11歳の息子の学校のものを見ていて、長い巻いた紙に気がつくとそれは彼の人生の年表であることがわかった。それは課題だったものであり、予想通りの事が書かれていた。――生まれる、学校で脳震盪を起こす、救急車に乗る、引っ越す、バプテスマを受ける。
そして、最もショックな一文があった。「漫画であることを止める。」
漫画であることを止める?それはどういう意味?わたしが訪ねると息子は顔を赤らめた。わたしは、彼が冗談を言っているのだと思った。
しかし、彼は口ごもった。正直な子どもであることを知っているわたしは、彼が分の正直さに恥ずかしがっていることに気がついた。
なぜ漫画だと思うのかと尋ねると、「現実」感がなかったからだと答えた。
彼は、自分が実際の男の子だと気がついた時は、最も大きな安心だったと、その時を振り返って言った。もう消されることを恐れず、自分が何者かわかりワクワクしていたのだ。そのことは彼に、目的意識を与え、より努力をする動機となった。
わたしたちは何者か?
自分が漫画だと思っている人には、他には会ったことはないが、自分が何者か、どこから来て、なぜここにいて、どこへ行こうとしているのか、ということを知りたいと切望する多くの人を知っている。
そのような質問に対する満足する答えがあるのだろうか?(しばしば間違ってモルモン教会と呼ばれる)末日聖徒イエス・キリスト教会の信条は、理論的に、そして霊的に、欠落部分を埋め、自分が何者かという意義のある感覚を与えてくれた。
前世
モルモンの教義によると、出生が始まりではなく、死が終わりでもない。命は永遠なのである。わたしたちは、今までも、これからも、永遠の存在なのである。(教義と聖約93:29) 今、ここが、永遠の途中なのだ。わたしたちは皆、この地上にきて肉体を得る前に、天父の霊の子どもとして一緒に住んでいた。これが時に、「第一の位」(高価な真珠、アブラハム3:26、ユダ1:6、エレミヤ1:4-5)または、「前世」と言及されるものだ。その期間、わたしたちは深く愛され育まれた。LDS宣教師マニュアル「わたしの福音を宣べ伝えなさい」には、このように書かれている。
神はわたしたちの霊の御父です。わたしたちは文字どおり神の子供です。神は、わたしたちを愛しておられます。わたしたちは、地上に生まれる前、天の御父の霊の子供として生活していました。けれども、わたしたちは天の御父のような状態ではなく、肉体をもって、この世での生活を経験しない限り、御父のようになって、御父が受けておられるすべての祝福にあずかることはできませんでした。
神の大いなる目的、つまり、神の業と栄光は、わたしたち一人一人が、神のすべての祝福を享受できるようにすることです。神は、この目的を成し遂げるために、完全な計画を用意しておられます。わたしたちは、地上に来る前に、この計画を理解し、受け入れました。聖典の中で、神の計画は、憐れみに満ちた計画、幸福の計画、贖いの計画、そして救いの計画と呼ばれています。
わたしたちが10代後半の青少年に、巣を離れて自分の道を行くよう後押しするのと同じように、幸福の計画は、神の霊の子どもたちが肉体を得、知恵と力において成熟するために神のみもとを離れることを求めている。わたしたち各々は、キリストの光を与えられ、天の家に戻る道を見つけるために十分に装備される。
現世
霊と体が人を成す(教義と聖約88:15)。わたしたちの霊が体に入るとき、忘却の幕が、前世の状態を覚えているのを妨げる。しかし、わたしたちは一人ぼっちではない。神は、わたしたちの成長を助け、喜びを見つけ、みもとに戻れるよう、聖典と預言者を備えられた。神はわたしたちを愛し、個々をご存知で、わたしたちの祈りを聞き、答えてくださる。前世を覚えていなくても、わたしたちの霊は、真実に気づき、応答するのだ。
キリストの光は、善悪の識別を助けてくれる内なる警告(良心)である。わたしたちがその声に従うとき、わたしたちの最善の利益となる選びをするであろう。もしわたしたちが、肉欲の誘惑に屈して正しいと感じていることを無視すると、わたしたちの欲望の声が大きくなり、わたしたちを守ってくれる、静かな小さな声に反応しなくなるのだ。
わたしたちは皆、天の御霊を授けられているので、人生の困難に打ち勝つ力を持っている。最近の預言者で、イエス・キリスト教会の大管長、エズラ・タフト・ベンソンは、こう述べている。
永遠の存在者である私たちは、各自の内に天与のひらめきを宿しています。久しく人生経験を重ねた者として、私は天父の子供たちは本質的に善であると確信しています。人は、平和に生活したい、良き隣り人でありたいと願い、家庭と家族を愛し、より高い水準に生活を改善しようと努め、良いことを行いたいと考えています。私は神がこのような人々を愛しておられるのを知っています。
