完璧主義が子育てに及ぼす影響

『ミスは許されない』完璧主義の態度が存在すると最も悪影響を及ぼすもののひとつに子育てがあげられます。もし、わたしの子育ての役割が子供たちが完璧な選択だけをすることだと信じていたら、わたしも子供も大変な問題児です。

夫のダグはソルトレークバレー地域で非教会員として育ちました。彼と友人たちは教会員のことを『末日パリサイ人』と呼んでいました。たくさんの会員の中が、他人の目で見えるように良い行いを演じようとしていたからです。ダグのまわりの教会員の少数の家庭では、強制的に戒めを完璧に守らせようとする両親がいました。それ以外のたくさんの会員の家庭では、御霊も感情も欠けている『信仰深い』演技が行われていました。そのような家庭で育った子供はたいてい反抗し、家族や教会からできるだけ遠くに逃げようとするものでした。

主は、愛を通してわたしたちを励ましてくださいます。不健康的な罪悪感や恥じらい、非難、不可能な『べき』たちを持たせることは主の方法ではありません。例えば、子供の頭に浮かぶすべてのことや行動すべてを親が支配する『べき』とすれば、そのような支配は可能です。しかしそのような支配は不可能であるという事実が、その『べき』が偽りであることの証拠です。子育ての上でみじめに感じたりするならば、それは神様の見方で物事を見ていない、つまり神様の真理を見ていないということです。主の観点から物事を見るためには、劇的な変化が必要です。わたしは自分にこう言い聞かせます。「もしこのネガティブな思いが真実なら、こんな闇は感じないはず。光を見られるように助けてください。」

子供に「今すぐ完璧になる」のではなく、悔い改めるよう教える

子供が間違った選択をすると親として失格だというのは間違った考えです。神様がご自身の子供であるわたしたちに選択の自由を与えたとき、わたしたちは間違った選択をするということをご存知でした。だから、救い主を送られたのです。神様はサタンの全員に正しい行いを強制するという計画に断固反対されました。親としての役目は子供に無理にでも正しい選択をさせることだと思っている人がいるのは、なんという皮肉でしょうか。

主は聖典の中で親の役割を大変明らかにされました。それは子供を罪から守ることではなく、そのかわりに「わたしたちはキリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、キリストのことを預言し、また、どこに罪の赦しを求めればよいかを、わたしたちの子孫に知らせるために、自分たちの預言したことを書き記すのである。」(ニ―ファイ第二書25:26)

モーセ書6章には、贖罪と救いの計画についての魂を奮い立たせるようなメッセージが書かれています。子供たちは世の初めから罪がない、という記述の後で、このようにあります。

「主はアダムに語って言われました。『あなたの子供たちは罪のうちに宿されるので、まことに彼らが成長し始めると、彼らの心の中に罪が宿る。そして、彼らは善を尊ぶことを知るために、苦さを味わうのである。そして、善悪を知ることが彼らに許される。それゆえ、あなたの子供たちに次のことを教えなさい。すなわち、どこにいる人でもすべての人が、悔い改めなければならない。そうしなければ、決して神の王国を受け継ぐことはできない。』」(モーセ書6:55-57)

この聖句から、子供には選択の自由が与えられているために、悔い改めることを教わる必要があることがはっきりとわかります。そして、子供に悔い改めを教えることは戒めだということもわかります。58節にはまた「さて、わたしはあなたに戒めを与える。あなたの子供たちに次のことを率直に教えなさい。」

「ミスは許されない」というのはサタンの計画で、神様の計画ではないということを常に覚えておく必要があります。神様の計画は、悔い改めを教え、実際に悔い改めることです。しかし、完璧主義の福音において、サタンの計画はまだまだ活発です。作家兼カウンセラーのペギー・マクファーランドは次のように言いました。「子供に選択の自由を混乱させる親に、神様は頭を抱えます。サタンはその行為のせいで天から追放されました。」

木なしでは実は結ばれない

「木」、もしくは主の助けなくして、自分自身の努力のみで実はなるはずだ、と思い込ませるのが、完璧主義の最悪の点です。霊的に重要なことに挑戦するとき、主の助けなしに自分ひとりで取り組もうとすると必ず失敗します。イエスは言われました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)

教会機関誌エンサインに掲載された「木と枝」という記事では、木は枝に栄養や水分を与え、枝を持ち上げ、支え、植物の錨であると指摘しています。ジェフリー・R・ホランド長老は次のように言いました。

「わたしたちにとってキリストはすべてであり、わたしたちはいつまでも揺らぐことなく、確固として、永遠にイエスにつながっていなければならないのです。福音が実を結び、生活に恵みを与えるようになるためには、人類の救い主である主と、その聖なる御名を冠した主の教会とにしっかりとつながっていなければなりません。主はぶどうの木であり、強さの源、そして永遠の命の唯一の源です。主にあってわたしたちは耐え忍ぶだけでなく、決して敗れることのないこの聖なる業において勝利を収めることでしょう。」(ジェフリー・R・ホランド長老『わたしにつながっていなさい』リアホナ2004年5月号)

完璧主義という偽りの福音がもたらす結果は、混乱、もがき、もともと不可能なのにあらゆることを自分の手で修復できるようにもっと良い人間にならなくてはいけない、という思いです。キリストの力に包まれると、とても優しく、安全に感じます。全部ひとりで抱え込まなくていい、天からの助けなしに無駄な努力をしなくていいとわかると安堵の思いに包まれます。

わたしたちがキリストの力と自らの『力のなさ』を認識し、キリストに助けを求めるとき、キリストはわたしたちに安全な避難所をくださいます。実際のところ、わたしたちは堕落しこの地に陥り、キリストのみがわたしたちを『救い出す』ことができるのです。モーセは、『一人残され』地に倒れていたとき、自分自身で立ち上がることができませんでした。そして「今これで、わたしは人は取るに足りないものであることが分かった。このことは、思ってもみないことだった。」と語りました。(モーセ1:10)『力のなさ』からわたしたちを救えるのは、キリストのみです。それは、わたしたちがキリストにとってのすべてだからです。