に創造されと述べています。また聖書は「天で戦いがあった」ことも触れて、地球が創造される前にルシフェルが追放され、後にサタンとなったことも言及しています。
神の業とは「…人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと」です(モーセ1:39)。人の死すべき状態でわたしたちはキリストの贖いによって復活することが保証されています。「永遠の命」とは神のみもとで永遠に住むということです。これはわたしたちが神のようになるときにのみ起こり得るのです。
前世で霊の状態だったときに、わたしたちは選択の自由を実践できるように地球にやって来ることを知っていました。主はわたしたちがつまずきそして堕落し、自分たちの力だけでは決して清くなって神の身元である天に入ることができないことをご存知でした。こうして神はわたしたちのふさわしさと昇栄するために必要なふさわしさの違いを埋め合わせできるように、わたしたちのために救い主イエス・キリスト、すなわちその無限の贖いを備えられました。わたしたちは選択の自由を行使して救いの計画を承認及び同意し、キリストをわたしたちの救い主として支持しているのです。
しかし、前世にいたもう一つの霊であるルシフェルはキリストの地位を奪おうとしました。彼は選択の自由を排除してすべての人を救い、御父の栄光を自分自身にもたらそうと思いました。これはすべての計画を否定し、成長することを遠ざけ、わたしたちは彼の力に支配されてしまいます。ルシフェルと彼に従った者たちは追放されて悪魔やその使いとなりました。彼らの成長は止まってしまいました。彼らは決して肉体を持つことはありません。彼らの目的はすべての人を自分たちのように惨めにすることと神のもとへ戻るのを妨げることです。
これは御父がわたしたちに望んでおられる選びとは反対のものです。このように相反するものは地上に大混乱をもたらしますが、わたしたちの選択の自由を保証することは必要でした。物事を選ぶときには反対のものが必ずなければならないのです。モルモン書はこのように説明しています。
「それは、すべての事物には反対のものがなければならないからである。荒れ野で最初に生まれた息子よ、もし事物に反対のものがなければ、義は生じ得ないし、邪悪も、清さも惨めな状態も、善も悪も生じ得ない。そうすると、すべての事物は混じり合って一つとならざるを得ない。したがって、事物が一体となるならば、正も死も、朽ちる状態も朽ちない状態もなく、幸不幸も、意識も無意識もなく、死んだ状態で続かなければならない。
「そうすると、すべての事物は無用に造られたということになり、したがって、創造には何も目的がなかったことになる。そのため、この一体となった事物は神の知恵とその永遠の目的、また神の力と憐れみと公正を滅ぼしてしまうに違いない。
「もし律法がないと言うならば、罪もないと言わなければならない。もし罪がないと言うならば、義もないと言わなければならない。そして、もし義がなければ、幸福もない。そして、義も幸福もなえれば、罰も不幸もない。そしてこれらのものがなければ、神は存在しない。神が存在しなければ、わたしたちは存在せず、大地もない。なぜならば、作用するものも作用されるものもなく、事物の創造はあり得なかったからである。そこで、すべての事物は消えうせていたに違いない(2ニーファイ2:11−13)。」
「…神が実在し、すべての事物を、すなわち天地とその中にある万物を、作用するものも作用されるものも創造されたからである。
「また、神がわたしたちの最初の先祖と野の獣と空の鳥、要するに、創造されて現在あるすべての事物を創造された後、人の行く末にかかわる永遠の目的を達するために反対のものが備えられなくてはならなかった。すなわち、禁断の実に対しては命の木というようであって、前者は甘く後者は苦かった(14−15)。」
「そのようにして、主なる神は思いのままに行動することを人に許された。しかし人は、一方に誘われるか他方に誘われるかでなければ、思いのままに行動することはできなかった。…一人の天使が天から落ち、彼は神の御前で邪悪なことを求めたので、悪魔になったと思わざるを得ない。
彼は天から落ちて、とこしえに惨めな状態になったので、全人類もまた惨めな状態にしようとした。」
「ところで見よ、アダムがもし背かなかったならば、彼は堕落せずにそのままエデンの園にいたであろう。そして創造されたすべてのものは、創造された状態そのままで存続したに違いない。また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。そして、アダムとエバは子供を持たなかったであろう。また、不幸を知らなかったので喜びもなく、罪を知らないので善を行わず、罪のない状態にとどまっていただろう。
しかし見よ、すべての物事は、万事を御存じある御方の知恵によって行われてきた。
アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。
そして時が満ちると、人の子らを堕落から贖うためにメシヤが来られる。人の子らは堕落から贖われているので、すでにとこしえに自由となり、善悪を知るようになっている。彼らは、神が下された戒めによって、大いなる終わりの日に律法に伴う罰を受けるほかは、思いのままに行動することができ、強いられることはないのである。
そのため、人は肉において自由であり、人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は、すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである(22−27)。」
神はわたしたちに素晴らしい贈り物をくださいました。選択の自由は、たとえ悪を許しても、わたしたちは選択する能力によって進歩することができ、それによって学び、成長し、成熟することができます。もし、わたしたちがキリストに従うように選択の自由を使うならば、主はわたしたちの間違った選びからわたしたちを救ってくださるのです。