この世の生涯は一時的なものでしかありません。私たちは、昇栄に到達するための第一の教え、つまり主の福音の計画に対する従順を学ぶためにこの世にいます。
七十人であるL・ライオネル・ケンドリックは、自由意志を使うことは、現世において不可欠であると述べている。
道徳的な行為主体性は、力と可能性の永遠の原則です。愛ある天父は、この偉大なる贈り物と、それを通して私たちの神聖な行く末を決める機会を下さったのです。
私たちの肉体は、「本質的に肉欲的で、みだらで悪魔的」かもしれないが、わたしたちの永遠の霊はその肉体を支配する力を持っています。道徳的な行為主体性を正しく使うならば、わたしたちの考え、感情、そして行動をコントロールすることができます。
死
肉体の死は、死すべき体と霊が分かれることである。肉体が死ぬとき、霊は生き続ける。イエス・キリストの贖いと復活により、肉体の死は一時的なものに過ぎない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(Iコリント15:22) すべての人が復活する。すべての人の霊が、その体と再び結び合わされるのである。
現在の預言者でイエス・キリスト教会の大管長であるトーマス・S・モンソンは、このように教えた。
死の意味を理解するには、人生の目的を理解しなければなりません。信仰に頼るだけのかすかな光は、啓示がもたらす真昼の太陽の光のような確信へと変わっていく必要があります。わたしたちはその啓示によって、人がこの世に生まれ出る前から存在していたことを知っています。
前世において、私たちは確かに、現世に来る機会が与えられたことを知って喜び呼ばわった神の息子や娘の中にいました。現世での生活は、困難でありながらも、欠かすことのできないものでした。自分たちの目的が肉体を得て試練を克服し、神の戒めを守ることを証明することだと知っていました。御父は、現世の性質上、人が誘惑を受け、罪を犯し、完全の域に達しないであろうことを御存じでした。
そこで、目的を達成できるように、わたしたちのために苦しみを受け、命をささげてくださる救い主を備えられました。アダムの堕落の結果、人の肉体は死すべきものとなりましたが、救い主はわたしたちの罪を贖われたばかりでなく、贖いの一部として肉体の死をも克服してくださいました。
救い主は生き返られました。人類の歴史の中で、最も輝かしく、慰めとなり、安らぎを与える出来事が起きました。主が死に打ち勝たれたのです。ゲッセマネとカルバリの苦痛と苦しみはぬぐい去られていました。アダムの堕落は贖われました。
最初の復活祭の朝、空になった墓は、「人がもし死ねば、また生きるでしょうか」と尋ねたヨブの疑問の答えとなりました。わたしの声の届く限りにいるすべての人に宣言します。人がもし死ねば、また生きるのです。啓示によって与えられた真理の光があるので、わたしたちはそのことを知っています。
「それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」
十二使徒定員会のラッセル・M・バラードはこう述べている。
私たちは、死を敵とみなす必要はありません。完全な理解と準備により、信仰が恐れに取って代わり、希望が絶望に取って代わるのです。主はおっしゃいました。「それゆえ、死に至るまでも恐れてはならない。この世ではあなたがたの喜びは満たされないが、わたしにあってあなたがたの喜びは満たされるからである。」(教義と聖約101:36)主はこの贈り物を与えられました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)
この短い投稿メッセージでは、永遠の命への簡単な工程表以上のものを載せるのは不可能だ。しかしわたしは、モルモンの神学論が答えを持っていることに毎日感謝している。わたしが考え付く質問よりも、多くの答えを。
わたしの幼い息子が、肉体が「実際のもの」であることを知ってワクワクしたように、わたしが今までもこれからも自分自身であると、知っていることに感謝している。わたしは神の娘である。神はわたしを愛し、わたしは神を愛している。まだまだ学ぶこと、生きること、することがあるが、幸運にも、そのためには永遠があると知っている。
この記事は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員、ジャン・マイヤーによって書かれました。